私は、昭和54年6月に豊島区で産まれました。
父は塗装の仕事、母は専業主婦でした。
3年後の昭和57年3月、妹が産まれました。
妹は、生まれつき障害を持って産まれてきました。
左半身麻痺・あざなどあり、入退院を繰り返していました。
父は酒癖が悪く、母や私に暴力を振るう事がありましたが、どんなに酔っていても妹にだけは暴力を振るわなかったのです。
父はいつも、仕事が終わると最寄りの駅から電話をしてきていたのですが、母の声のトーンで酔っているのか、酔っていないのか、すぐにわかるようになりました。
ただの酔っぱらいなら良いのですが、暴れたりするので、毎日ビクビクしながら生きていたように思います。
家の中がガラスだらけなんて日常茶飯事で、引き出しの中の書類や洋服など、あらゆる物が散らかされたりしました。
醤油や煮物の汁の跡が今でも実家の壁には残っています。
母は、今でも私とは合わないです。
昔の母も今の母も、言い方が悪いですが、理想の母親ではなかったし、母だと認めたくない気持ちでいっぱいです。
「離婚したら、私はN(妹)だけ連れて出て行くから」と何度言われた事か...
まだ幼稚園だった私は、孤独感ハンパなかった。
子供ながらに、愛されてないのかなと思った記憶がある。
妹が入退院を繰り返していた為、母はずっと妹に付きっきり。
だから、幼稚園の親子遠足には父も母も来なかった。
担任の先生と手を繋いでいた。
周りの子は皆、ママと楽しそうに歩いてる中、私だけ先生と...すごく羨ましかった。
仕方のない事だとわかっていたけど。
正直、妹を恨んだ事もあったな。
親戚に預けられたり、施設に預けられたりもした。
あんまり記憶には残ってはいないけど、今思えば、これも仕方なかったんだろう。
小学生では、2回の転校があり、ストレスで円形脱毛症になった。
仲の良かった友達との別れは、やっぱりキツかった。
新しい学校でも友達ができるのか不安だった。
そして、小学生の記憶の中で、忘れたくても忘れられない出来事がある。
小学5年生、学校でマラソン大会があった。
体育と音楽だけは、いつも成績が良かった私。
頑張りました、マラソン。
学年で、何と3位になりました。
生まれて初めての表彰状🏅
父と母に早く見せたくて、ルンルンで帰ったのを良く覚えている。
...しかし、母には、「こんなん貰って、お父さんに怒られるよ!」と...
父が帰って来て、表彰状を見せると...「体育だけできたって生きて行けない、もっと勉強しろ!」と怒られたんだ...
泣きながら、表彰状を破り捨てた...
これをきっかけに、頑張る事を辞めた私。
頑張ったって、意味がないと悟ったからだ。
中学生になり、早く自由になりたいと思う事が多くなった。
この頃、私は今でも思い出すと辛い出来事が起きる。
ある日、いつものように酔って暴れる父を必死で止めていた。
このままでは、母が危ないと思った私は、近所の人に連絡して来てもらった。
今までにも何度か来てもらってケンカの仲裁に入ってもらっていた人だった。
父は、いつもと違い、「誰が呼んだんだ!人のうちの事に口出しするな!」とすごい勢いで叫んだんだ。
酔いが冷めた次の日は、「覚えてない」といつも苦笑いしている。
しかし、この時だけは違った。
「おはよう」と話しかけた瞬間、父は「うるせー!!」と...
あれ?とは思ったけど、気にせずにいた。
夕方になり、父が帰宅。
今日は酔ってない。
「おかえりなさい!」と言うと...シカトして、お風呂に入ってしまった。
私は夜ご飯を済ませ、いつもと変わらずTVを見ていた。
父がお風呂から出て来るなり、「お前はあっち行ってろ!」と怒鳴った。
すぐに昨日の事で怒っているのだとわかった。
母は、そんな光景も見てるはずなのに、「早く、お父さんにご飯運んでよ!」と言って来た。
困りながら、ご飯を運ぶと、今度は父が、「だから、あっち行け!」と言う。
私は違う部屋に逃げた。
母が私の文句を言っているのが聞こえた...
次の日も、またその次の日も、私は父にシカトされ、あっちに行けと言われ続けた。
私以外の家族、父・母・妹は3人でご飯を食べ、TVを見て笑っている。
隣の部屋にポツンと1人...
死にたい...と初めて思ったんだ。
1週間これが続いていた。
父が急に、「お風呂、入っちゃえ!」と言って来た。
急いでパジャマの用意をし、脱衣場に行った。
父がいた...
下を向き、黙っていると、「ごめんな」と。
私は、我慢してきたものが一気に溢れ出し、声を殺して泣いた...
やっと口をきいてもらえる嬉しさと安心した喜びで、その日はずっと泣いていた。
酔っていない父は今でも大好きだ。
優しくて、何でも相談できる。
しかし、母とは今でも合わない。
これから、2人の介護が待っている。
優しく看れるか心配だ。