今日は鎌倉へ出かける。たぶん戻りは夜遅くになるだろう。はたからみればおかしな食事会だ。それぞれがそれぞれの欠けた部分を補いいるように、でもそれはしらんふりして楽しい時間を過ごしている。そういう大人の関係もある。そのあたたかな時間を大切に過ごす。それだけのことで、欲も何もない。擬似家族のように。
今朝の朝日新聞の折々のことばに 「どうせ」という認識を受けて、「いっそ」といくか、あるいは「せめて」とでるか というものがあった。どうせダメなら、「いっそ」といって勝負に出るか、それとも「せめて」と希うのか。人生にはそんな時がある。「せめて」という淡い願いがかないそうに思えるが・・・。私が体験したのは「いっそ」と諦めたときのほうか吉と出て、「せめて」と希うと駄目なことがあった。
「いっそ」何々してしまおうか、と覚悟を決める。欲はもうない。そんなときに、不思議と救いの手が差し伸べられた。「せめて」このことだけはと願うと、このことすら逃げてしまう。人生と皮肉なものだと思った。「欲」が絡むと結果はそんなときは上手くいかなくなる。そもそも「どうせ」という言葉がいけないといわれたことがある。「どうせ私なんて・・・・」特に私はその言葉を好んだ。たぶん楽だからだろう。それがいい結果を生まないこと、相手にとても失礼なことを学んだ。
不幸な自分を作ってはいけない。そう思うようになったのは最近だ。「私とあなたは不釣り合いだから・・・・」ということが相手にはどんな失礼なことか を知るようになった。「どうせ」もなく、「いっそ」もなく、「せめて」の哀れみもなく、ただその運命を受けて止めて生きる、それが相手に対する敬意のような、物事を大事にすることのように思うのだ。
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