住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

戒名について

2005年06月09日 18時08分10秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教では、人が亡くなると必ず戒名を付け葬儀をするのが慣例化している。そう誰もが受けとめている。以前、もうかれこれ8年ばかり前のことになるが、毎日新聞で、葬祭についてのコラムがあり、そこに「仏教で葬式をするのに戒名がいらないなんてあり得ない」そう書かれていた。

早速私は投書した。日本以外の仏教国で戒名を付けて死者を葬る習慣のある国があるのかと問うた。毎日新聞からは何の返答もなかった。私たちが当たり前だと思っている常識はやはり世界の非常識なのだ。しかしだからといって、私は戒名が意味のないものだと言いたいわけではない。

その意味するところを伝えずに習慣化し、それが結構な金銭的な負担にもなっている現実こそが問題だと思うのだ。前回引導を渡すということにも言及した。引導とは死者を仏との縁を結ぶために導くこと。この世への執着を断たせ、仏教に入門し戒を授かり、名を改めて、仏の教えを学ぶべく様々な作法を学んでいただくのが葬儀で行われる引導作法と言われるものだ。

間違いなく、来世でも仏教の教えにまみえ、心を磨いていただけるように。そうして心の修行を重ねて、生まれ変わり生まれ変わりして、ついには悟りを得て成仏して下さるようにと願うものだと私は了解している。だからこそ戒名が必要になってくる。俗世の名ではなく、仏教に入門していただくための名前なのだということになる。

しかし、他の仏教国では、特別の名前を付けることなく、三宝への帰依と在家の戒律だけを改めて授かり、それから簡単なお経を唱えてもらうだけでおしまいになる。なぜ日本だけ、戒名を付け出家の儀礼を取り入れたのか、それが誰にもはっきりしたことが分からないようだ。それを疑問にも思っていないのであろう。

が、おそらく私が思うには、平安時代から天皇が皇位を譲ると出家し、お坊さんとして葬られたことが関係していると思う。それが時代と共に一般化したのではないか。その当時葬儀を仏教で行う習慣自体がなかったであろう。だから、当時お寺にとって大檀那であった皇室での葬儀が我が国で始めて行われ、その時葬儀次第が出来た。お葬式の作法次第として始めて創作されたのではないか。その為、その次第の中心に出家得度の儀礼を挿入した。

なぜなら坊さんになっていなかった皇族たちにとって、天皇にならい死後であっても坊さんになる儀礼をして葬って欲しかったのではないかと思われるからだ。そうした葬儀の次第が、おそらく公家や貴族たちにも用いられるようになっていった。そして鎌倉時代以降官僧から遁世した坊さんたちによって、一般の人々に対して仏式の葬儀をする際に参考にされたのが、この皇室で用いられた葬儀次第だったのではないか。そうしてどの宗派でも葬儀では出家の儀礼を執り行うことが一般化した。

だから戒名が必要になり、院号が付いている。院政というのがあるように皇位を退いた後も○○院様として政治に権力を持たれた方もあったが、その○○院というのが今日の院号の出所ではないかと思われる。一般には、お寺に対する貢献の度合いによって最初は○○信士、○○□□信女といった4文字、6文字だったものが、次第に長くなっていったのであろう。

そして、さらには庄屋など土地の有力者には「○○院□□○○居士」というような長い戒名が授けられるようになっていった。諱(いみな)と字(あざな)というのがあるように、現世での通称が道号と言われる院号の後の二文字、字であり、その次の二文字居士や大姉の前に位置する二文字がいわゆる戒名であり、諱に当たる。

そして今日では、このような9文字もの立派な戒名が普通に授けられるようになり一般化しているが、その背景には、先の戦争での英霊に対する配慮がある。敬意の念から、とにかくお国のために命を捧げられた方には、特にそれに相応しい戒名を差し上げようということから年若く逝った英霊に対して、この9文字戒名が授けられた。

そして、そうした英霊たちの親が亡くなるときには、殉死したとはいえその子供が9文字の立派な戒名で葬られているのに、親が7文字、6文字というのでは格好が付かないということになって、お寺へ相応の戒名料を差し出すことによって、この9文字の院号戒名が授けられるようになったのではないかと思う。

戒名が悪いのでもなく、葬式が悪いわけでもない。ただそのことを良く了解しないままに高い戒名をもらって、分からない葬式をしなくてはいけないと思わせてしまうことが問題なのではないかと思う。施主がよくよく納得するように、きちんとことの成り立ちを説明する責任がお寺側にはあるのではないかと思う。
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8 コメント

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天皇・皇族の仏教への貢献の反映として (Sahpuhr)
2010-12-10 14:02:50
葬儀に得度の儀礼が挿入される由来に関してとても興味深いご指摘だとおもいました。天皇・皇族が仏教に果たした役割の大きさです。


知らない方々も多いので、この記事を補足する意味で以下を加えさせていただきます。

日本の仏教を牽引したのは明治維新以降に流布されてきたく
そ鎌倉新仏教の祖師たちではなくて、歴代天皇や皇族であったという一面の史実はあまり知られていないです。 私はいつもその話題になってしまうのですが、嵯峨天皇は弘法大師から受明灌頂までうけた直弟子であったことは不思議なことに大覚寺のぱんふれっといも書かれていない。 仏教信者として天皇の究極の姿が明治以降に歴代から外されてしまった光厳天皇(法名:無範勝日光智)です。ところで鞆の浦にはおでかけになられたでしょうか? 雲照律師も歴代天皇が仏教定着に果たした不可欠な役割を説いておられたことはご存知だと拝察いたします。


天皇に関しては嘘が広められ続けているのは最近出た
雑誌『歴史人』12月号(天皇の謎と秘史)の中の記事をみても判ることです。

フレイザーの『金枝編』を聞き齧った人が「祭司王」という言葉を誤解して天皇は祭司王(神官王)であるという意味に使ったのが広がっていて、その語が使われている。

そもそもフレイザーの言う意味は神官の王権ではなくて、王の影のようなものであって必ずしも人間でなくてもよい存在のことです。
 そのようなものが日本に存在したとするならそれは仁和寺の門跡である「御室」という法親王です。一般の門跡寺院はその真似にすぎない。

その記事で所功先生がこのまぬけな用語を用いておられるのにはがっかりしました。

歴史上に神官が王権を取った例は古代エジプトの王朝のいくつかやサーサーン朝ペルシャなどいくつかあるが、それらでは皇族たちは神官の修行が義務づけられていて、神官でない者は皇太子になれなかった。日本では即位前に神官だった天皇は神話的なのを含めても一人もいない。退位後に坊さんになった天皇はたくさんいても神官になった人は一人もいない。天皇が神官王であたとするならそうした神道があってもよさそうなものですが、そもそも神道自体が異なる起源をもつ多種多様なものの集合体であるので、古神道というのは妄想にすぎないです。明治維新以前の宮中の神官もいろいろな系統の分担であった。明治維新で追い出されて謀略で廃絶させられた白川伯王家(鏡の担当)というのは比較的新しいもの。今の宮中三殿の祭祀など歴史的にはいかがわしい。

天皇は神の一種として祀られるもの(動物も植物もそうなりえるし器物もそう)ではあっても神官(祀り方を伝承する人々)ではないので、王権は基本的に俗権ということになる。日本書紀などによる神話をもちいた王権の正統化などといったつまらん尊王攘夷の<いでおろぎー装置>ではなくて、仏教を深く信仰しつつその外護者としてたてまえだけでも君臨してきた史実こそが歴代の貢献であり天皇という王朝の存在意義というもの。それで坊さんになりたかったというわけですか。

ですからこれからも続いていって欲しいです。

いつも批判にさらされている戒名や院号にも仏教を牽引した歴代天皇という重要なことが反映されているというのはちょっと眼がひらかれたような気がしました。

ちなみに私の友人のお寺(真言宗)では葬儀に戒名料をもらっておられないそうです。

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チベット仏教での戒名 (Shahpuhr)
2010-12-10 14:10:11
チベット仏教では五戒で戒名を下さることがあるようです。
死者に授戒はできないそうです。
http://www.mmba.jp/zurde/thos/domchog

ラマによって異なると思いますが、ガルチェン・リンポチェが授戒をなさる時には標準的に戒名が授けられる。勿論、戒名料はなしです。
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Shahpuhr様 (全雄)
2010-12-12 06:56:46
いろいろとご教示いただきありがたく思っております。嵯峨天皇が受明灌頂までされていたことなど知らないことも多く勉強になりました。

「後醍醐天皇と密教」という本が法蔵館から出ましたが、こちらも凄まじいばかりに密教にのめり込みつつ、困難な政治状況を切り抜けて行かれた後醍醐天皇の気迫が感じられ学ぶものが多くありました。

今の政治にしてもやはり自らの信仰がない。信念がないということになる。何を求めているのかも分からないような人たちばかりではこの国の将来が心配されます。

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Unknown (茉莉花)
2010-12-12 17:01:11
こんばんは。近年の葬儀を見ていると、形ばかりが立派で、中身が無く、目を覆うばかりです。最近では、葬儀屋が競う様に顧客獲得している状態で、なんとも嘆かわしいものです。おまけに、僧侶へのお布施の料金の明示をイオンが、仏教協会に提案したという話しを聞きます。たいして仏教をろくに信じても居ないのに、戒名をその者に授けるのは私としては納得出来るものではないし、死者にとっても迷惑な話しです。『仏教は死体処理の宗教か?』と思うと、憤りを感じずには居られないのです。仏法は、生者が触れるべき教えであって、死んでから触れるものではありません。今の人々はそこを分かって居ないのです。『とりあえず、葬式は仏式で良いだろう』的な感覚でしか捉えて居ない。御仏に対してばかりか、死者に対しても無礼極まりない。故人が特に宗教を信仰して居ないならば、無宗教の葬儀で充分です。戒名は、仏教を信仰して居ない限りは、必要無いと思います。日本人の宗教態度を改めて正す必要があると私は思います。
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茉莉花様 (全雄)
2010-12-13 12:43:22
おっしゃるとおりです。

生きるとは何か、死ぬとはどういうことかをまったく考えていない。教育のせいもあると思います。文科省はそのようなことを考えない人間を作ることを目的にしているようです。

毎日お金と楽しみのことしか関心がない人間ばかりです。

そこに現代人と言いますか、日本人の根本の誤りがあります。だからかつて、エコノミックアニマルと言われた。

今はただのアニマルでしょうか。

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心の問題 (茉莉花)
2010-12-13 20:49:48
こんばんは。よく、『命を大切に』とか、『自殺防止』とか、『人権』を人は叫んでいますが、片腹痛い。心の問題を置き去りにして、よくその様な事を善人の如く言えたものです。私の心にはちっとも響きません。単なる狼の遠吠えの様に聞こえて、返って煩わしいのです。真摯に心の問題に取り組み、一生懸命人々を心の苦しみから解放せんと努力する人間の発言の方がずっと重く、力強く響くものです。心の問題を抜きにして、命の話しをするのは、おかしいのです。きちんとそれを正しく理解している人間にこそ、その発言が許されるものなのだと私は思います。
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心ですね (全雄)
2010-12-15 16:57:57
命の大切さ、良く言われることではありますが、命とは何かということなどについてはまったく触れられることがないですね。

だから、絵空事になり説得力がない。なぜ大切なの?と言われて何も答えられないことになる。

お葬式は要らないというのも、何故要らないのか、お葬式とは何か、ということに触れずに、お金が掛かるとか、お坊さんの批判をして済ませることになる。

本質論が抜け落ちた話は意味がないですね。
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同感です。 (茉莉花)
2010-12-16 21:22:19
中身の無い言葉程煩わしいものはありません。中身無き言葉は、雑音の如く響き渡り、人々を悩ませ、迷いへと引き摺り込む。智慧ある言葉は、澄み渡る鈴の音の如く響き渡り、人々を喜びで満たし、悟りへと導く。扇に要が有る様に、より良い社会を築くには、『心』という要がしっかりしていなくては、成り立ちません。人は心で生きる生き物。『人はパンのみに生くるにあらず。神より出づる諸々の御言葉より生くるもの也』と有る様に、目に見えるものだけでは、本当の意味では生きて居るとは言えません。心を伴って初めて生きて居ると言えるのではないでしょうか。今の日本、及び経済大国は、『心』が伴って居ないのが現状です。心が伴って居ないから、体は生きて居るが、精神的には死んで居るに等しい。だから、中々皆幸せになれない。幸せになれないから争い、人を蹴落として、自分だけ幸せになろうとする。先日の尖閣諸島問題と言い、竹島問題と言い、私には人間の浅ましさを見て居る様で、実に嫌気が差してしまう。誰のものでもないものを、『俺のものだ!』『私のものだ!』と言って取り合う。温暖化についても、地球人皆の責任だというのに、『◯◯国が努力しろ』だの、『××国が努力しろ』だのと、お互い責任の擦り合いで、情けなさを感じずには居られません。皆もっとあらゆる問題の根本に早く気付いて欲しいと私は強く願います。
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