先日、ある方の見舞いに病院を訪れた。頸椎を損傷されて身体が動かず、何かに縛り付けられているように思って、早く外してくれとばかり言われていた。何度説明しても、認知症も発症されているのでなかなか了解してくれない。不意にテレビを付けてみたら、そちらに目がいって、見てもらえたので、やっとその問答から解放された。
日長一日何をされていて、何をお考えになっておられるのかと思えた。若い時には学生たちを教えられ、退職されてからも民生委員やいろいろな地域のお世話をされてきていたのに、残念なことに思えた。何か静かに身体を動かさないで出来ること、たとえば坐禅を寝ながらでも出来るのにとも思った。
永平寺の前貫首様で、宮崎奕保禅師という百六歳まで生きられて貫首として坐禅に生涯を捧げられた現代の生き仏のような方が居られた。この方は若いときに結核を患われて、病院の病床にあるとき、道元禅師の言われる如くに、とにかく坐禅だとお考えになって、ベッドの上でひたすら坐禅をされた。看護婦さんが来られて叱られても叱られても坐禅をされた。
何ヶ月かして結核が消えていて、それからも坐禅に邁進されて弟子を教化し、それが故に曹洞宗の最高位へと登られていった。そこが曹洞宗は偉いとも思う。修行をして、本義である坐禅に命を捧げる方を上に押し上げていく宗団のあり方が、現代にあって、なかなか出来そうで出来ることではない。
話はそれたが、では、なぜ坐禅かということになる。坐禅とは考えないことだ。妄想しないこと。普段私たちがしがちなあれこれと周りの刺激に反応して考える習慣を止めるということだ。我思う故に我ありと言うけれども、その思い考えること自体が煩悩に纏われていれば、つまらないことの集積にしかならない。
動かない身体をジタバタも出来ず、心の中でジタバタを繰り返す。何でだと、早く帰りたい、何とかしてくれ、そんな思いばかりが空回りすることであろう。そこでもしも、坐禅をする習慣があれば、仕方ないから静かに坐禅に入ろうという気にでもなれば、とても楽な時間が過ごせるのにと思ったのであった。勿論そんな境地になるには様々な葛藤がその前にあることは想像できるのではあるが。
坐禅は心身を共に癒してくれる。窮屈な時間に思われるかもしれないが、何もせず、心の中に渦巻く思いが鎮まれば、平安な時間が推移する。たとえ病気が治らなくても、安らかな時間が過ごせる。前回の「心という行為」でも書いたとおり、考えて考えて私たちは疲労する。考える習慣を止めるだけで私たちは楽になれる。
以前、奥さんを亡くされて、ふさぎ込み、寂しいと言われていた方が、ひとたびお経を唱え始めるとその思いが消え、その間だけは救われるような気がすると言われていた。お経を唱えている時間は余計なことを考えなくて済む。お経に一心に心が向いているということであろう。お経も、念仏も、題目も、真言も、何でも心をひたむきに一つに向かわせ、考えないという時間を持たせてくれる装置なのかもしれない。その底流にはやはり坐禅があり、仏教本来のありかたが生かされているのだということであろう。
ここ國分寺では、六年前から座禅会を月一回ではあるが開いている。最近になってやっと少しずつ参加者が増え始めた。歩く瞑想を十分。それから坐る瞑想・坐禅三十分を二回。それだけである。警策を持って背中を叩くこともなく、静かに滝の音を聞きながら坐るだけである。月一回ではあるが貴重な時間である。何かあったときのためにも、考えない時間・坐禅の習慣をもつことをお勧めしたい。
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日長一日何をされていて、何をお考えになっておられるのかと思えた。若い時には学生たちを教えられ、退職されてからも民生委員やいろいろな地域のお世話をされてきていたのに、残念なことに思えた。何か静かに身体を動かさないで出来ること、たとえば坐禅を寝ながらでも出来るのにとも思った。
永平寺の前貫首様で、宮崎奕保禅師という百六歳まで生きられて貫首として坐禅に生涯を捧げられた現代の生き仏のような方が居られた。この方は若いときに結核を患われて、病院の病床にあるとき、道元禅師の言われる如くに、とにかく坐禅だとお考えになって、ベッドの上でひたすら坐禅をされた。看護婦さんが来られて叱られても叱られても坐禅をされた。
何ヶ月かして結核が消えていて、それからも坐禅に邁進されて弟子を教化し、それが故に曹洞宗の最高位へと登られていった。そこが曹洞宗は偉いとも思う。修行をして、本義である坐禅に命を捧げる方を上に押し上げていく宗団のあり方が、現代にあって、なかなか出来そうで出来ることではない。
話はそれたが、では、なぜ坐禅かということになる。坐禅とは考えないことだ。妄想しないこと。普段私たちがしがちなあれこれと周りの刺激に反応して考える習慣を止めるということだ。我思う故に我ありと言うけれども、その思い考えること自体が煩悩に纏われていれば、つまらないことの集積にしかならない。
動かない身体をジタバタも出来ず、心の中でジタバタを繰り返す。何でだと、早く帰りたい、何とかしてくれ、そんな思いばかりが空回りすることであろう。そこでもしも、坐禅をする習慣があれば、仕方ないから静かに坐禅に入ろうという気にでもなれば、とても楽な時間が過ごせるのにと思ったのであった。勿論そんな境地になるには様々な葛藤がその前にあることは想像できるのではあるが。
坐禅は心身を共に癒してくれる。窮屈な時間に思われるかもしれないが、何もせず、心の中に渦巻く思いが鎮まれば、平安な時間が推移する。たとえ病気が治らなくても、安らかな時間が過ごせる。前回の「心という行為」でも書いたとおり、考えて考えて私たちは疲労する。考える習慣を止めるだけで私たちは楽になれる。
以前、奥さんを亡くされて、ふさぎ込み、寂しいと言われていた方が、ひとたびお経を唱え始めるとその思いが消え、その間だけは救われるような気がすると言われていた。お経を唱えている時間は余計なことを考えなくて済む。お経に一心に心が向いているということであろう。お経も、念仏も、題目も、真言も、何でも心をひたむきに一つに向かわせ、考えないという時間を持たせてくれる装置なのかもしれない。その底流にはやはり坐禅があり、仏教本来のありかたが生かされているのだということであろう。
ここ國分寺では、六年前から座禅会を月一回ではあるが開いている。最近になってやっと少しずつ参加者が増え始めた。歩く瞑想を十分。それから坐る瞑想・坐禅三十分を二回。それだけである。警策を持って背中を叩くこともなく、静かに滝の音を聞きながら坐るだけである。月一回ではあるが貴重な時間である。何かあったときのためにも、考えない時間・坐禅の習慣をもつことをお勧めしたい。
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まず、このブログで書くことは、まず仏教の本道から外れないという趣旨で書いております。それから自らの体験や研究を通して自分が納得したことを書くということ。
それが学問的であろうが、教養に過ぎないと思われようがそれはその受け取られる方の読み方によるものです。
本来あるべき仏教というものを踏まえずに書かれるものには慎重にあるべきかと思います。仏教の本筋から離れたものはありません。すべての世間の事々もすべて仏教の真理のままに推移しています。
坐禅は難しく考えるべきものではありません。その人にとって意味あるものであればそれでいいと考えます。なるべくやさしく入門し自らそれを高めていけばいい。師につくべきという方もありますが、師はどこにいるでしょう。お釈迦様も師を離れて一人悟られた。
本当に自分のためになる師を探すことはとても難しいのではないでしょうか。その師を見きわめるためにも自ら日頃からの研心が必要になります。そのための坐禅は必要ではありませんか。
坐禅をしておかしな方向に向かないために仏教を学ぶことも必要になります。仏教とは何か、それを押さえずして坐禅もない。
寝たきりの病人に坐禅を強要などいたしません。その前に坐禅の素養を養っていてもらえたら良かったのにという思いでこの記事は書かれています。
在家も出家もありません。ただ求める気持ちがあれば、自らその心を見続ける仏教の坐禅を試みたらよいのです。
どこの世界も大変なものです。どんな仕事も自分の好きなことだけしていては暮らしてはいけません。お寺に入っても、仏教の研究だけで一生を過ごすことは出来ないでしょう。人間関係は勿論ですが、暮らしていく上での最低限のことは当然ついて回ります。
東大寺は、大きなお寺ではありますが、末寺が少なく、その中の人たちで本山を支え、僧団を経営されているのだと思います。その関係から、おそらく一般の方からの僧侶の募集には対応できないということでしょう。
沢山の宗派が日本にはありますし、外国にもたくさん受け入れるところがあります。日本の各宗派は、明治以降世襲が固定してしまいました。私は現在の態勢でいいと思っているものではありませんが、今の社会構造上致し方ないと考えます。ですが、時代の変化によりおそらくそれも変わっていかざるを得ないようになるでしょう。
日本の仏教がお嫌いならば、たとえば、海外の大学に行かれて、スリランカやミャンマー、タイなどの仏教国で修行される道もあります。チベット仏教もあります。アメリカやイギリス、オーストラリアには白人の上座仏教僧がおり、また、フランスにはチベット仏教僧もいます。仏教僧になる道は無限にあります。
日本仏教とは関係なく、お釈迦様の仏教は厳然と輝き続けています。是非お気持ちがあるのならそのお気持ちをずっと大切になさって欲しいと思います。
多分、仏教としては遅れてきたダルマが
「仏教とは何か」と問われて
「不識(知らん)」と答えたのは有名です。
「仏教の本道」は何でしょうか。
これは書きたくなかった。坊主志願のコメントが消されているので、あえて、書きました。
気にいらなければこれも消して下さい。
仏教の本道と書いたのは、学問、教養を軽視なされるようなコメントをいただいたからです。学問的な煩瑣な議論をしたつもりもありません、知識だけの文章を書いてきたつもりもありません。
このブログはひとりごとですから、私の必要に応じて書き綴った物をただこの場で掲示しているだけのものです。体系的に書いているものでもなく、読まれる方がその中から咀嚼して下されればよいと思って掲載しているだけのものです。
仏教の本道とは、お釈迦様の教えということに尽きるかと思います。すべての仏教はお釈迦様の悟りに端を発している。そこからの展開として全仏教を捉えるというようなことです。
なお、僧侶志願の方のコメントはご本人から掲示せず保留にして欲しいとの申し入れにより公開を取り消しました。
日本仏教が変わるにはそれを支える日本仏教徒が変わる必要があります。仏教に求めるものとは何か。そこに何を見出すのか。
今回の震災後の慰霊に参加された沢山の心ある僧侶の方々の志には本当に頭の下がる思いがいたします。そして、その姿に接した人たちが何を次に求めていくのか。そここそが大切なところではないかと思っています。
死者の供養のためだけに必要と思われるのか。願いをかなえるために必要なのか。しかし、それらは、本当は、私たちの抱える様々な思いを支えるとてつもなく広がりのある仏教の役割のごく一部なのではないでしょうか。
すべての人たちの心の支えとしての仏教とは、何でしょうか。私たちのこの現実をどう受け取り、この世の中とは何なのか、いかなるものか、私たち一人一人はどうこの現実を乗り越えていけばよいのかということについて、仏教の教えから納得のいく話がなされるべきではないかと思います。
日本仏教の各宗大本山はそれぞれにこの大本の問題について口をつぐんでいる。この現実を私たちはどう乗り越えていくのか、この大問題についてきちんと回答する。それこそが日本仏教が今後変わりうる基点になっていくのではないでしょうか。
私が仏教に入信するきっかけは、自分自身の生まれ育ったアジアの文化の保護が一番大きいように思います。今のアジア諸国は、あまりに欧米化に走り過ぎているように思います。仏教はアジア諸国の文化の結晶です。仏教を護持する事は、アジアの文化を守る事に繋がると考えています。
私は近々、真言宗の御寺にて、御受戒を受け、生きて戒名を頂き、正式な仏教徒となるつもりです。仏教徒となり、アジア地域の文化を守り伝えていきたいと思っています。
最近思うのですが、今のお寺は仏教紛いのカルト教団に対してモノを言わなさ過ぎの様に思います。
かつてのオウム真理教にしろ、公明党を出している創○学会にしろ、学会と同じ系統の顕正会にしろ、反社会的な仏教団体が矢鱈と勢力を伸ばしています。海外では正式に『セクト』と認定されています。私としては、大変由々しき事態であると見ています。このままでは、世界の笑われものです。今こそ、本当の仏法を輝かせ、一刻も早く各宗派の寺院が団結してエセ仏法を騙るカルト集団を撲滅する時ではないでしょうか?
私はこの状態を黙って見ているわけにはいきません。ただでさえ、彼等に中枢が蝕まれて国が病んでいるというのに、これ以上侵食されてはたまったものじゃありません。世界に『カルト王国日本』と思われるのは非常に嫌です。ましてや、海外に『仏教がこんな教えなんだ』と思われるのも嫌です。私は出来る限り、周囲にカルト集団に対する警戒を呼びかけています。これ以上彼等に日本はおろか、世界中を穢して欲しくない。私はその一心で呼びかけています。各宗派の寺院もこの状態を見過ごさず、速やかに動いて欲しいと願ってやみません。仏教の尊厳を落とされる前に。何もしないで彼等が好き放題しているのを見ているのが凄く悔しいのです。
さて、難しい問題の提起をいただきました。何を持って仏教とするかということです。かつて、平川彰先生にそのことをまさに問うたことがありますが、明確にお答えにはなりませんでした。
特に大乗仏教の現状について問うとご立腹されたようにも感じました。それだけ微妙な問題なのです。
世界の上座仏教のお寺にも日本の新興宗教から寄付が毎年送られています。それによって教団も付属の学校が運営されていたりもいたします。
仏法僧に帰依すれば仏教徒なのではありますが、それらをどう捉えるかで大きな違いが生じてきます。
非合法な行為があれば取り締まるのは当然ですが、合法に活動をして、仏法僧に帰依していたら、何も不都合なことはないと見なされても仕方ありません。
あとは、それらの信者も含め私たち自身がどれだけ見きわめる力を付けるかということになろうかと思います。そのためにきちんとした布教を積極的に行っていくということが大切なことになって参ります。
政治と同じで、いいように利用されてしまいがちな人々、どれだけそれらの人たちがレベルアップできるかがポイントになるのであろうと思います。
台風で各地に被害が出ていますが、そちらは如何でしょうか?大きな被害が無いと良いのですが…。
さて、今年、会社の研修旅行に、石川県輪島市にある、曹洞宗大本山の『総持寺祖院』に行く事になりました。1時間坐禅をし、お昼に精進料理を頂くという日程だそうです。周囲の人々は、『精進料理は不味い』とか、『寺で坐禅とはどういう罰ゲームだ?』等と大ブーイング。一方私は喜びで胸が高鳴っていました。行くのは今月の20日で、その日が大変待ち遠しいです。
坐禅は初体験ですが、一度は経験しておきたいと思っていました。会社の研修旅行の日程に坐禅が組み込まれていたのは実に幸運でした。
しかし、今の人は、なぜそこ迄寺を毛嫌いするのでしょう。私には理解し兼ねます。
寧ろ、心の荒み切った今の人間にこそ、坐禅は必要なのではないでしょうか?静かに坐して自分自身と向き合う時間。今の人々に必要な事だと私は思います。
精進料理もそう。『精進料理は肉が無いから、不味い』等と愚痴を零している輩がいますが、精進料理は『食べる仏道』。がっついて食べる代物ではありません。何度も精進料理を食べてきましたが、旬を感じさせる献立、美しい盛り付け、そして素朴な味わいには、実に作る者の心が伝わって来るものです。精進料理ではお代わりはしません。出された分だけで満足なのです。お代わりをする事は、貪る事に繋がると思ったからです。欲を出さず、出された分を感謝しながら、一口一口ゆっくりと味わう事。それこそが精進料理の極意ではないかと私は思います。精進料理はとても大好きです。食べる度に心の垢が取れていく様で、実に清々しいのです。
精進料理に対して不満を申す者は、何に対しても不満を持ち、いつ迄も荒み切った心のままであると私は思います。
質素な料理ですが、シンプルだからこそ、大切なモノが沢山詰まっていると私は思うのです。仏教の中には、今の人々に必要なモノが沢山あります。この旅行を機に何かを掴んで欲しいと願うばかりです。
分からない人たちにいくら強いてもダメですね。難しいものです。ですが、こちらが彼らにうらやましがられるほどに生き生きと幸せそうなら徐々に関心から感化されるに至るでしょう。
時間が必要ですね。何事も。