第七火曜日。この日は老いることについて語る。年をとることに不安になったりしたことはありますかとのミッチの問いに、モリー先生は「年をとればそれだけ学ぶことも多い。ずっと22歳のままなら、いつまでも22のときと同じ無知だっていうことになる。老化はただの衰弱じゃない。成長なんだ」
そして、ミッチが、ではなぜ、人はよくもう一度若くなれたらなんて言うんでしょうか、と問うと「それは人生に満足していないんだよ。満たされていない。人生の意義を見出していない。だってね、人生に意義を認めていたら、逆戻りしたいとは思わないだろう。先に進みたいと思う」そしてこう続ける。「いいかい、これはぜひ知っていて欲しい。若い人はみな知っていてほしい。年をとるまいといつも闘ってばかりいると、いつまでもしあわせになれないよ。しょせん年はとらざるを得ないんだから」
さらに、どうして先生は若い人をうらやまずにいられるのか、と言うと「ミッチ、老人が若者をうらやまないなんて、そんなことあり得ないよ。ただ問題は、ありのままの自分を受け入れ、それを大いに楽しむことだ。30代が今の君の時代。私にも30代という自分の時代がかつてあった」「本当のところ、私の中にすべての年齢がまじり合っているんだよ。・・・今の君の年代をうらやましがってなんていられないよ、前に自分がそうだったんだから」とっても正直な中にも心意気を感じる。
第八火曜日。この世で大切なものとは何か、を語る。「みなまちがったものに価値をおいている。それが人生へのはなはだしい幻滅につながる」「この国では一種の洗脳が行われている。洗脳ってどうやるか知っているだろう?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にし聞かされて、・・・何が本当に大事なのか見境がつかないというわけさ」
なぜこうも簡単に洗脳されてしまうのだろうか?「これには私なりの解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、金や権力をいくら持っても、そんなものはさがし求めている感情を与えてはくれない、それを一番必要としているときにね」みんながむしゃらに探し求めて、気がつくと年を取っているということなのだろうか。
第十一火曜日。先生は、今の世の中の本質について語り出す。「人間はあぶないと思うと卑しくなる。それはわれわれの文化のせいだよ。われわれの経済のせい。この経済社会で現に仕事をもっている人でさえ、危険を感じている。その仕事をなくしはしないかと心配なんだ。危険を感じれば、自分のことしか考えなくなる。お金を神様のように崇め始める。すべてこの文化の一環だよ」
それから、「われわれ人間の持っている最大の欠点は、目先にとらわれること。先行き自分がどうなるかまで目が届かないんだ。自分にはどういう可能性があるか。そのすべてに向かって努力しなければいけないんだ」毎月の稼ぎが気になり、本当にしなければいけないこと、すべきことに乗り出せなくなる。それが私たちの常なることだと言えようか。
第十三火曜日。「死ぬのは生きるのと同じく自然なこと。人間の約束ごとの一部だよ」「みんな死のことでこんなに大騒ぎするのは、自分を自然の一部だとは思っていないからだよ。人間だから自然より上だと思っている。そうじゃないよね、生まれるものはみんな死ぬんだ」
「人間はお互いに愛し合えるかぎり、またその愛し合った気持ちをおぼえているかぎり、死んでも本当に行ってしまうことはない。つくり出した愛、思い出はそのまま残っている。この世にいる間にふれた人、育てた人すべての心の中に」生命の摂理、生き物たちとの一体感を得られたのであろうか。仏教徒としての視点を見出されたとも言えようか。
そして、第十四火曜日。先生はただ皮膚は青白く、目はぎょろっとこちらに向け、何か言おうとするが、低い呻き声しか聞こえない。それでも、「君はいい子だ、・・・じゃあな」と言い残す。その土曜日モリー先生はなくなった。
ここに、私が読んだ際に鉛筆でラインを入れた忘れがたいモリー先生の言葉を各章ごとに引用させていただいた。紹介したのは、先生の言葉のごく一部に過ぎない。全編が誠に示唆に富んだ好著であり、また翻訳も素晴らしい。臨場感にとんだものであった。是非ご一読願いたい。
さて、私の知るALSの患者さんは、実はみなもっと早くに声も出ず、顔の表情もなくなり、瞼だけがかすかに動くばかりになって亡くなった。今も南岡山の医療センターで一人寂しく看護を受けるALSの患者さんが居られる。昨年までは筆談で何でも言いたいことを表現できたのに、今年の初めにはもう手でものを書くことも出来なくなっていた。
パソコンに特殊な装置を取り付けて、かすかな筋肉の動きで文字を入力してメールのやり取りや手記を残される方もあるという。しかし、この方は高齢でもあり、今はただテレビの前で横になり、たまに来られる人にお会いになるだけ。誠に残念なもったいないことに思う。
モリー先生は亡くなる前週まで、愛弟子ミッチと、最期に思うことごとを、人生の意味や愛について、思いの丈を語り尽くすことができた。それだけでも、とてもしあわせだったのではないか。死と隣り合わせに時を過ごしたモリー先生の教えを、この本によって私たちもこうして学ぶことができたことは、誠にありがたいことだと思う。願わくば、多くの目の前の雑事に忘れ去ることなく、そのひと言ひと言を、ことある毎に振り返りたいと思う。
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日記@BlogRanking
そして、ミッチが、ではなぜ、人はよくもう一度若くなれたらなんて言うんでしょうか、と問うと「それは人生に満足していないんだよ。満たされていない。人生の意義を見出していない。だってね、人生に意義を認めていたら、逆戻りしたいとは思わないだろう。先に進みたいと思う」そしてこう続ける。「いいかい、これはぜひ知っていて欲しい。若い人はみな知っていてほしい。年をとるまいといつも闘ってばかりいると、いつまでもしあわせになれないよ。しょせん年はとらざるを得ないんだから」
さらに、どうして先生は若い人をうらやまずにいられるのか、と言うと「ミッチ、老人が若者をうらやまないなんて、そんなことあり得ないよ。ただ問題は、ありのままの自分を受け入れ、それを大いに楽しむことだ。30代が今の君の時代。私にも30代という自分の時代がかつてあった」「本当のところ、私の中にすべての年齢がまじり合っているんだよ。・・・今の君の年代をうらやましがってなんていられないよ、前に自分がそうだったんだから」とっても正直な中にも心意気を感じる。
第八火曜日。この世で大切なものとは何か、を語る。「みなまちがったものに価値をおいている。それが人生へのはなはだしい幻滅につながる」「この国では一種の洗脳が行われている。洗脳ってどうやるか知っているだろう?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にし聞かされて、・・・何が本当に大事なのか見境がつかないというわけさ」
なぜこうも簡単に洗脳されてしまうのだろうか?「これには私なりの解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、金や権力をいくら持っても、そんなものはさがし求めている感情を与えてはくれない、それを一番必要としているときにね」みんながむしゃらに探し求めて、気がつくと年を取っているということなのだろうか。
第十一火曜日。先生は、今の世の中の本質について語り出す。「人間はあぶないと思うと卑しくなる。それはわれわれの文化のせいだよ。われわれの経済のせい。この経済社会で現に仕事をもっている人でさえ、危険を感じている。その仕事をなくしはしないかと心配なんだ。危険を感じれば、自分のことしか考えなくなる。お金を神様のように崇め始める。すべてこの文化の一環だよ」
それから、「われわれ人間の持っている最大の欠点は、目先にとらわれること。先行き自分がどうなるかまで目が届かないんだ。自分にはどういう可能性があるか。そのすべてに向かって努力しなければいけないんだ」毎月の稼ぎが気になり、本当にしなければいけないこと、すべきことに乗り出せなくなる。それが私たちの常なることだと言えようか。
第十三火曜日。「死ぬのは生きるのと同じく自然なこと。人間の約束ごとの一部だよ」「みんな死のことでこんなに大騒ぎするのは、自分を自然の一部だとは思っていないからだよ。人間だから自然より上だと思っている。そうじゃないよね、生まれるものはみんな死ぬんだ」
「人間はお互いに愛し合えるかぎり、またその愛し合った気持ちをおぼえているかぎり、死んでも本当に行ってしまうことはない。つくり出した愛、思い出はそのまま残っている。この世にいる間にふれた人、育てた人すべての心の中に」生命の摂理、生き物たちとの一体感を得られたのであろうか。仏教徒としての視点を見出されたとも言えようか。
そして、第十四火曜日。先生はただ皮膚は青白く、目はぎょろっとこちらに向け、何か言おうとするが、低い呻き声しか聞こえない。それでも、「君はいい子だ、・・・じゃあな」と言い残す。その土曜日モリー先生はなくなった。
ここに、私が読んだ際に鉛筆でラインを入れた忘れがたいモリー先生の言葉を各章ごとに引用させていただいた。紹介したのは、先生の言葉のごく一部に過ぎない。全編が誠に示唆に富んだ好著であり、また翻訳も素晴らしい。臨場感にとんだものであった。是非ご一読願いたい。
さて、私の知るALSの患者さんは、実はみなもっと早くに声も出ず、顔の表情もなくなり、瞼だけがかすかに動くばかりになって亡くなった。今も南岡山の医療センターで一人寂しく看護を受けるALSの患者さんが居られる。昨年までは筆談で何でも言いたいことを表現できたのに、今年の初めにはもう手でものを書くことも出来なくなっていた。
パソコンに特殊な装置を取り付けて、かすかな筋肉の動きで文字を入力してメールのやり取りや手記を残される方もあるという。しかし、この方は高齢でもあり、今はただテレビの前で横になり、たまに来られる人にお会いになるだけ。誠に残念なもったいないことに思う。
モリー先生は亡くなる前週まで、愛弟子ミッチと、最期に思うことごとを、人生の意味や愛について、思いの丈を語り尽くすことができた。それだけでも、とてもしあわせだったのではないか。死と隣り合わせに時を過ごしたモリー先生の教えを、この本によって私たちもこうして学ぶことができたことは、誠にありがたいことだと思う。願わくば、多くの目の前の雑事に忘れ去ることなく、そのひと言ひと言を、ことある毎に振り返りたいと思う。
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日記@BlogRanking
この作品は出版以来全米でベストセラーを更新し、映画にもなったので私のような者でもどうにか知っています☆
「生きること」「愛」をテーマにした作品というのは、人間の本質的なところを探ったものであればあるほど陳腐で軽薄なものに成り下がってしまいがちなのですが、「モリー先生・・」は本当に完成度の高い作品に仕上がっています。
私の好きなモリー先生のセリフは、「愛は唯一、理性的な行為である」です。
私も、理性的な愛を堪能したいものです・・・(*^_^*)
映画のこと全然知りませんでした。そうですか、そんなにやっぱり有名だったんですね。どこかで探して見てみます。お寺で皆さんに見てもらっても良いかも。
お知らせ下さってありがとうございました。
愛は理性的なもの。そうでありたいと私も思います。
俳優は五感(第六感!も含めて)を
本来の姿(動物的)に覚醒させると同時に
肉体は最小限の力しか入らない
リラックス状態を追求します
不謹慎を承知で言わせて貰えば
ALSの患者の方の肉体は、
そんな理想の状態を少し超えたところ
だと感じます
ですから、五感が冴えているのに、
身体が動かないので
刺激をダイレクトに全身全霊で感じて
いるのだろうと想像します
ですから、我々も少しでも長く
「覚醒したリラックス」状態を保てると
物が観えてくるのではないでしょうか?
そうですか、俳優さんは、普通を装う苦労をされている。それが一番難しいということでしょう。素人目には、長い台詞を憶えるのが大変だと思いがちですが。
ところでALSの患者さんは、感覚が残っているので、そうです敏感だそうで、この本の中にも、頭の位置を直してくれとか、足を動かしてくれといった介護者への要望を述べるくだりがあります。
ただ、それがリラックスしているのか、つねにストレスとなっているのかは、どうでしょう。ストレスに感じることの方が多いように思います。じっとしていて、覚醒状態に入れればいいのでしょうが。むずかしいところです。
僕が理想の状態を超えたと表現したのは
最低限の動きさえとれないという、
患者さんの肉体に力が入れられない状態です
自分の意思とは裏腹なので、患者さんに
とっては相当なストレスだと思います
(俳優本能は、不謹慎、残酷だと自覚してます)
僕も過去にシーンの訓練中に
手を床から上げるのがやっとの覚醒状態を
何度か経験しています
あの覚醒状態の感覚をキープできれば
日々の生活が本当に楽しくなることは
間違いありません
ただ、全雄君も経験してると思いますが
「これだ!」などと意識するとだめですし
全く意識しないと離れてしまうように感じます
まずは、自分の肉体を通しての外界を
興味をもって味わう、と言ったところでしょうか、、、
「モーリー先生との火曜日」の大部分を転載されていますが、これは引用と呼べる範囲ではないと思います。
私もこの本を読みましたが、ここまでブログに書いてしまうと、書籍の販売の邪魔をしていると言われる恐れがあります。著作権侵害の可能性が高いと思います。
住職さんがこのような行為をすると、悪影響が懸念されます。
このブログを見て本を買い求める方もあります。販売の邪魔には該当しないものと考えます。