人は人から学ぶものという話
30年も前のことではあるが、インド僧時代に日本に帰ると、あるスリランカのお寺さまに親しくしていただき、3年も4年もの間、事務所や合宿所、また講演会などにも欠かさず参加してお話を伺っていた。日本の大学で、ある研究のために来日して、それからずっと今でも、ほとんどを日本に滞在して法を説かれている。戦後のお生まれではあるが、もうかなりのお歳になる。
実は、日本とスリランカはとても仏教交流の歴史が深く、明治の外交官たちは船でヨーロッパに渡航した。その途次セイロンに寄るとわが国も仏教国でありましてという話になり、是非仏教僧の交流をしたいという話となり、初めてセイロンで南方仏教僧となるのが釋興然師であったが、このブログでも度々名前の登場する釋雲照律師の甥にあたる人。
この方はセイロンの僧院で数年過ごし、日本人で初めて南方上座部の比丘になり、インドの仏跡地ブッダガヤに行って、当時からバラモンが所有していた大菩提寺の買収交渉もされた。日本に帰っても、現在の横浜市港北区鳥山の三会寺の住職であったが、終生黄色い大きな上座部の袈裟をつけて過ごした。林董という日英同盟の時代の外務大臣が会長になって、釈尊正風会を結成して、南方仏教の僧団結成を計画した。
その興然師のいるセイロンの寺に臨済宗の慶応出のエリートがやはり南方の比丘となるべく来られた、釋宗演という方がおられた。この方は、後に若くして35歳くらいで鎌倉の円覚寺の管長になる。世界に禅を布教する鈴木大拙氏の師としても有名で、明治時代に1893年シカゴ万博に合わせて開催された世界宗教会議に参加している。この会議にセイロン仏教徒を代表して参加したのが、ダルマパーラ師であった。
当時セイロンでも、イギリスの植民地として出世のためにキリスト教に改宗して官吏になろうする人ばかりの中で、アメリカの神智学協会という東洋趣味のオカルト教団とも言われた協会の主催者オルコット大佐とマダム・ブラパッキーという二人がセイロンに入り、仏教徒となり、まだその頃青年だったダルマパーラ師と出会い、ともにセイロンでの仏教の復興をしていくなかで、植民地からの解放運動に発展し、民族意識に火を付けていく。
このダルマパーラという人は、後にインドの聖地を復興して歩くが、日本にも四度ほど来ていて、親日家。一回目はアメリカ人の仏教徒オルコット大佐を連れて日本に来て、明治政府によって廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中だったため、日本仏教界がそれを大歓迎してアメリカ人の仏教徒としてオルコット氏の講演会が数ヶ月のうちに全国各地で70回を超えたと言われている。
まあ、そういう仏教交流の歴史がスリランカとはあった。
それで、私に仏教の本筋を教えてくれたスリランカの長老は、現在では、書店に行き宗教コーナーに行けば平積みでいくつも本が並べられているほど有名になっているが、当時はまだそんなに知られておらず、北関東の合宿所には何度も泊まりかげでいき、4日も5日も一緒に生活させてもらった。ずっと居たら良いのだが、段々しんどくなり、生き抜きに帰りまた行くという感じであった。
朝は4時前には起きて、粉コーヒーを飲んで、歩く瞑想と座る瞑想をして、お経を唱えて、食事を作り一緒に食べ、掃除をして、それから講義をして下さった。おおぜい居られるときには仏教の基本についての法話が主であったが。そしてまた、瞑想するという生活。横になって休んでいたりすると怖ろしいほどやさしい声で、何のためにここに来たんですかね、と言われたりした。とても生まれもよくエリートで、ずば抜けて頭の良い長老で、日本に来る前もお国で大学で教鞭をとられていたという。
丁度社会党自民党政権が誕生した瞬間も合宿所で長老と一緒にテレビを見ていた。村山さんが首相になった時のことだ。その地位につくと、ものすごいエネルギーが備わり別人になる、オーラが違うんですよというようなことを言われていた。
一緒の部屋で寝たこともあり、その時には一度も寝返りも打つことなく熟睡して、長老と一緒に眠りに就き、翌朝も一緒に目を覚ますという不思議な体験をした。これは私も合宿所にあるときには特に心掛けて瞑想中心の生活であったこともあろうが、長老が、心の中に何もわだかまるものなく、常に放逸に過ごすことなく、サティという、日本語では念と訳すが、その実践そのままに今の瞬間に生きておられるので、寝るときには寝ることだけで、そうした長老の聖者の階梯にあるお方としての力によって、お蔭で何も考えることなく熟睡できたのであろう。
また朝の瞑想で、心が落ち着かないときに、一緒にお経を唱えてみましようと言って下さり、『初転法輪経』をパーリ語で唱え、終わってもう一度瞑想すると、それまでとまったく違って、心の中が平静で落ち着いて、すべてよく分かる見えているという、正にこれが仏教の瞑想かという時間を体験した。これも大変不思議なことであった。
その長老から言われたことでとても印象深い言葉の一つが、「人は人から学ぶものです」という言葉である。そして、「敬いの気持ちがなければ人は学ぶことができません」と。敬う気持ちがあって初めてその人の行い、言葉、後ろ姿から何事かを人は学んでいくものだと言うこと。
今どうであろうか、学校の先生は敬われているだろうか。みんな平等だと、教壇も無くなってしまい、先生を敬わないから、ただの知識しか子供たちは学ぶことができない。敬われないからだけではないだろうが、先生によるおかしな事件も後を絶たない。家庭教育もおろそかな時代でもあり、人が育たない、そんな国になってしまったのではないか。
誰しもみんな完璧な人は居ない。完璧な人が要るなら、それはもう仏様か菩薩様であろう。人の道に外れたことをしているのなら別だが、その人の良いところ、勝れたところ、立派だなと思うところを見て、そのことについて敬い参考にし、学んでいこうという気持ちにならなければいけないのではないか。そうして少しでもその人の良いところを自分の物にしようとしなければ、人は成長できないだろう。
自分のことを思えば、頭から人を馬鹿にするなんて事ができようはずもない。だめなところをあげつらって貶めて、自分たちのことを棚に置いて言うだけ言うみたいな、昨今のマスコミのような、ああいうあり方は変えていかなければいけない。
特に教育現場では先生をはじめ、教えて下さる方を敬う気持ちの大切さを教えていくことが必要ではないかと思う。家庭でもお祖父さんお祖母さん、年長者を敬うということがとても大切であろう。人間文化の始まりは親孝行からという。孝行の孝はすべての善行の本、善の始めであり、孝は道の大本であるとも言われる。
相手を敬いどんなことでも学ばせていただくという気持ちから人の成長があるというお話でした。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村
30年も前のことではあるが、インド僧時代に日本に帰ると、あるスリランカのお寺さまに親しくしていただき、3年も4年もの間、事務所や合宿所、また講演会などにも欠かさず参加してお話を伺っていた。日本の大学で、ある研究のために来日して、それからずっと今でも、ほとんどを日本に滞在して法を説かれている。戦後のお生まれではあるが、もうかなりのお歳になる。
実は、日本とスリランカはとても仏教交流の歴史が深く、明治の外交官たちは船でヨーロッパに渡航した。その途次セイロンに寄るとわが国も仏教国でありましてという話になり、是非仏教僧の交流をしたいという話となり、初めてセイロンで南方仏教僧となるのが釋興然師であったが、このブログでも度々名前の登場する釋雲照律師の甥にあたる人。
この方はセイロンの僧院で数年過ごし、日本人で初めて南方上座部の比丘になり、インドの仏跡地ブッダガヤに行って、当時からバラモンが所有していた大菩提寺の買収交渉もされた。日本に帰っても、現在の横浜市港北区鳥山の三会寺の住職であったが、終生黄色い大きな上座部の袈裟をつけて過ごした。林董という日英同盟の時代の外務大臣が会長になって、釈尊正風会を結成して、南方仏教の僧団結成を計画した。
その興然師のいるセイロンの寺に臨済宗の慶応出のエリートがやはり南方の比丘となるべく来られた、釋宗演という方がおられた。この方は、後に若くして35歳くらいで鎌倉の円覚寺の管長になる。世界に禅を布教する鈴木大拙氏の師としても有名で、明治時代に1893年シカゴ万博に合わせて開催された世界宗教会議に参加している。この会議にセイロン仏教徒を代表して参加したのが、ダルマパーラ師であった。
当時セイロンでも、イギリスの植民地として出世のためにキリスト教に改宗して官吏になろうする人ばかりの中で、アメリカの神智学協会という東洋趣味のオカルト教団とも言われた協会の主催者オルコット大佐とマダム・ブラパッキーという二人がセイロンに入り、仏教徒となり、まだその頃青年だったダルマパーラ師と出会い、ともにセイロンでの仏教の復興をしていくなかで、植民地からの解放運動に発展し、民族意識に火を付けていく。
このダルマパーラという人は、後にインドの聖地を復興して歩くが、日本にも四度ほど来ていて、親日家。一回目はアメリカ人の仏教徒オルコット大佐を連れて日本に来て、明治政府によって廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中だったため、日本仏教界がそれを大歓迎してアメリカ人の仏教徒としてオルコット氏の講演会が数ヶ月のうちに全国各地で70回を超えたと言われている。
まあ、そういう仏教交流の歴史がスリランカとはあった。
それで、私に仏教の本筋を教えてくれたスリランカの長老は、現在では、書店に行き宗教コーナーに行けば平積みでいくつも本が並べられているほど有名になっているが、当時はまだそんなに知られておらず、北関東の合宿所には何度も泊まりかげでいき、4日も5日も一緒に生活させてもらった。ずっと居たら良いのだが、段々しんどくなり、生き抜きに帰りまた行くという感じであった。
朝は4時前には起きて、粉コーヒーを飲んで、歩く瞑想と座る瞑想をして、お経を唱えて、食事を作り一緒に食べ、掃除をして、それから講義をして下さった。おおぜい居られるときには仏教の基本についての法話が主であったが。そしてまた、瞑想するという生活。横になって休んでいたりすると怖ろしいほどやさしい声で、何のためにここに来たんですかね、と言われたりした。とても生まれもよくエリートで、ずば抜けて頭の良い長老で、日本に来る前もお国で大学で教鞭をとられていたという。
丁度社会党自民党政権が誕生した瞬間も合宿所で長老と一緒にテレビを見ていた。村山さんが首相になった時のことだ。その地位につくと、ものすごいエネルギーが備わり別人になる、オーラが違うんですよというようなことを言われていた。
一緒の部屋で寝たこともあり、その時には一度も寝返りも打つことなく熟睡して、長老と一緒に眠りに就き、翌朝も一緒に目を覚ますという不思議な体験をした。これは私も合宿所にあるときには特に心掛けて瞑想中心の生活であったこともあろうが、長老が、心の中に何もわだかまるものなく、常に放逸に過ごすことなく、サティという、日本語では念と訳すが、その実践そのままに今の瞬間に生きておられるので、寝るときには寝ることだけで、そうした長老の聖者の階梯にあるお方としての力によって、お蔭で何も考えることなく熟睡できたのであろう。
また朝の瞑想で、心が落ち着かないときに、一緒にお経を唱えてみましようと言って下さり、『初転法輪経』をパーリ語で唱え、終わってもう一度瞑想すると、それまでとまったく違って、心の中が平静で落ち着いて、すべてよく分かる見えているという、正にこれが仏教の瞑想かという時間を体験した。これも大変不思議なことであった。
その長老から言われたことでとても印象深い言葉の一つが、「人は人から学ぶものです」という言葉である。そして、「敬いの気持ちがなければ人は学ぶことができません」と。敬う気持ちがあって初めてその人の行い、言葉、後ろ姿から何事かを人は学んでいくものだと言うこと。
今どうであろうか、学校の先生は敬われているだろうか。みんな平等だと、教壇も無くなってしまい、先生を敬わないから、ただの知識しか子供たちは学ぶことができない。敬われないからだけではないだろうが、先生によるおかしな事件も後を絶たない。家庭教育もおろそかな時代でもあり、人が育たない、そんな国になってしまったのではないか。
誰しもみんな完璧な人は居ない。完璧な人が要るなら、それはもう仏様か菩薩様であろう。人の道に外れたことをしているのなら別だが、その人の良いところ、勝れたところ、立派だなと思うところを見て、そのことについて敬い参考にし、学んでいこうという気持ちにならなければいけないのではないか。そうして少しでもその人の良いところを自分の物にしようとしなければ、人は成長できないだろう。
自分のことを思えば、頭から人を馬鹿にするなんて事ができようはずもない。だめなところをあげつらって貶めて、自分たちのことを棚に置いて言うだけ言うみたいな、昨今のマスコミのような、ああいうあり方は変えていかなければいけない。
特に教育現場では先生をはじめ、教えて下さる方を敬う気持ちの大切さを教えていくことが必要ではないかと思う。家庭でもお祖父さんお祖母さん、年長者を敬うということがとても大切であろう。人間文化の始まりは親孝行からという。孝行の孝はすべての善行の本、善の始めであり、孝は道の大本であるとも言われる。
相手を敬いどんなことでも学ばせていただくという気持ちから人の成長があるというお話でした。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村