11月21日護摩供後の法話「過去の記憶を塗り替える」
今年は3月に御開帳があり、以来いろいろとお役が当たる巡り合わせで、やっと、それらが終わりホッとしているところではあるが、そんな最後のお役の準備をしている最中に、一本の電話が入った。切羽詰まったように、お助けを願いたいとのことで、兎にも角にも来山したいとのことであった。
その日の午後急遽お越しになられることとなったが、何かお話をお伺いすれば良いのだろうと気軽に考えていたところ、スロープがある本堂へお越しになり、足も不自由なので、こちらでお願いしたいとのこと。本堂にあがられて、お話を伺うと、50年も前に誤りの末に水子ができ、それも色々と事情があって、十分な供養もできていなかったので、以来気にはなっていたけれども、そのまま今日迄来てしまったという。
だが、この4、5年、事故続きで、足は骨折するは、肩を怪我するは、この度は手首を捻挫して不自由で物も持てなくなって困っている。人に言われたわけでもないが、その50年前の水子がたたっているのかもしれないので供養にお経を上げて欲しいという。先代の時に一度来たことがあるという縁でお越しになられたとのことであった。
突然のことで、水子の供養は特別していないが、50年も前の水子が今障りをするとは考えにくいとも申し上げたが、どうしてもお救い願いたい、お経を上げて欲しいと言われるので、先代がよく水子の供養でお参りしていた境内の地蔵尊の前で、簡単な荘厳をして、着の身着のまま、お経を唱えさせていただいた。
お経を唱えている間、不自由な手を合わせ一心に何か念じておられるようにも感じ、こちらも声に力が入り、ご供養が叶うようにとお唱えした。唱え終わると、気持ちが晴れたのか、そのままお帰りになられた。悪いように考えずに、供養が済んだと思って、考えれば考えるほどつらくなりますから、考えないことですよと申し上げお見送りした。
その方がお帰りになられてから、思うに、50年も前の記憶がまるで昨日のことのように思い出され、そのことにとても不本意な思いや、つらかったこと、嫌な思いが甦られたのだということと、お経を聞くと安心され気持ちが済んだのは良いけれども、やはりもう少しその後、過去の記憶に対するケアが必要だったのではと二つのことが頭に去来した。
日本人は仏教というと、唱えること、お経や真言や念仏、題目などを唱えることと思っているかもしれないけれども、その上にやはり、心の癒やしを十全にするには、そのつらい記憶についての自分の思いや感情、判断、受け取り方を改めることで、その記憶を甦らせることで味わう二次的三次的な心の負荷、負担を解消することが必要ではないかと思えた。
昔の、子供の頃の嫌な記憶、つらい思い出をいつまでも引きずっている人も多いのではないか。何度も何度も、ことある毎に思い出され、いつも嫌な思いを甦らせてしまうという方も多いのではないか。
だが、その記憶を、大人になって様々な経験したきた今の自分なら、その過去の記憶にある出来事の当事者やこの時の情況、自分のことを、背後からや様々な方向から見て別の解釈を付けることも可能なのではないだろうか。
一人苦しんできた、その記憶の受け取り方は違っていたのかもしれない。他の人たちの立場や人間関係からの位置、それぞれの情況や思いを想像したとき、ただつらく苦しかった記憶が違って見えてくるということもあるのではないか。何事も自分一人が悪かったということはありえないのであって、その時の様々な因縁のもとに引き起こされたことにすぎないのだから。
過去の記憶の情況を立体的に双方の関係や思い、それぞれの思いや感情を想像して捉えたとき、過去の時点でその記憶に付着させてきた思いや感情とは違うものになって捉えることが可能になる。そうしてはじめて、私たちは過去何度も思い出す度に苦しんできた思いから解放されるのではないだろうか。
高野山で100日の修行中に、何度も、すっかり忘れていた過去の記憶が甦ってきたことがある。修行中ということもあったのかもしれないが、それらの記憶はそれまでだったらとても嫌な思いをもって思い出されていたことであっても、何か平然とやり過ごすことができた。過去の記憶をそうやって塗り替えていくことで、何を思いだしても、何も心に影響されずに、心晴れやかに過ごせる自分になれるのではないかと思う。
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