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仁徳天皇と御陵が指し示す我が国家と国民の不変の姿。

2017年01月10日 | 日本・国士



平成29年1月10日(火)

 今朝も東が少しあかね色になった薄暗い空のしたを歩いて、
 第十六代、仁徳天皇の御陵に参拝した。
 御陵は、南を向いた前方後円墳で、
 南の前方部には東西に六百メートルほど一直線の周濠があり、
 そこに多くの鴨が黒い固まりになって眠ったように浮かんでいる。
 その周濠の西の端から東を眺めれば、
 一直線の周濠の東端の黒い御陵の森の上の空が、あかね色に染まっている。
 昭和六十一年五月、
 仁徳天皇御陵の南に広がる大仙公園で、全国植樹祭が開かれた。
 私は、この周濠の西の端で、
 五歳の長男の手を握り、二歳の長女を抱えて、植樹祭会場に行幸された、
 第百二十四代の昭和天皇をお迎えした。
 眼前を通り過ぎられた昭和天皇のお姿は、
 今も、まさに眼前にあるかの如く瞼に刻印されている。
 それは、あわあわとした幻のようであった。
 これほどの、強烈な存在感があろうか。

 平成の御代になって、
 八王子の武蔵野陵の昭和天皇の御陵に参ったとき、
 砂利の上で靴を脱いで正座して頭を垂れ、
 あの時、仁徳天皇御陵の前で、長男と共にお迎えした者であります、と
 昭和天皇にご挨拶させていただいた。

 この仁徳天皇御陵の
 南には、子息の第十七代履中天皇の御陵があり、
 北には、同じく子息の第十八代反正天皇の御陵がある。
 堺市のこの丘陵には、
 仁徳天皇と二人の皇子の親子三人の天皇の御陵がある。
 ここはまさに、我が国の黎明期の姿をたたえる丘である。
 
 しかし近年、自国の歴史への認識無き軽薄なる行政は、
 仁徳天皇の御陵を、「天皇」の「御陵」とは言わず、
 「仁徳陵古墳」とか「大仙古墳」とかの
 天皇との関係を捨象した呼び方を定着させようとした。
 同時に、御陵の堤の際まで住宅地が押し寄せるがままに放置している。
 つまり、仁徳天皇の御陵が、今もここにあるという歴史への畏敬の念がない。
 その上で、
 あの得体の知れない者たちに牛耳られている国連のユネスコによる
 「世界遺産」指定を目指しているのだ。
 その魂胆は、
 観光客誘致と御陵の発掘調査である。
 唖然とすることであるが、観光客を呼び込むために、
 仁徳天皇の御陵の中に、
 ネオンに煌々と照らされたビアーガーデンを造ると発言した知事がいる。
 この頭の程度では、御陵の中にカジノをつくると言い出しかねない。
 
 そこで、言っておく。
 天皇の御陵は、
 「遺産」つまり「遺物」ではない。
 観光客誘致の道具ではない。
 発掘の対象ではない。
 
 我が国に存在する神武天皇から昭和天皇に至る百二十四の天皇の御陵は、
 万世一系の天皇を戴いてきた我が国の国体を
 現在に示す天皇の神聖な「お墓、墳墓」である。
 我が国が日本である限り、神聖な天皇の墳墓である。
 なお、行政による、
 ことさら天皇を捨象した
 「仁徳陵古墳」とか「大仙古墳」とかの無礼な呼び方は、
 心ある堺市議会議員らの指摘によって、是正された。

 次は、本月発刊される「月刊日本」二月号掲載原稿である。
 ご一読いただければ幸いです。 


 再び第十六代仁徳天皇について記す。
 私は、仁徳天皇の御陵の近くで育ち、今もそこに住んでいる。
 それ故、日本を思うとき、自然と仁徳天皇のことを思うのだ。
 この、世界最大の前方後円墳である仁徳天皇の御陵の造営という古代の大土木工事には、
 我が国における天皇と国民(おおみたから)のつながりと、治世の伝統が顕れている。
 自ら民の税を三年間免除して税収を途絶させ、
その結果、雨が漏り風が吹き抜ける廃屋のような宮殿に住みボロボロの衣服を着られた
仁徳天皇が、
民の竈から煙が昇るのを眺められて、民が豊になったことを確認されて喜ばれた故事と、
その仁徳天皇の為に巨大な墳丘をもつ御陵が造営されたことの二つは、
共に国民に寄り添い一体となる我が国の「しらす天皇」と国民との強い絆に裏付けられていると思える。
 
 仁徳天皇の御陵は、大阪府堺市の中心部の丘の上に造られており、
中心に全長四百八十六メートルの土で盛られた巨大な墳丘が造られ、それを三重の周濠が取り巻いている。
その御陵の周濠を含めた南北の長さは八百四十メートル、東西の長さ六百四十五メートル、
周囲二千七百十八メートル、面積四十六万四千平方メートルである。
 そして、これを造営するには、一日二千人が従事するとして十五年八か月の歳月が必要で、
延べ六百八十万七千人の動員が必要と推計されている。
 つまり、当時の我が国の全人口を上回る延べ人員が動員されて仁徳天皇の御陵は造営された。
これは、まさに、古代における空前の巨大土木工事である。
しかも、この造営に関して他国と異なる特徴は、
この工事が、奴隷の強制労働によってではなく、
人々の自主的な参加によって為されたことである。
この土木事業に奴隷を使役した痕跡がないのだ。周囲に奴隷の収容所とか拘束道具の類は一切見つからない。
 では何故、古代において、延べ六百七十万七千人もの人々が自主的に御陵造営に参加したのであろうか。
 
 平成二十五年に行われた伊勢神宮の式年遷宮の各行事は、遷宮の八年前の平成十七年から始まった。
私は伊勢の大湊の「一日神領民」にしてもらって、
ある夏は、五十鈴川に浮かべた巨木を大勢の人々が川に浸かりながら神宮まで曳いてゆく
「川曳き」の行事に参加させていただき、その後、一人が一つの白い石を掌(たなごころ)に持って
新しく造営された神殿の周りにそれを置いてゆく
「お白石持ち」の行事に参加させてもらった。冒頭の写真は、その「お白石持ち」の際のものである。
 その「お白石持ち」の日は、暑い夏のかんかん照りの日であった。
その中で、何万という人々が、一人一つの白い石を持って、
何時間も静かに列んで神殿の周りに石を置いていく。
ダンプカーやシャベルカーですれば、数時間で済むことである。
 しかし、決して機械は使わない。
 人々は太古以来のやり方で、黙々とお白石を持ち、それを神殿の脇に置いていた。
労賃をもらうなど誰も思わず、却って奉仕させていただけることに喜びを感じている。
これは確実に、古代から我々の先祖が力を合わせて土木工事を為し遂げてゆくやり方と少しも違わない。
私も、一つの石を持って長い時間列び、
それを心をこめて神殿の横に置いた。
その一つの石を置くのにまる一日かかった。
そして、充実した一日を過ごした思いに浸った。
ビールが待ち遠しかった。
その時、ひらめいた。
あ、そうか、仁徳天皇の御陵の造営も、この「お白石持ち」のやり方だったのに違いない、と。
私は、天照大神を祀る伊勢神宮の式年遷宮の行事に参加できたことに喜びを感じ、
神殿の横に小さな白い石を置けて伊勢神宮との一体感を味わった。
同様に、仁徳天皇の御世に生きた人々も、
あの自分たちの竈から昇る煙を見て喜ばれた仁徳天皇の御陵を造営する為に、
籠一杯の土を運び、その土を撞き固めることに喜びを感じ天皇との一体感を味わったのだ。
 
 思えば、二十年ごとの神宮の式年遷宮は、
第四十一代の持統天皇の御世(六百八十年)に始まったといわれている。
とはいえそれは、突然その時に始まったのではなく、
遙か以前の第十六代の仁徳天皇の時の土木事業の手法が代々伝えられてきて式年遷宮の各行事のやり方となって定着し、それから千三百年を経た現在まで続いてきたのだ。
 そのように私は、「お白石持ち」の一日を体験して実感した。
 
 そして、さらにその持統天皇の第一回の式年遷宮から六十三年を経た天平十五年に、
聖武天皇が発せられた「廬舎那佛金銅の大像を造り給ふの詔」を思い出す。
 その詔(みことのり)には、
「如(も)し更に人の一枝の草一杷(は)の土を持ちて、造像を助けむと情願する者あらば、恣(ほしいまま)に之を聴(ゆる)せ」とある。
 これこそ、聖武天皇が、奈良の都に大仏を造るにあたり、
民衆に、何百年も前からの仁徳天皇の御陵造営をやり方、
つまり、式年遷宮における「お白石持ち」の奉仕を呼びかけられたものであろう。
 このように、仁徳天皇御陵の造営と神宮の式年遷宮そして大仏造像の詔を眺めるとき、
我が国における巨大事業は、
「天皇と民の一体感」を基礎にして為し遂げられてきたといえるのだ。
 
 また、現在に目を転じても、
地味ではあるが、同じ天皇と民の絆を示す尊いことが途絶えることなく続けられている。
それは、皇居の清掃奉仕だ。
毎日、全国津々浦々から人々が「奉仕団」をつくって、早朝、皇居の桔梗門の前に集まり、
数日間、皇居内の掃除をしている。
その間に一度、皇居内で天皇皇后両陛下から「ご会釈」を受けて感激して郷里に帰って行く。
これ、太古の国民(くにたみ)の心情と同じである。
何故なら、古代国家にも近代国家にも、等しく万世一系の天皇がおられるからである。
これが太古から変わらない我が日本の姿である。
 
 次ぎに仁徳天皇の仁政に顕れた我が国の統治思想について記したい。
まず第一に、弊衣をまとい廃屋に住んでいるのに民が豊かなれば自分も豊になったと喜ばれる
天皇は、
全く、無私無欲の御存在である。
 このような存在は、西洋では宗教家のアッシジの聖フランシスなどに観られるが、
彼らは国家元首ではあり得ない。
 しかし、我が国は、太古から、
国家元首にして無私無欲の天皇を戴いているのである。
 
 仁徳天皇の施策は、第一に減税である。それと同時に、大土木工事の敢行だ。
現在の大阪平野といわれる大地は、太古には湿地帯であり時に広大な湖となる。
そこで、仁徳天皇は、
琵琶湖から流れてくる淀川水系と大和から流れてくる大和川を分離して大川を開削し、
淀川に長大な茨田の堤を造って洪水を防ぎ、大阪を湿地帯から肥沃な平野に変えた。
現在の、大阪市街地のある大地は、このようにして造成されたのである。
即ち、仁徳天皇は、
減税によって国民の可処分所得を増加させるとともに、
大土木工事を敢行して総需要を増大させ、豊かな古代社会を実現したといえる。
これは、古代におけるケインズ政策の実践である。
 そして、この豊かな古代社会をもたらした仁徳天皇への民の敬仰の思いが、
現在も堺市に存在する世界最大の前方後円墳である仁徳天皇の御陵の造営につながってゆく。
即ち、権力ではなくしらす天皇の仁徳が巨大古墳を造営したのだ。
 
 さて、この仁徳天皇の仁政の故事を施政の理想とし、
また、それを実践した明治維新期の卓越した人物が二人いる。
一人は、薩摩の西郷隆盛でありもう一人は備中松山藩の山田方谷である。
 西郷さん曰く、「租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也」、
そして両者ともに、
 文を興し、武を振るい、農(産業)を励ますことを政の基本とした。


西村眞悟の時事通信より。












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