先日、飲みすぎたせいか胃が痛くなって胃薬を飲んだ。胃薬というのはかなり難しい薬である。と言うのは胃の症状は単純ではなく、正しい薬を使わないと逆効果になってさえしまうからである。
そういうわけで、第一類に分類されるH2ブロッカー薬などを除くと、日本で市販されている胃薬は基本的に「効かない」ように設計されているらしい。つまり胃酸の分泌を抑える成分と胃酸を出させる成分の両方が入っていて、「気分」としては何となく効いたように思わせるが、実際にはプラスマイナスゼロになるように作られているのだそうだ。
実は日本のマスコミも同じように設計されている。不偏不党、中立公正という名の下に、常にバランスを取り、つまりはひとつのポイントを問題にしても、別のポイントでは全く逆の主張をし、すべての問題を矛盾のカオスの中に混ぜ込んでしまうのである。
このことは何かしらの現場にいればすぐ気づくことだ。よく市民運動をしている人たちはマスコミに取り上げられると喜んだりするのだが、たいていの場合、必ずしっぺ返しを食らう。マスコミは決して市民運動の味方ではないからだ。
まあ、それはともかく。
福島原発で大規模な汚染水漏れが発生し、おそらくレベル3以上に指定されるだろう。この問題はその前の地下水流出問題と関連しているかもしれない。つまり参議院選挙を前にして汚染水の海への流出という問題を秘密にしようとしたために、チェックが甘くなったり、もしくは見て見ぬふりをしたりしていて、これだけ流出が大規模になるまで公表できなかった可能性も考えられると思うのだ。
この事態を受けて、マスコミはまた東電叩きである。当然ではあるのだが、しかしそうやって表面的にもぐら叩きのような批判をしても、本質的な解決になるわけではない。
原発問題は、わかりにくい言い方かもしれないが、現実的解決が不可能な事象である。どのようなことをやっても解決する方法が無いのだ。不治の病と同じである。いったん罹ってしまったら、あとは進行を遅らせる対処療法しかない。それはつまり原発の即時停止と、核廃棄物の永続管理をするということである。それですら今すぐ死ぬことを回避できるだけで、永久に病と決別することは出来ず、ずっと戦い続けねばならないのだ。
それこそ中途半端な解決法など何の意味も無いのである。
マスコミは(マスコミだけと言ったら不公平か。政治家も同じだから)こういう話になるとすぐに、経済より安心・安全が優先だとか言いたがる。しかし話題が次に変わると、今度はいかに景気を回復するのかとか言い始めるのだ。
経済発展と環境保全は両立しない。
このあまりにも当たり前の事実をマスコミは絶対に語ろうとしないのだ。そしてこの正反対の問題がまるで両立するかのように、両立することが前提のように語るのである。まさにプラスとマイナスを同時に語ることによって、結局ゼロにしてしまうのだ。
もちろん、遠い将来、不治の病を治せる画期的な新薬が開発されるかもしれない。核問題を解決する驚異の技術が生まれるかもしれない。同じように環境と経済を両立させることが出来る革命的な手法が編み出されるのかもしれない。
しかし少なくとも今は、そんな夢のような薬や技術や手法は存在していないのだ。
今は夢の上に砂上の楼閣を築いているときではない。今はどちらを選択するかギリギリのところで迫られている瞬間である(もちろんもうその限界を過ぎてしまっているのかもしれないが)。
確かにこの選択はどちらを選んでも大変苦しい。
だからと言って楽そうな道を探していたら、その間に洪水や土砂崩れに飲み込まれてしまう。なぜなら、そんな道はまだ作られていないからだ。
マスコミや政治家が相手にしている最も大きな対象は大衆である。
だから大衆の機嫌を損ねることは言いたくない。耳当たりの良い甘い言葉をささやいていたい。それはそうかもしれないが、そうしたら大衆は本当の厳しい状況に気づかないまま遭難してしまう。
経済発展の道を捨てれば、確かに困窮が始まるかもしれない。しかし環境を捨てて苦しんで滅ぶよりは、ずっとましなのではないのか。
現実には存在していない「中国の軍事侵攻」の幻想の危機を煽るより、今現実に直面している本当の危機、本当の苦しみを大衆に突きつけることが、公器としてのマスコミの使命だと思う。
そういうわけで、第一類に分類されるH2ブロッカー薬などを除くと、日本で市販されている胃薬は基本的に「効かない」ように設計されているらしい。つまり胃酸の分泌を抑える成分と胃酸を出させる成分の両方が入っていて、「気分」としては何となく効いたように思わせるが、実際にはプラスマイナスゼロになるように作られているのだそうだ。
実は日本のマスコミも同じように設計されている。不偏不党、中立公正という名の下に、常にバランスを取り、つまりはひとつのポイントを問題にしても、別のポイントでは全く逆の主張をし、すべての問題を矛盾のカオスの中に混ぜ込んでしまうのである。
このことは何かしらの現場にいればすぐ気づくことだ。よく市民運動をしている人たちはマスコミに取り上げられると喜んだりするのだが、たいていの場合、必ずしっぺ返しを食らう。マスコミは決して市民運動の味方ではないからだ。
まあ、それはともかく。
福島原発で大規模な汚染水漏れが発生し、おそらくレベル3以上に指定されるだろう。この問題はその前の地下水流出問題と関連しているかもしれない。つまり参議院選挙を前にして汚染水の海への流出という問題を秘密にしようとしたために、チェックが甘くなったり、もしくは見て見ぬふりをしたりしていて、これだけ流出が大規模になるまで公表できなかった可能性も考えられると思うのだ。
この事態を受けて、マスコミはまた東電叩きである。当然ではあるのだが、しかしそうやって表面的にもぐら叩きのような批判をしても、本質的な解決になるわけではない。
原発問題は、わかりにくい言い方かもしれないが、現実的解決が不可能な事象である。どのようなことをやっても解決する方法が無いのだ。不治の病と同じである。いったん罹ってしまったら、あとは進行を遅らせる対処療法しかない。それはつまり原発の即時停止と、核廃棄物の永続管理をするということである。それですら今すぐ死ぬことを回避できるだけで、永久に病と決別することは出来ず、ずっと戦い続けねばならないのだ。
それこそ中途半端な解決法など何の意味も無いのである。
マスコミは(マスコミだけと言ったら不公平か。政治家も同じだから)こういう話になるとすぐに、経済より安心・安全が優先だとか言いたがる。しかし話題が次に変わると、今度はいかに景気を回復するのかとか言い始めるのだ。
経済発展と環境保全は両立しない。
このあまりにも当たり前の事実をマスコミは絶対に語ろうとしないのだ。そしてこの正反対の問題がまるで両立するかのように、両立することが前提のように語るのである。まさにプラスとマイナスを同時に語ることによって、結局ゼロにしてしまうのだ。
もちろん、遠い将来、不治の病を治せる画期的な新薬が開発されるかもしれない。核問題を解決する驚異の技術が生まれるかもしれない。同じように環境と経済を両立させることが出来る革命的な手法が編み出されるのかもしれない。
しかし少なくとも今は、そんな夢のような薬や技術や手法は存在していないのだ。
今は夢の上に砂上の楼閣を築いているときではない。今はどちらを選択するかギリギリのところで迫られている瞬間である(もちろんもうその限界を過ぎてしまっているのかもしれないが)。
確かにこの選択はどちらを選んでも大変苦しい。
だからと言って楽そうな道を探していたら、その間に洪水や土砂崩れに飲み込まれてしまう。なぜなら、そんな道はまだ作られていないからだ。
マスコミや政治家が相手にしている最も大きな対象は大衆である。
だから大衆の機嫌を損ねることは言いたくない。耳当たりの良い甘い言葉をささやいていたい。それはそうかもしれないが、そうしたら大衆は本当の厳しい状況に気づかないまま遭難してしまう。
経済発展の道を捨てれば、確かに困窮が始まるかもしれない。しかし環境を捨てて苦しんで滅ぶよりは、ずっとましなのではないのか。
現実には存在していない「中国の軍事侵攻」の幻想の危機を煽るより、今現実に直面している本当の危機、本当の苦しみを大衆に突きつけることが、公器としてのマスコミの使命だと思う。