あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

この一週間と、コンピューター文化のこと

2013年09月15日 10時27分58秒 | Weblog
 一週間かけてパソコンの改修をした。改修と言うより新しいパソコンを組みなおしたと言う方が正確かもしれない。
 この記事では、おそらく関心の無い方には全く意味の無いことを延々と書くが、どうでもよいと思うところはどうか読み飛ばして欲しい。


 と言うことで今回は、マザーボード、CPU、メモリ、それとシステム用のHDDを換装し、新しいOSをインストール、アプリケーションも入れ直した。
 ぼくが最初にパソコンの自作をしたのは、たしか15年位前のことで、そのころから基本的にAMD信者だ。しかし最近はAMDもIntelと真正面から張り合わないような路線変更をしているようで、あまりこれと言えるようなCPUが無く、今回はHaswell版のCore i5を選択した。たぶんIntelの石を買ったのはPentium 4以来ではないかと思う。

 パソコンは何台か持っていて、今回改修したのはメインマシンなのだが、この夏の暑さのせいもあったのか、この数ヶ月間フリーズする回数が多くなり、ついに先々週にはビープ音をビービー言わせて立ち上がらなくなった。
 このときは蓋を開けてメモリを抜き差ししたら立ち上がったのだが、そもそもOSがWindows XPだったこともあり、いよいよここがタイミングだと思って組み直す決断をしたのである。

 新しいOSはあえてWindows 7の64bit版を選択。セットアップまでは半日で全て作業が終わったのだが、むしろここからが大変なのだ。
 一応、数え切れないほどやってきたことだから、それなりに慣れてはいるが、やはり長年使ってきた環境を再現させることは簡単ではない。完全にマシンを作り直したようなものなので、普通にアップグレードとはいかないのである。

 意外にもアプリケーションは普段使っているものに関してはほとんど問題なかったが、むしろハードの方がかなりひどい状態になった。
 マザーをMicroATXにしたためもあって、FDD、IEEE1394、ATAのソケットが無くなった。まあこの辺は現状では使っていないので実質的に問題ないのだが。
 困ったのはドライバが無くなってしまったものだ。これで使えなくなったのは、キーボード、FAXモデム、電子手帳、サウンドボードなどである。これらは現役で毎日使っているようなものばかりなので大打撃だ。
 サウンドボードはオンボードサウンドを使うことで決定的な支障にはならないが、MIDI端子が無くなってしまった。キーボードは純正の富士通の親指シフトであったが、仕方ないので普通のキーボードに変更した。日本語が打ちづらくなってしまった。
 FAXは64bit Windows 7に対応したものを買い直すしかない。最も打撃なのは電子手帳で、これは日常的に使っているものなのに急に全く使えなくなってしまった。今のところ打開策はないようだ。


 新しく購入すればなんとかなるものなら、それを買い直すのは必要なコストとしてある程度仕方ない。しかし全く代わるものが無い場合はとても困る。
 それだけではない。壊れてもおらずにちゃんと使える機械が、しかも本当は必要なものなのに、ゴミにするしかなくなるということに大きな疑問を感じてしまう。
 一番の原因はマイクロソフト社の方針にある。新しいOSを売るために古いOSを使えないようにしてしまうのだ。もちろん建前上は全く使えないわけではない。使おうと思えば使えるのだが、マイクロソフトがサポートを打ち切れば、他の会社も皆追随してサポートしなくなる。セキュリティソフトが対応しなくなるのは、現在の状況ではパソコンとして使えなくなるのと同義である。
 結局、古いOSは使えなくなるのである。

 これはつまり商売=ビジネス戦略なのだ。古いものをいつまでも使われると儲けにならない。だから強制的に使えないようにして、古いものはたとえ使えるものであっても捨てさせようというのである。
 そして新製品は天文学的な宣伝費をかけて徹底的に売り込みをはかり、人々の頭の中に植えつける。これが資本主義経済である。

 昔ある会社で営業部に配属になったとき読まされた本に、エスキモーに氷を売るとか、冷蔵庫を売るという話が書いてあった。それが偉大なセールスマンだと言うのである。新たな需要の開拓という。
 しかしそれは言い換えれば必要ないものを買わせるということである(もしくは詐欺か?)。そしてそれが資本主義経済を支える根本的なあり方である。
 自給自足の社会に貨幣経済を持ち込み、いくら働いてもカネにならなければ生きていけない社会に改変すること、それが資本主義の正義である。

 世の中に広告があふれているが、極論すれば宣伝されているものは何一つ必要なものではない。必要が無いから宣伝しなくては売れないのだ。古い社会では広告が無くても、人は自分に必要なものがどこにあり、どうやったら手に入るのかを知っていた。それでちゃんと生きていけた。何の店がどこにあるのか、自分で作れるものは何でそれはどうやって作るのか、山や海に行ったら何が採れ、採るにはどうしたらよいのか。

 別にそうした生活がベストだ、そういう生き方をしようと言いたいのではない。ただ人類がずっとそんな風にして生きてきたことを、そういう形でも破滅などしないのだということを、忘れない方が良いと思うだけだ。
 今の世の中のあり方だけが全てではない。唯一の正解でもない。経済が活性化しなくては生きていけないわけではないし、経済成長しなかったら人類が滅ぶわけでもない。それは我々がそう思い込んでしまっているだけのことなのだ。
 冷静に考えたら、地球が何億年もかけて蓄積した資源を大量に消費し、大量のゴミや放射能をばら撒き、絶対に必要というわけでもないモノを買い、そしてそのために必要以上に働かなくてはならない社会の方が、ずっと不健全で、破滅への道ではないのか。
 それなのに今の社会は、それこそ最も重要なのだと叫び続けている。

 Linuxという系統のOSがある。多くの場合、これらは無償で提供されている。ボランティアが作り支えているのだ。Linux系のOSもかなり速いスピードで世代交代するが、以前使えていた部品や周辺機器が使えなくなるケースは比較的少ない。
 ぼくは必ずしも「無償」が正義だとも思わないが、こうした「フリーウェア」や「フリーソフトウェア」主義者たちの理想は、古い時代に後戻りするというのではない、商業主義を越えた新しい思想の可能性を教えてくれる。
 マイクロソフトやインテルやアップルが世界を支配し莫大な利益を得ている。そしてそのことを彼ら自身も、そしてそのユーザーも、まるで現代の福音のように誇り、あがめたてている。それはいかにも世界の最先端にいるようでいて、しかし実は行き詰った社会のあだ花でしかないのだと思う。

 せめてマイクロソフトはサポートを終了したOSを、フリーソフトとして解禁したらどうだろう。そうすれば、ボランティアが様々なサポートを引き継ぎ、ずっと使い続けられるものになるかもしれない。
 マイクロソフトの利益は激減するだろうが、それでも最新の技術を追い求める人たちが、より高額の出費をしてでも新しいソフトを求めるだろうから、全くビジネスにならなくなるわけでもないだろう。開発費は少なくなるが、それは開発サイクルを長くしていけばよいだけのことだ。今のような一日、一時間、一秒を争うような開発スピードが常軌を逸しているのであって、もっと人類の生理に合わせたスピードにした方が良いに決まっている。

 コンピューターと電子的ネットワークは人類の新たな可能性を引き出した。言論においても産業においても、過去の人類にとって桎梏だったことを、やすやすと乗り越えている。
 活用できれば、資源の消費を減らし、労働時間を短縮し、人類の平等をもたらすことができ、新しい文明の基礎になり得る技術革命である。しかしそれが今は旧世代の商業主義、資本主義、国家主義の道具にされて、それとは全く逆の方向に使われている。新しい可能性の萌芽が、脂ぎったジジイたちの欲望を満たす手段に堕している。

 とは言え、ぼくにとっていま一番あたまが痛いのは、新たに買ったパーツの支払いをどうするかであるのだが…