あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

鎮魂の月に「死」を考える

2014年08月05日 21時27分22秒 | Weblog
 八月は鎮魂の月である。敗戦の月であり、またあの日航ジャンボ機墜落事件も八月だった。もちろんそれ以前にお盆の月であり、墓参りをされる方も多いだろう。
 先日テレビを見ていたら、ニュースショーの中で夫と同じ墓に入りたくない妻が3割いるという話題をやっていた。そういう人向けに女性だけの共同墓地が作られているのだそうだ。ちなみに男性だけの共同墓地は需要が無いらしい。
 ぼくは結婚していないので夫婦のことはわからないが、35年前に入った大学が偶然ながら仏教系の大学で、そこの教授の中にお墓について研究している先生がいた。もうすでにその当時から墓地の用地取得は将来的に難しくなるので何らかの対策が必要だ、共同墓地もそのひとつの解決策だというようなことを主張されていた。

 ぼくの父は末っ子でしかも生まれ故郷からはるか遠く離れてしまっており、ぼくの家の墓というのは無い。弟はすでに結婚して違う姓を名乗っているし、ぼく自身にも妻子が無い。これから墓を建てるという気はぼくにはさらさら無い。以前に書いたように(「果たせなかった花見」2014/4/4日)うちでは葬式もしないつもりである。
 いろいろ思うところもあるのだが、母は自分が死んでも誰にも知らせるなと言っている。現実にはそうもいかないだろうが、たぶんそもそも知らせなくてはならない相手がもうだいぶ亡くなっていたり、音信が途絶えていたりしているので、出そうと思ってもそうは出せない。

 ぼくも可能なら自分の死を誰にも知らせたくない。子供の頃から人間嫌いだったのだが、生きていく中ではそうも言っていられないので、それなりにうまく人付き合いをしていると思うが、歳をとるに従ってどんどんそういう人付き合いが面倒になってきた。
 もちろん人間がいかに一人で死にたいと思っても、そうはいかない。いずれにしても死んでしまっては何も出来ないのだから、誰かに後始末をしてもらうしかない。死ぬということははた迷惑な事なのである。しかし考えてみれば生きていたって、と言うよりむしろ生きている間の方がずっと他人に迷惑をかけているような気がする。結局、人間は関係性の中で存在する以上、本質的に迷惑をかけ合うものなのだ。
 人間の文化は基本的にそれを了解した上で構築されている。それがある面では社会的協働の基礎になっているとも言える。迷惑も受けるが、しかし協働・分業として繋がり合わないと自分自身が生きていけない。それは一対一対応の貸し借りのようなことではない。社会システム全体で迷惑と利益がバランスを取っているのである。考古学的研究によれば、老人の扶養や障がい者の介護は相当古い人類にも存在している。それを含めて社会であり、そうした社会を基盤として人間は共存してきたのだ。
 だがやがて社会の規模が大きくなり、社会的格差が大きくなると(つまり生産者が権力者により多く奪われるようになると)「うば捨て」のような、迷惑の切り捨てが起こるようになるのかもしれない。そして「個人」を基盤とする近代が始まると、迷惑と利益は数値化され一対一対応の等価交換にされていった。それが現代に入っていよいよ利益至上主義が蔓延し、「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉の意味が、倫理の問題ではなく経済の問題に置き換えられてしまった。

 話がそれてしまったが、そもそも人間の死とは何なのだろう。
 人は自分の死を認識することは出来ない。それ以前に人は自我という存在を介してのみ世界を認識できる。目で見て耳で聞いて体で触れて、それを脳で認識して、はじめて我々は世界の存在を知る。その意味では宇宙とは自分自身である。死とは自我の消失であり、それは極端に言えば宇宙の消滅であるとも言える。
 別の言い方をすれば、人は死なない。少なくとも自分の死は認識できない以上、認識できない事象は存在しないと言うしかない。死は常に他者のものなのである。人を葬り墓を建て儀式を行い続けるのは、本当は死者のためではなく生者のためである。

 さらに死をもっと別の視点から考えることも出来る。死とは文化なのである。現代社会では医療分野で移植医療が長く花形であった。ぼくはその分、再生医療分野の進展が遅れたと思っているが、それはともかく、移植医療を巡っては現在でも脳死が人の死かどうかが議論される。脳死という概念は移植医療のためだけに作られた一番新しい死の概念である。
 その直前までの死の概念は心臓死であった。これも実は近代合理主義・科学主義の中で人の死をどこかの極点において確定しなくてはならないという理由から作られた死の概念であった。医者(もしくは科学者、もしくは権力)が共通の基準で人の死の瞬間の時間を決定しなくてはならなかったからだ。
 しかし近代合理主義以前の死はもっと緩やかだった。たとえば日本仏教では死は、人が息をしなくなり冷たくなった日を命日としそれから49日間の間、魂がこの世とあの世の間を行き来する、もしくは地上でさまよっているとされる。御霊前とか御仏前とか香典袋に書く表書きが違う理由である。つまり人は息をしなくなってもなお完全に死んではおらず、何日もかかってゆっくり死んでいくのである。
 古代エジプトで支配階級の人をミイラにするのは、人の魂は死なずいつかこの世の肉体に戻ってくると考えるからである。この場合は死は本当の死ではなく仮象でしかない。そういう意味で死とは生理学的事象ではなく文化的事象であると言うことが出来る。

 死について人間は様々な感慨を持つ。どれが正しいと言うことはないと思う。それぞれの人にそれぞれの死があってよい。
 孤独死を恐れる人がいる。ぼくはそれを否定するつもりはないが、ぼく自身は何とも思わない。なぜなら前述したように「ぼくは」死なないからである。おそらくぼくにとって死は日常の延長でしかない。もちろん死とは虚無であり、虚無ということを考え出すと恐ろしい言うか、何か底のない地割れの中をのぞき込むような言いようのない不安を感じる。何しろ我々は「有」の世界に生きるのであり、「無」というものを認識できないのだから。また生物的本能として死に対する忌避感、防衛本能も働く。痛いとか苦しいというのも(死ぬほどと形容されるような)ちょっと遠慮したい気もする。しかしそれはそれであって、たとえば寝ている間に気づかないまま突然死するのなら、別に孤独死であろうがなんであろうがかまわないのだ。

 もちろんこれは、ぼくの個人的な死生観であって、他人に押しつける気もないし、他の人達の死生観を否定するつもりもない。むしろ積極的に尊重したいと思う。
 ただ死生観というのはその人毎に大きく違うだろうということを言いたいだけだ。それはまさにその人の文化であって、肝心なのはその人の死生観をちゃんと理解し、それを尊重して侵害したり毀損しないことなのだと思う。それを理解した上でその人に関わり寄り添うこと、それは実はとても難しいことで、ぼく自身いつも悩むのだけれど、悩むこと自体がまた他者や社会と自分の関わりを広げ、深めることになるのだと思いたい。