8月15日が来た。
ぼくにとっては非戦・反戦の記念日なのだけれど、残念ながらだんだん戦争肯定のキャンペーンの日になりつつあるようだ。しかしこれはどう考えてもおかしな話だ。戦勝記念日ではないのだ。敗戦の日なのだから、もしナショナリストであったとしても日本を敗戦に追い込んだ相手を批判、非難、否定するべきだろう。ところが実態は原爆を投下し、都市への無差別空襲を敢行し、日本兵と在外日本人を玉砕に追い込んだアメリカ合衆国を批判するどころか、べったりくっついて一番の子分として認めてもらおうと必死の様相だ。まさに日本の右翼・ナショナリストの大半はポチであり、文字通りの「売国奴」である。
何かの戦争に関わる記念日が近づくと、非戦派、反戦派、平和主義に対する攻撃とかネガティブキャンペーンが行われる。今回は朝日新聞の従軍慰安婦強制連行の報道がでっち上げの虚偽報道だというキャンペーンが張られ、右翼政治家たちが国会で問題にしようとはしゃいでいる。
正直言ってこの問題について、ぼくはまだちゃんと調べていないし検討することが出来ないのだが、ただ一般論としてやられた側が少なくとも事実上の強制があったと訴える以上、やった側が何十年も経って生きた証人がいなくなってきた段階でそれを否定するというのは、やはり道義にもとると言いたい。犯罪者は犯罪を犯したとは言わないのだから。
今の親はどうなのか知らないが、昔の親は子供が喧嘩をすると叱った。勝とうが負けようが、喧嘩をすること自体をとがめた。先に手を出したり、自分より弱い子をいじめたら怒られた。そのことを隠したらもっと怒られるというのが常識だった。
まさに日本の右翼・ナショナリストがやっていることは、弱い者イジメをしたクソガキが、自分はやってない、自分は悪くないと開き直っているようなものだ。そして親たる国家はそれを叱らないどころか、むしろ積極的にそれを推奨している。まわりの親(国)たちはその姿をあきれかえって見ているのだ。全くろくでなしの親子である。
どんな宗教、どんな道徳でも、他人を責める前に自分のやったことを謙虚に反省することを求めている。むしろ相手を許す心を説いている。ところがそれが出来ないで自己中心的に自分の都合の良いように古い教えを解釈して傍若無人に振る舞うのが、いわゆる原理主義者である。その意味では日本の右翼・ナショナリストはまさに原理主義者だと言ってよい。忍耐と謙虚さと自己犠牲を誇った「日本精神」はどこへ行ったのか?
確かに朝日新聞は「誤報」をしたかもしれない。良いことではないけれど、間違いがゼロになることもないだろう。重要なのは根底に持つ精神であり思想である。過去の歴史をどう評価するのかという根本的な視点に基づいてマスコミ報道は行われるのであり、つまり今回の「朝日バッシング」はそうした視点を巡っての騒動だと考えられる。まあもっとも、そうだからと言って朝日新聞が必ずしも反戦・平和主義であるとか、反侵略であるとは思えないところもあるのだが。
人間は誰しも不十分な存在である。本音と建て前、裏と表もあるだろう。しかし自分が完全でなければ他者を批判できないというものではない。そうであったら、それこそ誰も何の批判も出来なくなる。偽善と言われようが、やはり正しいことは正しいと言うべきなのだ。強盗殺人犯が道徳を語ったら、それはほとんどの人の心に届かないかもしれないが、しかしそれでもその内容が正しければ納得せざるを得ないだろう。自分のことを棚に上げるというのは卑怯なことだ。しかしそれが自分の利益のためのことでないのなら、正義を語ることに意味はある。
新約聖書の福音書の中に「罪なき者まづ石を擲(なげう)て」という言葉がある。これは罪のない者だけが正義を語れるという意味ではない。なぜなら聖書の世界観では人間はみなあらかじめ罪人なのだから。つまり正義をなそうとするならば、まず自らを省みるべきだと言っているのである。人を批判するのなら自分のことも反省せよという意味だとぼくは解釈する(もちろん「罪と罰」のバランスというテーマもあると思うが)。
同じ問題を同じように批判するにしても、自分の中で恥を感じるかどうかは大きな違いである。自分の中に恥を感じるのなら、他者を批判する言葉は同時に自分に対する批判となってこだまするはずだ。批判は快楽ではなく苦痛であるはずだ。それこそが本当に意味のある批判なのだと思う。
正義を語ることを偽善と言って回避するより、他者を批判する苦痛(それは自分自身を刺す苦痛)をかみしめながら、なお正義を語るべきだと思う。
ぼくにとっては非戦・反戦の記念日なのだけれど、残念ながらだんだん戦争肯定のキャンペーンの日になりつつあるようだ。しかしこれはどう考えてもおかしな話だ。戦勝記念日ではないのだ。敗戦の日なのだから、もしナショナリストであったとしても日本を敗戦に追い込んだ相手を批判、非難、否定するべきだろう。ところが実態は原爆を投下し、都市への無差別空襲を敢行し、日本兵と在外日本人を玉砕に追い込んだアメリカ合衆国を批判するどころか、べったりくっついて一番の子分として認めてもらおうと必死の様相だ。まさに日本の右翼・ナショナリストの大半はポチであり、文字通りの「売国奴」である。
何かの戦争に関わる記念日が近づくと、非戦派、反戦派、平和主義に対する攻撃とかネガティブキャンペーンが行われる。今回は朝日新聞の従軍慰安婦強制連行の報道がでっち上げの虚偽報道だというキャンペーンが張られ、右翼政治家たちが国会で問題にしようとはしゃいでいる。
正直言ってこの問題について、ぼくはまだちゃんと調べていないし検討することが出来ないのだが、ただ一般論としてやられた側が少なくとも事実上の強制があったと訴える以上、やった側が何十年も経って生きた証人がいなくなってきた段階でそれを否定するというのは、やはり道義にもとると言いたい。犯罪者は犯罪を犯したとは言わないのだから。
今の親はどうなのか知らないが、昔の親は子供が喧嘩をすると叱った。勝とうが負けようが、喧嘩をすること自体をとがめた。先に手を出したり、自分より弱い子をいじめたら怒られた。そのことを隠したらもっと怒られるというのが常識だった。
まさに日本の右翼・ナショナリストがやっていることは、弱い者イジメをしたクソガキが、自分はやってない、自分は悪くないと開き直っているようなものだ。そして親たる国家はそれを叱らないどころか、むしろ積極的にそれを推奨している。まわりの親(国)たちはその姿をあきれかえって見ているのだ。全くろくでなしの親子である。
どんな宗教、どんな道徳でも、他人を責める前に自分のやったことを謙虚に反省することを求めている。むしろ相手を許す心を説いている。ところがそれが出来ないで自己中心的に自分の都合の良いように古い教えを解釈して傍若無人に振る舞うのが、いわゆる原理主義者である。その意味では日本の右翼・ナショナリストはまさに原理主義者だと言ってよい。忍耐と謙虚さと自己犠牲を誇った「日本精神」はどこへ行ったのか?
確かに朝日新聞は「誤報」をしたかもしれない。良いことではないけれど、間違いがゼロになることもないだろう。重要なのは根底に持つ精神であり思想である。過去の歴史をどう評価するのかという根本的な視点に基づいてマスコミ報道は行われるのであり、つまり今回の「朝日バッシング」はそうした視点を巡っての騒動だと考えられる。まあもっとも、そうだからと言って朝日新聞が必ずしも反戦・平和主義であるとか、反侵略であるとは思えないところもあるのだが。
人間は誰しも不十分な存在である。本音と建て前、裏と表もあるだろう。しかし自分が完全でなければ他者を批判できないというものではない。そうであったら、それこそ誰も何の批判も出来なくなる。偽善と言われようが、やはり正しいことは正しいと言うべきなのだ。強盗殺人犯が道徳を語ったら、それはほとんどの人の心に届かないかもしれないが、しかしそれでもその内容が正しければ納得せざるを得ないだろう。自分のことを棚に上げるというのは卑怯なことだ。しかしそれが自分の利益のためのことでないのなら、正義を語ることに意味はある。
新約聖書の福音書の中に「罪なき者まづ石を擲(なげう)て」という言葉がある。これは罪のない者だけが正義を語れるという意味ではない。なぜなら聖書の世界観では人間はみなあらかじめ罪人なのだから。つまり正義をなそうとするならば、まず自らを省みるべきだと言っているのである。人を批判するのなら自分のことも反省せよという意味だとぼくは解釈する(もちろん「罪と罰」のバランスというテーマもあると思うが)。
同じ問題を同じように批判するにしても、自分の中で恥を感じるかどうかは大きな違いである。自分の中に恥を感じるのなら、他者を批判する言葉は同時に自分に対する批判となってこだまするはずだ。批判は快楽ではなく苦痛であるはずだ。それこそが本当に意味のある批判なのだと思う。
正義を語ることを偽善と言って回避するより、他者を批判する苦痛(それは自分自身を刺す苦痛)をかみしめながら、なお正義を語るべきだと思う。