米国の中間選挙で民主党は歴史的敗北を喫した。原因はオバマ大統領の不人気だという。融和主義的、社会福祉的な政策を掲げるオバマ氏だが、本来そこで恩恵を受けるヒスパニックや下層の有権者も投票を棄権した人が多かったという。それは当初オバマ氏が公約したことが現実には実現されず、失望感が広がっているためらしい。
既視感がある。日本の民主党政権の瓦解と同じ臭いがする。これはいったい何なのか。
オバマ氏も日本の民主党も、掲げた理念は、反大企業、反富裕層、格差是正、下層の救済を期待させるものだった。しかし実際には保守派に徹底的に押し込まれる形で、そうした政策がすべて中途半端になり、換骨奪胎されてしまった。その結果、本来の支持層は失望と絶望に陥った。もちろんだからと言って、そもそも大企業や富裕層はこうした政策を前提的に否定しているわけで、そうした勢力から支持を受けられるわけでもない。結局、誰からも支持されないまま大敗北せざるを得なくなったのである。
もはや中途半端な政策は存在する余地がないのだと言うしかない。中道的立場はしだいに居場所を失っている。公明党が中道の立場をかなぐり捨てて、自公連立にしがみついているのも、そうした流れの中での必死の生き残り策であると見ることが出来る。しかしこの流れが変わらなければ、公明党自身が極右化しない限り、現在乱立している極右小政党にその座を追われることになるかもしれない。安倍政権が改造するまではそれはかなり現実味のある話だった。
それではなぜ中間主義的、中道的政策は居場所を失ったのか。それは社会が二極化を強めたためだ。
今や一国内的にも、世界的にも中間層はますます無くなり、富裕層と貧困層へはっきり分かれようとしている。世界の多くの政治家が口にする中流階級の育成というのは、事実上、中流層を上流と下流に切り離す政策であると言ってよい。彼らの言う中流階級とは上流の中の比較的下層という意味でしかない。中流階級は激しい選抜戦、蹴落とし構造の中で、生き残ればリッチ、一つ失敗したらホームレスにという過酷な状況に置かれている。
もちろん二極化は今に始まったわけではない。資本主義は本質的に二極化する性質を生まれ持ってきている。しかしかつては「自由競争」の中で、その立場性は流動的になり、成功者はやがて没落し、下層からトップに勝ち上がるということも頻繁に起こり得た。今でも「ベンチャー企業」としてそうしたファンタジーが語られるが、それは社会の表層のごくごく一部の話で、宝くじで一等を当てたというのと同じレベルのファンタジーでしかない。
もちろん大企業の没落も起こらないわけではないが、それは結局また別の大企業を肥え太らせることになるだけで、下層の人々のチャンスが増えるわけでは決してない。
世界の富の量が変わっているわけではないのに、大資本はより多くの利益を上げなければ没落してしまう。だから富の流れはますます下から上に流れるしかない。格差は拡大し続けるしかない。強い者ほど競争力が高まるという面白くもない原則が貫かれる限り、「普通」のままで状況が変わる可能性はない。
しかし社会階層が二極化するからと言って、政治思想が二極化すると単純に言えないのが、現代世界の不幸である。片方があまりにも強すぎて、人々の思想の中では「グローバリズム」の一人勝ち状態だ。かつてはマルクス主義、社会主義というオルタナティブの思想が一定の勢力を持っていたのだが、左翼が自滅する中で、現状では腐敗した末期的資本主義思想に対抗する思想はどこにもない。そのはけ口が、まさにイスラム国として出現したのである。
現代の下層の人々の前に示されている選択肢は、グローバリズムを掲げる強大な権力に屈服してその奴隷に甘んじるか、前時代的理不尽を押し通すイスラム原理主義に身を投じるかという、どこにも救いのない二者択一なのである。
われわれの上に覆い被さる重苦しさは、このように現実の生活自体は二極化の苦しみの中にあるのに、それを表現しうる思想的選択肢を奪われていることに起因するのだと思う。
それは、はっきり言えば、われわれ自身が近代の呪縛から逃れられないからである。われわれは、どう言おうと近代の子供であって、その身に染みついた近代を洗い落とすことなど出来ない。そして近代というものを純化していけば、結局、競争によって強い者が勝つというきわめてシンプルな原則を否定できず、だから現代社会を本質的に否定できなくなるのである。
われわれ自身が近代=資本主義=現在の社会=今のワタクシを否定し、乗り越えない限り、この苦しい時代は続かざるを得ない。
既視感がある。日本の民主党政権の瓦解と同じ臭いがする。これはいったい何なのか。
オバマ氏も日本の民主党も、掲げた理念は、反大企業、反富裕層、格差是正、下層の救済を期待させるものだった。しかし実際には保守派に徹底的に押し込まれる形で、そうした政策がすべて中途半端になり、換骨奪胎されてしまった。その結果、本来の支持層は失望と絶望に陥った。もちろんだからと言って、そもそも大企業や富裕層はこうした政策を前提的に否定しているわけで、そうした勢力から支持を受けられるわけでもない。結局、誰からも支持されないまま大敗北せざるを得なくなったのである。
もはや中途半端な政策は存在する余地がないのだと言うしかない。中道的立場はしだいに居場所を失っている。公明党が中道の立場をかなぐり捨てて、自公連立にしがみついているのも、そうした流れの中での必死の生き残り策であると見ることが出来る。しかしこの流れが変わらなければ、公明党自身が極右化しない限り、現在乱立している極右小政党にその座を追われることになるかもしれない。安倍政権が改造するまではそれはかなり現実味のある話だった。
それではなぜ中間主義的、中道的政策は居場所を失ったのか。それは社会が二極化を強めたためだ。
今や一国内的にも、世界的にも中間層はますます無くなり、富裕層と貧困層へはっきり分かれようとしている。世界の多くの政治家が口にする中流階級の育成というのは、事実上、中流層を上流と下流に切り離す政策であると言ってよい。彼らの言う中流階級とは上流の中の比較的下層という意味でしかない。中流階級は激しい選抜戦、蹴落とし構造の中で、生き残ればリッチ、一つ失敗したらホームレスにという過酷な状況に置かれている。
もちろん二極化は今に始まったわけではない。資本主義は本質的に二極化する性質を生まれ持ってきている。しかしかつては「自由競争」の中で、その立場性は流動的になり、成功者はやがて没落し、下層からトップに勝ち上がるということも頻繁に起こり得た。今でも「ベンチャー企業」としてそうしたファンタジーが語られるが、それは社会の表層のごくごく一部の話で、宝くじで一等を当てたというのと同じレベルのファンタジーでしかない。
もちろん大企業の没落も起こらないわけではないが、それは結局また別の大企業を肥え太らせることになるだけで、下層の人々のチャンスが増えるわけでは決してない。
世界の富の量が変わっているわけではないのに、大資本はより多くの利益を上げなければ没落してしまう。だから富の流れはますます下から上に流れるしかない。格差は拡大し続けるしかない。強い者ほど競争力が高まるという面白くもない原則が貫かれる限り、「普通」のままで状況が変わる可能性はない。
しかし社会階層が二極化するからと言って、政治思想が二極化すると単純に言えないのが、現代世界の不幸である。片方があまりにも強すぎて、人々の思想の中では「グローバリズム」の一人勝ち状態だ。かつてはマルクス主義、社会主義というオルタナティブの思想が一定の勢力を持っていたのだが、左翼が自滅する中で、現状では腐敗した末期的資本主義思想に対抗する思想はどこにもない。そのはけ口が、まさにイスラム国として出現したのである。
現代の下層の人々の前に示されている選択肢は、グローバリズムを掲げる強大な権力に屈服してその奴隷に甘んじるか、前時代的理不尽を押し通すイスラム原理主義に身を投じるかという、どこにも救いのない二者択一なのである。
われわれの上に覆い被さる重苦しさは、このように現実の生活自体は二極化の苦しみの中にあるのに、それを表現しうる思想的選択肢を奪われていることに起因するのだと思う。
それは、はっきり言えば、われわれ自身が近代の呪縛から逃れられないからである。われわれは、どう言おうと近代の子供であって、その身に染みついた近代を洗い落とすことなど出来ない。そして近代というものを純化していけば、結局、競争によって強い者が勝つというきわめてシンプルな原則を否定できず、だから現代社会を本質的に否定できなくなるのである。
われわれ自身が近代=資本主義=現在の社会=今のワタクシを否定し、乗り越えない限り、この苦しい時代は続かざるを得ない。