著者 沢木耕太郎
出版 朝日文庫
新聞広告で書名に目が触れた時、 ”はて?”と一瞬昔を振り返った。が思い出せない。著者名に視点が移って、”なるほど!”と納得。そういえば、つい最近、新作の同名の映画広告で何度となく見た。佐藤浩市/横浜流星が主役を張っていた。
沢木耕太郎は同世代。氏の『テロルの決算』からの熱心ではないが追っかけ。現在進行中の週一の新聞連載『暦のしずく』も茂本ヒデキチの画とともに楽しんでいる。
アマゾンで文庫版を求めて読み始めた。小説の展開の処々にデジャブが起きる。何と奇妙な感覚。奥付で出版日を確認。手元の読書記録にも記載は無し。読んではいない。しかし依然と既読感がやって来る。どうしたものか?と暫し困惑したのだった。
結局は新聞連載中に読んでいたことに思い当たった。それしかないという結論に至った。
今、全編読み終わり、久々に高揚感に浸っている。沢木耕太郎健在なり。数か月前TVで観た氏は幾分痩せて見えたが、齢域からしてその方が良かろうと勝手にエールを送っている。
同じボクシングジムでともに級違いの世界チャンピオンを目指した4人の初老が、それぞれの挫折の後に40年振りに再会、一人の青年を世界の舞台に押し上げる一年間を描いた熟年(と同時に青春)のドラマである。
元ボクサーの4人、とりわけ主人公の広岡仁一は、10年余にわたって薫陶を受けて来たジムの会長であった今は亡き真田に対する恩と感謝そして期待を知りつつジムから自ら去った悔恨があった。尊敬する会長の言々区々が過去のシーンでしばしば散見できる。これは著者の言葉でもあろう。以下抜粋。
ーーー日本にいる時は、真拳ジムの会長に、本を読むことと同じくらい映画を観ることを勧められた。「本は頭、映画は心」というのが会長の口癖だった。本と映画はそれぞれの「滋養」になるというのだ。ーーー
ーーードイツの思想家の言葉に、火は鉄を試し誘惑は正しき人を試すというのがあります。鉄は火に灼かれて鋼のように強くなるものもあれば、暖炉の薪の灰のようにもろく崩れてしまうものもあります。確かに鉄は火によって試されます。でも正しさというものを試すのは誘惑などという生易しいものではなく、やはり火です。すべてを燃やし尽くそうとする炎です。燃え盛る炎の中に投げ込まれ、人の魂はのたうち回るのです。もしその魂が真に正しいものならば、どのような炎をくぐり抜けてもなお、水晶のような硬さと透明さを失わないはずです。正しき人になって下さい。ーーー
ーーーおはよう、おやすみ。いただきます、ごちそうさま。行ってきます、ただいま。ありがとう、ごめんなさい。この八つの言葉が言えれば集団生活は円滑にいきます。これだけは常に口にしてください。ーーー
最後に、著者の『「生き方」でもなく、「死に方」でもなく』と題した文庫版あとがきの部分を紹介しておこう。
私が描きたかったのは、彼の「生き方」ではなかったような気がする。見事な「生き方」でもなく、鮮やかな「死に方」でもない。そのような言葉があるのかどうか定かではないが、あえていえば「在り方」だった。過去から未来に向けての「生き方」や「死に方」でなく、一瞬一瞬のいまがすべての「在り方」。「生き方」や「死に方」という未来のために現在をないがしろにしたり犠牲にしたりせず、いま在るこの瞬間を惜しむ・・・・。もしかしたら、私は広岡の一年に寄り添いながら、男として、というより、人としての理想の「在り方」について常に考えつづけていたのかも知れない。
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