西太后悪女説を覆した方は「台湾師範大学 雷家聖博士」(1970~)。
「戊戌の政変(1898/08/06)」で西太后64歳が光緒帝28歳を幽閉する事態に陥ったのは
「清朝の英保護領・植民地計画」を阻止する為。
清朝に英国から派遣された表向きは宣教師、Timothy Richard ティモシー・リチャード(1845~1919)
中国名 李提摩太(リテイマタ)、裏向きは英国公使館為に仕事をしていた牧師の仕掛け計画。
雷家聖博士の著書
「『Power to Save the Day: A New Exploration of the Hundred Days' Rebellion』
(失われた真実 清末百日の乱史の新探求)台北 萬年老書社 2004年」で、
彼は多大な史料収集、それらの資料文言を確認、推量・論理展開されてます。
以下はNHKインタビュー等の内容から。
博士も最初は流布されていた「西太后悪女説」を信じ
「戊戌の政変」は西太后が悪いと思っていましたと。
しかし、分析を進めるうちにどうも違うと気づいたのです。
博士が注目したのは
1898年8月5日、紫禁城で伊藤博文と光緒帝が会見した出来事。
日本侯爵伊藤博文は明治維新の立役者です。
当時、伊藤博文は総理を辞任したばかりで漫遊と称して清朝を訪れていました。
(「続 伊藤博文秘録」〈春秋社版〉)これに光緒帝との会見の様子が記してまります。
「何日位、いる予定か。我が国は改革を望んでいる。助言があれば是非お願いしたい。」
交わされたのは社交辞令のみ。この翌日1898年8月6日光緒帝幽閉事件の発生。
後に、伊藤は妻の梅子さんに「何が起こっているのかわからない」と戸惑いを伝えてます。
事件前日の面会はあくまでも偶然と思われていました。
伊藤は会う予定でないにも関わらず、光緒帝の希望で会ってます。
なぜ、光緒帝は伊藤に合ったのか?裏に何かがあるのではないかと思ったのです。
博士は散逸していた当時の史料を徹底的に収集・分析、その結果、ある国際的な謀略が
あった事をあぶり出しました。
政変2ヶ月前、1898年6月の改革派の官僚、洪汝冲の光緒帝に対する嘆願書(上奏文)。
これが謎を解くきっかけになりました。これが伊藤博文に最初に言及した文書です。
「改革を推進する為、欧から有能な政治家を招いて指導を仰ぐべきです。
ちょうど伊藤博文が旅行に来ます。是非皇帝陛下の権限で北京に留め各国政治家の
まとめ役として下さい。」
その3年前、同じような提案をしている人物を発見、李提摩太(ティモシー・リチャード)です。
1895年李提摩太は清朝政府に「新政策」を提言、そこには、
「改革の為、(清)政府の半分は(西)欧人を迎えるべき、私も実力を十分持ってます。
財務関係の仕事のまとめ役としてお力添えできると思います。」と。
親切のように聞こえますが、これは典型的な英国のやり口です。
かって印でも近代化の顧問と称して英人を送り込み植民地にしました。
当時、権力を握っていた西太后は即座に却下、取り上げませんでした。
(さすが百戦錬磨の為政者では?) 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)
「戊戌の政変(1898/08/06)」で西太后64歳が光緒帝28歳を幽閉する事態に陥ったのは
「清朝の英保護領・植民地計画」を阻止する為。
清朝に英国から派遣された表向きは宣教師、Timothy Richard ティモシー・リチャード(1845~1919)
中国名 李提摩太(リテイマタ)、裏向きは英国公使館為に仕事をしていた牧師の仕掛け計画。
雷家聖博士の著書
「『Power to Save the Day: A New Exploration of the Hundred Days' Rebellion』
(失われた真実 清末百日の乱史の新探求)台北 萬年老書社 2004年」で、
彼は多大な史料収集、それらの資料文言を確認、推量・論理展開されてます。
以下はNHKインタビュー等の内容から。
博士も最初は流布されていた「西太后悪女説」を信じ
「戊戌の政変」は西太后が悪いと思っていましたと。
しかし、分析を進めるうちにどうも違うと気づいたのです。
博士が注目したのは
1898年8月5日、紫禁城で伊藤博文と光緒帝が会見した出来事。
日本侯爵伊藤博文は明治維新の立役者です。
当時、伊藤博文は総理を辞任したばかりで漫遊と称して清朝を訪れていました。
(「続 伊藤博文秘録」〈春秋社版〉)これに光緒帝との会見の様子が記してまります。
「何日位、いる予定か。我が国は改革を望んでいる。助言があれば是非お願いしたい。」
交わされたのは社交辞令のみ。この翌日1898年8月6日光緒帝幽閉事件の発生。
後に、伊藤は妻の梅子さんに「何が起こっているのかわからない」と戸惑いを伝えてます。
事件前日の面会はあくまでも偶然と思われていました。
伊藤は会う予定でないにも関わらず、光緒帝の希望で会ってます。
なぜ、光緒帝は伊藤に合ったのか?裏に何かがあるのではないかと思ったのです。
博士は散逸していた当時の史料を徹底的に収集・分析、その結果、ある国際的な謀略が
あった事をあぶり出しました。
政変2ヶ月前、1898年6月の改革派の官僚、洪汝冲の光緒帝に対する嘆願書(上奏文)。
これが謎を解くきっかけになりました。これが伊藤博文に最初に言及した文書です。
「改革を推進する為、欧から有能な政治家を招いて指導を仰ぐべきです。
ちょうど伊藤博文が旅行に来ます。是非皇帝陛下の権限で北京に留め各国政治家の
まとめ役として下さい。」
その3年前、同じような提案をしている人物を発見、李提摩太(ティモシー・リチャード)です。
1895年李提摩太は清朝政府に「新政策」を提言、そこには、
「改革の為、(清)政府の半分は(西)欧人を迎えるべき、私も実力を十分持ってます。
財務関係の仕事のまとめ役としてお力添えできると思います。」と。
親切のように聞こえますが、これは典型的な英国のやり口です。
かって印でも近代化の顧問と称して英人を送り込み植民地にしました。
当時、権力を握っていた西太后は即座に却下、取り上げませんでした。
(さすが百戦錬磨の為政者では?) 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)