先週、清王朝は王朝名であり主権国家名で無い事に気付き、国家名を提案した方が
出現しました。そのお方は「梁啓超」(リョウケイチョウ1873~1929)。
(但し、この時点で主権国家の概念がお分かりであったかは、定かではありません。)
1873年01歳 広東省広州府新会県にて生まれる(現在の広東省江門市新会区)
1889年17歳 科挙地方試験(郷試)合格
1890年18歳 康有為と会う 以後、彼の一番弟子
1894年7月 日清戦争勃発(7/25~1895/4/17)
1895年23歳 日清講和条約(下関条約)に対する講和拒否運動、政治結社強学会 書紀
強学会入会者には英宣教師Timothy Richard ティモシー・リチャード中国名 李提摩太(リテイマタ)、
袁世凱(エンセイガイ1859~1916大清帝国第2代総理→中華民国初代大総統)等々
康有為・梁啓超を中心としたこの結社が清王朝の伝統的政治制度を改革する「変法運動」
となり(君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等)「変法」党派に
1897年11月 山東省で鉅野事件
1898年26歳 光緒帝の変法新政「戊戌の変法」作動も8/6袁世凱の日和りであえなく没
身に危険が迫った康有為・梁啓超は逃走 各々別々に9月日本に亡命を果たします
梁啓超は11月横浜中華街を拠点に早速、持論等々を記した「清議報」を刊行
1900年6月 北清事変勃発 1901年9月屈辱的な北京議定書
1901年29歳 「中国史序論」
1902年30歳1月「新民叢報(シンミンソウホウ)《新民説 新史学》」半月刊誌発刊(~1907年)
1904年2月 日露戦争勃発(1904/20/8~1905/9/05)
1905年8月 東京にて中国革命同盟会(→中国同盟会)結成 孫文・黄興・汪兆銘ら「民報」
隋王朝から始まった官吏途用制度「科挙」廃止
1911年10/10 武昌蜂起(現 湖北省武漢市)辛亥革命の発端
1912年01/01 南京にて孫文国民主権国家「中華民国」成立宣言 梁啓超数え40歳
続く。
出現しました。そのお方は「梁啓超」(リョウケイチョウ1873~1929)。
(但し、この時点で主権国家の概念がお分かりであったかは、定かではありません。)
1873年01歳 広東省広州府新会県にて生まれる(現在の広東省江門市新会区)
1889年17歳 科挙地方試験(郷試)合格
1890年18歳 康有為と会う 以後、彼の一番弟子
1894年7月 日清戦争勃発(7/25~1895/4/17)
1895年23歳 日清講和条約(下関条約)に対する講和拒否運動、政治結社強学会 書紀
強学会入会者には英宣教師Timothy Richard ティモシー・リチャード中国名 李提摩太(リテイマタ)、
袁世凱(エンセイガイ1859~1916大清帝国第2代総理→中華民国初代大総統)等々
康有為・梁啓超を中心としたこの結社が清王朝の伝統的政治制度を改革する「変法運動」
となり(君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等)「変法」党派に
1897年11月 山東省で鉅野事件
1898年26歳 光緒帝の変法新政「戊戌の変法」作動も8/6袁世凱の日和りであえなく没
身に危険が迫った康有為・梁啓超は逃走 各々別々に9月日本に亡命を果たします
梁啓超は11月横浜中華街を拠点に早速、持論等々を記した「清議報」を刊行
1900年6月 北清事変勃発 1901年9月屈辱的な北京議定書
1901年29歳 「中国史序論」
1902年30歳1月「新民叢報(シンミンソウホウ)《新民説 新史学》」半月刊誌発刊(~1907年)
1904年2月 日露戦争勃発(1904/20/8~1905/9/05)
1905年8月 東京にて中国革命同盟会(→中国同盟会)結成 孫文・黄興・汪兆銘ら「民報」
隋王朝から始まった官吏途用制度「科挙」廃止
1911年10/10 武昌蜂起(現 湖北省武漢市)辛亥革命の発端
1912年01/01 南京にて孫文国民主権国家「中華民国」成立宣言 梁啓超数え40歳
続く。