所在地:埼玉県川越市小仙波町1-20-1 天台宗
・小江戸川越七福神 第三番 大黒天
・関東三十六不動尊第二十八番札所
喜多院は、平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、
当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558年-
1570年)頃まではこれらの三院が存在していたが、北院だけが残った。
天正16年(1588年)、徳川家の尊崇が厚かった天海が入寺し、寺号を喜多院と改めた。
寛永15年(1638年)、火災で山門以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、
江戸城御殿の一部を移築した。江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と
呼ばれる家光誕生の間や、三代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた
「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。江戸城ゆかりの建造物に加え、
山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されている。
正月3日の初大師・だるま市、五百羅漢などの見どころや行事があり、川越大師として
親しまれ、江戸時代の文化を色濃く残しており、多くの参詣者が訪れています。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
松平大和守家廟所
松平松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を祖藩とする御家門、
越前家の家柄である。川越城主としての在城は明和四年(1767)から慶応二年
(1866)まで、七代百年にわたり、十七万石を領したが、このうち川越で亡くなった
五人の殿様の廟所である。北側に四基あるのは右から朝矩、直恒、直温、斉典、
南側の一基は直候となっている。いずれも巨大な五輪塔でそれぞれの頌徳碑が建ち、
定紋入りの石扉をもった石門と石垣がめぐらされている。
五百羅漢
川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から約50年をかけて作られ、
十大弟子、十六羅漢を含め533尊者のほか中央高座の大仏に釈迦如来、
脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、
全部で538体が鎮座しています。 日本三大羅漢の一つに数えられます。
深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、
それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
客殿・書院・庫裡・慈恵堂(本堂)・五百羅漢の拝観料は400円です。
多宝塔。「星野山御建立記」によると、寛永15年9月に着手して翌16年(1639)に完成、
番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔は
もと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、
昭和47年より復元のため解体が行なわれて昭和50年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の
三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪を
のせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の
亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に
宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に
調和している相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。
この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。
・小江戸川越七福神 第三番 大黒天
・関東三十六不動尊第二十八番札所
喜多院は、平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、
当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558年-
1570年)頃まではこれらの三院が存在していたが、北院だけが残った。
天正16年(1588年)、徳川家の尊崇が厚かった天海が入寺し、寺号を喜多院と改めた。
寛永15年(1638年)、火災で山門以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、
江戸城御殿の一部を移築した。江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と
呼ばれる家光誕生の間や、三代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた
「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。江戸城ゆかりの建造物に加え、
山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されている。
正月3日の初大師・だるま市、五百羅漢などの見どころや行事があり、川越大師として
親しまれ、江戸時代の文化を色濃く残しており、多くの参詣者が訪れています。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
松平大和守家廟所
松平松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を祖藩とする御家門、
越前家の家柄である。川越城主としての在城は明和四年(1767)から慶応二年
(1866)まで、七代百年にわたり、十七万石を領したが、このうち川越で亡くなった
五人の殿様の廟所である。北側に四基あるのは右から朝矩、直恒、直温、斉典、
南側の一基は直候となっている。いずれも巨大な五輪塔でそれぞれの頌徳碑が建ち、
定紋入りの石扉をもった石門と石垣がめぐらされている。
五百羅漢
川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から約50年をかけて作られ、
十大弟子、十六羅漢を含め533尊者のほか中央高座の大仏に釈迦如来、
脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、
全部で538体が鎮座しています。 日本三大羅漢の一つに数えられます。
深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、
それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
客殿・書院・庫裡・慈恵堂(本堂)・五百羅漢の拝観料は400円です。
多宝塔。「星野山御建立記」によると、寛永15年9月に着手して翌16年(1639)に完成、
番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔は
もと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、
昭和47年より復元のため解体が行なわれて昭和50年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の
三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪を
のせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の
亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に
宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に
調和している相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。
この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。