所在地:埼玉県春日部市新方袋266
・県指定天然記念物「満蔵寺のお葉附きイチョウ」
約1000年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は
七歳の時父に別死し、比叡山の稚児となった。12歳の時、宗門争いの中で
身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の
藤太に騙されて東国へ下った。やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の
足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いにも柳の枝に衣が絡み、
里人に助けられて手厚い介抱を受けたが、我身の素姓を語り、
「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」
という歌を遺して息絶えてしまった。時に天延2年(974)3月15日であった。
里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。
これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地に辿り着いた梅若丸の母「花子の前」は、
たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。
名を妙亀と改め、庵を構えて梅若丸の霊を慰めていたが、ついに世をはかなんで
近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げしてしまったという。これが、有名な謡曲
「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の
哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の
携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である。
枝がだいたい水平に出ることと、枝端に葉の群生するところができるなどの
特徴があるほか、特に、葉の緑のくぼみに実を付けるという珍しい性質があります。
実を付ける葉は、普通より小さく、その多くは奇形をしています。実は、年によって多い
ときと少ないときがありますが、多いときでも正常なものと比べると極めて少なくて、
小形なものです。県指定天然記念物「満蔵寺のお葉附きイチョウ」
・県指定天然記念物「満蔵寺のお葉附きイチョウ」
約1000年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は
七歳の時父に別死し、比叡山の稚児となった。12歳の時、宗門争いの中で
身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の
藤太に騙されて東国へ下った。やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の
足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いにも柳の枝に衣が絡み、
里人に助けられて手厚い介抱を受けたが、我身の素姓を語り、
「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」
という歌を遺して息絶えてしまった。時に天延2年(974)3月15日であった。
里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。
これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地に辿り着いた梅若丸の母「花子の前」は、
たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。
名を妙亀と改め、庵を構えて梅若丸の霊を慰めていたが、ついに世をはかなんで
近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げしてしまったという。これが、有名な謡曲
「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の
哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の
携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である。
枝がだいたい水平に出ることと、枝端に葉の群生するところができるなどの
特徴があるほか、特に、葉の緑のくぼみに実を付けるという珍しい性質があります。
実を付ける葉は、普通より小さく、その多くは奇形をしています。実は、年によって多い
ときと少ないときがありますが、多いときでも正常なものと比べると極めて少なくて、
小形なものです。県指定天然記念物「満蔵寺のお葉附きイチョウ」