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吉田郡山城

2024年08月28日 | 中国

広島県安芸高田市吉田町吉田

備考:国指定史跡、日本100名城

吉田郡山城は、安芸国の戦国大名毛利氏の居城。

城の遺構は、標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部から
放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。

複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城の
ような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、
他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。

城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と
区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ。 
山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。
石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。

安芸高田市歴史民俗博物館の横の道を登って行った先にある
神社の鳥居前に車を止めるのが一番楽。

毛利元就公墓所。毛利元就(1497年~1571年)は、戦国時代の日本の大名で、
中国地方(現在の広島県や山口県を中心とした地域)の支配者として
知られています。毛利元就は、毛利家の家督を継いだ後、戦略的な婚姻や
同盟を駆使して勢力を拡大しました。特に、尼子氏や大内氏などの強力な
大名家を打ち破り、広大な領地を支配することに成功しました。

元就の有名なエピソードとして、「三本の矢の教え」があります。
これは、元就が息子たちに対して、一本の矢は簡単に折れるが、
三本の矢は折れにくいという例え話を用いて、団結の重要性を
説いたというものです。この教えは、元就が家族の結束を
重んじたことを象徴しています。

また、元就は謀略にも長けており、「謀略の名人」とも呼ばれました。
彼の計略によって多くの敵対勢力を巧妙に打ち破り、毛利家の繁栄を
築きました。元就の死後も、その子孫たちは毛利家を守り続け、
江戸時代には長州藩の藩主として存続しました。毛利元就は、
その知略と統率力で戦国時代を代表する大名の一人とされています。


石垣などは補修されずに残っている。

本丸

毛利隆元の墓。毛利元就の嫡男。毛利氏の第13代当主。元就よりも先に死去。


石丸伸二元市長がいた安芸高田市。人口が25000人しかいないだけあり寂れていた。


一通り歩きましたが、これは攻めるのは極めて難しいと思える縄張りでした。

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