(卑弥呼)年已長大
広く一般に解釈されている説は
もうすでに年老いてる
すでに年寄りだ
すでに年取ってる
のように解釈されていて
私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので
いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと
思っていました。
しかし
中国人にこの箇所を確認したら
すでに年老いてる
すでに年寄りだ
すでに年取ってる
すでに高齢
の意味にはならないという
素直に解釈すれば
すでに大きくなっている
すでに成人してるのイメージだという
すでに年取ってるなら(卑弥呼)年已長老と
老の単語
を使うとどの中国人も教えてくれます
年已長大は
その人がイメージしているより大人になってる場合、
たとえば
幼い時を知ってるがその後久しぶりに会って、
成長して大きくなった姿を見れば長大を使うし
ただ単に長大をつかえば成人しているイメージの様です
この箇所、年已長大のこの後に,無夫婿
夫(婿)は、いないという言葉があり、
子供じゃなく卑弥呼はもうすでに成人した女性だが結婚はまだしてない
(旦那はまだいない)ということを伝えたかったのだと思います
確かに『卑弥呼は歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』とは一般的には言わないし、書かない。
その様な訳では文章的に意味がおかしいので、
やはり
『卑弥呼はすでに適齢期を迎えていたが夫はまだいない』
という風に解釈したほうがいいかもしれません。
私が不思議に思うのはなぜ「卑弥呼はすでに成長(成人)している」と解釈した人が居たと思いますが、その人達の説はキャンセルされて、「卑弥呼は
すでに高齢である」と解釈をした人達の説が何故まかり通ったかということです。
今ネット上でもこの件とは関係なく、いろいろ情報が有りすぎて
どれが本当で、どれがフェイクなのか 問題になっていますが
ネットのない時代に
(卑弥呼)年已長大→(卑弥呼)すでに年老いてる。
のような間違った情報(解釈)がどうして拡散してしまったのか(まかり通ってしまったのか)?
私にはとても気になる疑問の一つです。
広く一般に解釈されている説は
もうすでに年老いてる
すでに年寄りだ
すでに年取ってる
のように解釈されていて
私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので
いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと
思っていました。
しかし
中国人にこの箇所を確認したら
すでに年老いてる
すでに年寄りだ
すでに年取ってる
すでに高齢
の意味にはならないという
素直に解釈すれば
すでに大きくなっている
すでに成人してるのイメージだという
すでに年取ってるなら(卑弥呼)年已長老と
老の単語
を使うとどの中国人も教えてくれます
年已長大は
その人がイメージしているより大人になってる場合、
たとえば
幼い時を知ってるがその後久しぶりに会って、
成長して大きくなった姿を見れば長大を使うし
ただ単に長大をつかえば成人しているイメージの様です
この箇所、年已長大のこの後に,無夫婿
夫(婿)は、いないという言葉があり、
子供じゃなく卑弥呼はもうすでに成人した女性だが結婚はまだしてない
(旦那はまだいない)ということを伝えたかったのだと思います
確かに『卑弥呼は歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』とは一般的には言わないし、書かない。
その様な訳では文章的に意味がおかしいので、
やはり
『卑弥呼はすでに適齢期を迎えていたが夫はまだいない』
という風に解釈したほうがいいかもしれません。
私が不思議に思うのはなぜ「卑弥呼はすでに成長(成人)している」と解釈した人が居たと思いますが、その人達の説はキャンセルされて、「卑弥呼は
すでに高齢である」と解釈をした人達の説が何故まかり通ったかということです。
今ネット上でもこの件とは関係なく、いろいろ情報が有りすぎて
どれが本当で、どれがフェイクなのか 問題になっていますが
ネットのない時代に
(卑弥呼)年已長大→(卑弥呼)すでに年老いてる。
のような間違った情報(解釈)がどうして拡散してしまったのか(まかり通ってしまったのか)?
私にはとても気になる疑問の一つです。
物足りないのは、現代中国人に聞かれたとしていますが、現代中国で『年長大』とは、大人になった、成人したという意味と感じているのですがどうでしょうか。
つまり、当時有名人であった卑弥呼が、その年の正月に成人(数えで20歳、あるいは、18歳、それとも、15歳)になったという意味ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
卑弥呼は、何十年も前に大人になっていて、強大な権力を持っていたという「おとぎ話」が、当然のように語られている理由は、よくわかりません。