では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。
魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。
東南陸行五百里到伊都國
官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王
皆統屬女王國 郡使往来常所駐
「東南に五百里ほど陸行すると伊都国に到る。
官は爾支と言い、副は泄謨觚、柄渠觚と言う。
千余戸有り。代々王有りて、
皆、女王国に属す国を取りまとめている。
郡使往来の時は常に駐する所なり。」
伊都国には、代々王が有り、
郡の使者が倭に来た時は、
常にこの伊都国に留まると書いてあり、
この伊都国が西暦57年に
後漢の光武帝より授かった
金印に刻まれている「漢委奴国王」の
委奴国であったのは、
疑いの余地が全くありません。
では、この委奴(伊都)国は、
どこにあったかは、
私の「光正説」から導いた答えが
以前のブログにて説明してますが、
私の解釈は、下記魏志倭人伝の漢文に書かれている
東南陸行五百里到伊都国
これを、素直に解釈すれば
東南方向に500里歩いて行けば伊都国に行き着きます。
と書いてあり、この東南に500里行ける道を、
地図上で照らし合わせれば、
博多から日田に通じている日田街道が適合しました。
この日田は地形的にも恵まれていて、
日田から博多へも行けるし
日田から久留米へも行けるし
日田から中津へも行けるし
日田から熊本へも行けるし
日田から別府へも行けるし
中国で言う衣食住行の行にはとても便利なエリアです
ゆえに、私のたどり着いた解釈は、
伊都国は大分の日田に有りました。
私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、
九州大分県の日田であると確信しています。
そして、この九州大分県の日田のダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されています。
この金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は中国では、王さましか所有を許されていない鉄鏡だそうです。
なので、日田のダンワラ古墳からこの金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されたと言うことは、この日田には中国では王さましか所持出来なかった
金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を所持出来た王さまが、居たという証拠になります。
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