少年から青年になる頃、自慰行為を覚えた。
最近になって思うのだけれど、自慰行為をした日は頭がぼーっとして体がだるかったと記憶している。
ただし、無駄に入っていた身体の力が抜けて楽な感覚になっていたようにも感じる。
子孫繁栄は人の基礎機能だ。
たいてい本能と言われる機能だ。
まぁ、有って当然だろうな。
それが身体的な、何か不思議な肉体的な変化を示す。
この感じはいったい何だ?
当時はそれをあまり意識しなかった。
セックスをするようになってから、何か大きな変化があったのかと言えば、メンタルな部分での変化はあった。
けれども、肉体的な変化はほとんど同じだったような気がする。
つまり、極度の疲労というか、体からエネルギーが抜けてしまっていっているというか、活力や生命力が抜けてしまっていくと言う印象は、さらに強まった。
力みが消えたという感じだろうか。
やることやった。
はい終わり。
そんな印象を持った。
そもそも男性ホルモンと言うのは元気ホルモンと呼ばれていて、元気の源を持っている素材だと聞いた。
そういう視点で考えると、男性ホルモンを消化すると言う事は生きる力を放出すると言うことに他ならないのではないだろうか。
したがって、性行為をすると生きる力、精力が抜けてしまうと言う考え方でいいかな。
そう感じる。
ほんとかどうかは判らないけれども、なんとなくだがそう感じる。
現在66歳。
社会的に言われる高齢者の年代になって、さすがに性行為は難しい。
全くできないとまでは言わないけれども、そもそも精巣管が石灰化してしまっている。
泌尿器科でレントゲンを撮ったらそう言われた。
そもそも陰茎を勃起させようと思ってもふにゃふにゃのままだ。
ちょびっとだけ大きくなるレベル。
それでも頑張ろうとなると、バイアグラでも使わないと無理なんだろうな。
それでも無理かも。
そもそもそこまでの肉体的状態になると言う事は、つまりは生命力、活力、元気がない。
そういうことになろうか。
つまりは、生きる力が消耗していっていると言うことなのではないか。
人は必ず死ぬ。
100%死ぬ。
どんだけ頑張っても死ななかった人間や生命はない。
100%だと言い切れる。
当たり前のことだからな。
歳をとると言う事は、死ぬ準備をしていると言うことに他ならない。
だから、生命力が消耗して行っているのは当然のことだ。
当たり前のことだろうな。
否定する根拠は一切ないと思うのである。
それに、抗うと言うのが、現代の西洋文化にかぶれた社会人であろう。
古い日本の文化には、出家と言うものがあった。
それは、人の織りなす俗世間から距離を置くと言うことだ。
様々な人間の生命活動、生活活動から距離を置こうと言うことなのであろう。
明らかに死の準備をしている。
あるいは半分死んでいると言う。
そういう肉体的な環境に身を置くことだ。
そういう文化は、ある意味において正しい方向性だと思える。
昔の人は、今の人よりも寿命が短かった。
様々な理由がある。
いくさだったり、病気だったり。
今よりも環境が悪いので、おのずと寿命は短くなる。
今の日本のように、平和と呼ばれる環境であれば、現代と同じような年齢が寿命になっていたかもしれない。
ところが現代医学は死にそうな人間を薬や手術で延命をすると言う間違った医療を取り入れている。
死んでいく人を無理矢理生き返らせゾンビ化しているようなものだ。
そういうよろしくない環境を全て排除したらどうか?
適正化できないか?
あるべき姿とはそのあたりではないか。
平均寿命と言うがそれは健康寿命と言ってもいいような気がする。
現在の健康寿命は73歳程度か?
そう考えると、73歳くらいで身体の不自由が発生し、人は急速に死に向かう。
それはそれで正しい感じがする。
私は現在66歳。
単純計算すると、あと7年程度かな。
まぁそれは良い。
多少の個人差があるから、およそ75歳程度ではないかと言う。
やはりあと10年未満か。
それまでの時間で何をするか?
昔の人なら、そろそろ出家する頃に入っているのだと言う。
最近考える事は、そのあたりが大変多くなった。
出家のための身の回りの環境と整えるには、今まで一番ベストな状態を目標としてやってきたのだけれどもなぁ。
今は準備されたその環境に入ることができない。
自分の意思ではない。
全く別の意思が大きく関与している。
そこをどうするか?
何をどう持ってきてどう動かしてどういう変化が起こったらそうなるか?
なかなか難しい問題が大きく立ちはだかってる。
面白がってやればいいと言う。
昔の自分ならそう言うだろうな。
人は環境によって考えがずいぶん変わるものだと思う。
今の自分は、昔の自分から見れば、さぞかし考えが偏っていて、愚かなんだろうな。
あぁ~めんどくさい。
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