【2 ユーラシア型(ロシア型)】
ここから突然、南半球から北半球へ飛ぶこととなる。
アフリカと同様に広大な自然が残されているのが、ユーラシア(ロシア)である。ロシアはヨーロッパ文明にも含まれているが、シベリアという広大な地域はアジアに属しており、浸透型準文明に含めた。自然環境はアフリカ大陸と比べ平坦であり、寒帯、亜寒帯にほぼ属している。遊牧民族の興隆が多く見られ、東から西への浸透が、最初の頃は多く見られた。秦、漢の中国統一と匈奴の力関係により、匈奴の移動が開始され、環境変化の影響なども受けて西の方ではゲルマン民族、スラブ民族をはじめ、その他諸民族の移動が開始された。その後も突厥の移動、モンゴル民族の移動といったように遊牧民族はユーラシアを通り道として東から西へ浸透し、ゲルマン民族、スラブ民族はヨーロッパに定着した。こうした流れは遊牧民族の騎馬戦術にまさる戦い方、火砲による戦術が農耕民族によって発明されるまで続いた。
ユーラシア東部(北アジア、中央アジア)はシャーマニズムや仏教※を「モラルシステム」として取り入れたが、7世紀以降、イスラム文明が拡張してくると、通商の掌握や多文化を掌握する統治手法としてこれを多く採用した。モンゴル帝国も大破壊の後だが、イスラム文明を採用し、イル汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国を経てイスラム教が浸透していった。したがって大まかにいうとユーラシアは、東は仏教、中央はイスラム教そして西はキリスト教(ギリシャ正教)というモラルシステムによって浸透された準文明といえるかもしれない。
※ユーラシア東部はシャーマニズムや仏教
北魏の時代に仏教は東漸し、唐、遼の時代を経て、元の時代はラマ教が盛んであった。仏教以外ではユーラシア東部(北アジア、中央アジア)の遊牧民族の宗教はシャーマニズムが多かった。
ここでギリシャ正教が出てきたが、ビザンチン帝国の成立自体は相当古い。4世紀前半にコンスタンチノープルは建設され、この帝国が最終的に滅びたのは1453年、15世紀であり、ビザンチン帝国は文字通り千年王国であった。この時モスクワ公国のイヴァン3世がビザンチン最後の皇帝の姪と再婚したので、ロシアがビザンチン帝国の継承者、モスクワが第3のローマといわれるようになった。
大分さかのぼること9世紀、ノルマン人の力を借りてウラジミールはキーウに君臨したが、この時代にはじめてキリスト教はロシアに受容された。このロシア(キーウ公国)はモンゴル人の侵攻によって滅びた。現在ではこのキーウ公国はロシアではないと、ウクライナ人によって主張されている。それに対して、モスクワ公国はイヴァン3世の時代より前にはキプチャク・ハン国の属国であり、これに税金等を納入していた。政治的にはモンゴルに従属していたわけだが、モンゴル支配のもとでもロシアはギリシャ正教の信仰を守ってきた。ロシア人はヨーロッパ人ではないという意見が出ることが今でもあるが、ロシアのヨーロッパ性を示している史実ともいえるだろう。
イワン3世、4世(雷帝)時代からは西から東へユーラシアへの浸透が始まった。ヨーロッパとの交易するための商品として毛皮の確保、逃亡農民の捕獲、コサックの新天地への移動などいろいろ膨張原因はあったが、銃、火器の使用により遊牧民族に対して優位に立てるようになったことが大きいだろう。ピョートル大帝の登場は東への浸透によって培われた富に基づいて西側や海に対して挑戦がはじまったことを意味していた。こうしてロシアは西、東、南に浸透を図る国となったのであり、東は容易に掌握できるようになったが、南はオスマントルコと対立しため、海軍や港が必要であり、そのためには西(オランダ、イギリス)との交易が重要となっていった。バルト海へ進出しようとした結果、当時の大国ポーランド、強国スウエーデンと戦争を行った。ピョートルはこの戦いに勝ち、狭いながらも海に面したペテルスブルグを建設して、ここに首都を構えた。こうした国土の周縁部に首都を置いたことからもピョートルが何を一番重視していたかが分かる。西欧との通商を通して得られる技術を最も必要としていたのだ。この流れは保たれたが、エカチェリーナ2世の時代には女帝がドイツ出身(ドイツのシュテッティンのアルハルト・ツェルプスト公の娘)だったこともあり、政治や文化の吸収ということになっていったが、プガチョフの乱(18世紀ロシアの農民戦争1773~75年)で逆コースを歩むこととなった。
ユーラシアの浸透型準文明を見てきたが、プガチョフの乱が出てきた。ここらへんで少し立ち止まって「農奴」について考えてみる必要があるかもしれない。
先にアフリカにおける浸透型文明を見てきたが、ここユーラシアでも「農奴」という奴隷のようなことばが出てきた。浸透型文明に共通する要素として遊牧や部族があり、人間も家畜と同じように位置づけられる社会があった。ユーラシアにおいては、トルコ人の一部は奴隷として売られ、マムルークとなり、その中からは王朝をつくる者も現れてきた。同じくアフリカにおいても部族間の争いで敗れた者は奴隷に売られた。「浸透した者」で勝ったものが、支配者となったのであり、負けたものが奴隷となったのだが、マムルークは労働力が不足気味であったイスラム文明圏に売られ、西・中央アフリカの黒人奴隷は南北アメリカの労働力として売られた。
ならばロシアの「農奴」とはどういう存在だったのだろうか。ロシア帝国にはコサック部隊はあったが、ロシアは遊牧民の国家ではない。東欧と同じくスラブ民族、農業民族であり、こうした人間がタタールといった征服民の財産となったこともあっただろう。ロシアの農奴は東欧のグーツへルシャフト(再販農奴制)とは異なり、ユーラシアの奴隷の存在により近かったのかもしれない。
東欧における再販農奴制は西欧の世界システムに東欧が編入された結果、生じてきたものであったが、ロシアにおける農奴制はモスクワ大公と有力貴族(多くの農奴を所有する)との対立関係の中で、大公の部下である士族に封土を与え、そこへ強制的に農民を配置するために生じてきたものであり、西欧の世界システムに組み込まれて発生したものではなかったであろう。
ロシアはピョートルの時代に東への浸透をほぼ達成し、清との協定(ネルチンスク条約)を行った。エカチェリーナ2世の時代にはオーストリア、プロイセンと協定を繰り返しながらじわじわと西への浸透を続け、南への浸透も図ろうとしたが、プガチョフの乱でつまずいた。また西への浸透を終えたと思っていたところにフランス革命、ナポレオン戦争が起こり、ロシアそのものがナポレオンによって征服されようとしたが、なんとか勝利し、ウイーン体制で西への防壁を築いた。そのうえで南へ再浸透を図ろうとしたが、イギリスとフランスに阻止された。
もうこのころになるとロシアの東への浸透は盤石であった。中国文明もイスラム文明も弱体化しつつあり、南への浸透が問題であったが、どこから進出しようとしてもロシアはイギリスによって妨げられた。ロシアの興味深いところは、自国の農民を農奴として支配してきたが、征服した人民をイスラム文明や西欧諸国のように国外に奴隷として売り飛ばさなかったことだろう。このため中央アジアは現在もイスラム文明の一部として存在しているし、揉めることもあるが、ある程度ロシアとの連携を続けてきた。中国のチベット、新疆と比較してみても大きく違うところである。ロシアは国土が広く、シベリアが未開発で残っていたので奴隷を売り飛ばすどころでなかった、こうした事情のためヨーロッパ文明やイスラム文明のような発想がなかったのかもしれない。
またロシアの歴史を見て感じられることは、スターリンの弾圧にしろ、第一次世界大戦、第二次世界大戦での自国民の消耗にしろ、人命が軽視されることが多かったことだ。ロシアは南への浸透をどこからやるか試行錯誤を重ねるうちに、再びバルカン半島に介入していったが、これによって第一次世界大戦に巻き込まれ、農奴解放(1862年)から56年後にかって農奴であった人民によって革命が起こり、ロシア帝国は打倒されソ連が成立(1918年)した。
ソ連時代は東、西、南への浸透力が最も高まった時代であった。中国と協力関係にあり、またスプトーニクの打ち上げが成功した時代がソ連の最盛期であったが、中国が独自路線を歩み始め、フルシチョフからブレジネフに変わってからソ連は技術革新に取り残され、凋落し始めた。1989年に冷戦が終了すると、ソ連は崩壊し、ロシアが復活したが、西からは逆にヨーロッパ文明から浸透され、EUに東欧諸国のほとんどが参加し、ウクライナ、ベラルーシでさえ、もめているところだ。東については中国と協定を結んではいるが、今では経済的な浸透力は中国の方がはるかに勝っている状況だろう。南についてはシリアなどで浸透を図っているが、まだ共産主義イデオロギーが実力をもっていたソ連時代とは全くその影響力は異なるものだろう※。
※1 共産主義イデオロギーの力
共産主義の経済が躍進していた時代は、ソ連は第三世界にも、西側諸国にも大きな影響力を持っていたが、ブレジネフ時代の官僚政治とアフガニスタン戦争の失敗で経済に停滞が見え始めた。それに対して、中国は外資導入と市場化で経済を成長させた。ロシアは市場化の前に政治の民主化を行ったが、経済は停滞したままである。中国は市場化を先に行ったが、民主化は現在に至るまで行っていない。ひょっとしたらロシアが中国との協力関係を築いているのは西側諸国とのバランスをとるためだけではないのかもしれない。中国に共産主義の復活を期待しているのだろうか。中国流共産主義と第4次産業革命がどのようにマッチングさせられるかが中国とロシアの今後の関係性に大きな影響を与えていくことだろう。
現在のロシアはプーチンの強権政治でなんとか踏みとどまってはいるものの、西、東、南から逆に浸透されつつあり、このうちいずれか、あるいはそれ以外の文明との協力関係を築くことが求められてくるのではないか。
浸透型準文明としてアフリカとロシア(ユーラシア)を見てきたが、アフリカに原住民がいるのに対し、ロシア(ユーラシア)は原住民の比重は低く、むしろ遊牧民族の移動の場であったといえるのかもしれない。しかしアフリカ、ロシア共に「奴隷」というキーワードがあった。ヨーロッパ文明やイスラム文明は奴隷つまりは「人」をも商品として、貿易の中で取り扱ってきたが、ロシアはそういう価値観を持たず(ロシアの広大な国土自体が国内で奴隷のような存在を必要としていたのかもしれない(シベリア開発のために日本人捕虜を抑留したように)、また自国民をむやみに消耗してきたが、これはアフリカでも同じことがいえるのかもしれない。つまり浸透型準文明では「人権が尊重されない」傾向があるということだが、そこでは社会なり部族なりの維持が第一にあり、個人はそれに従属しなければならないという強い習慣があったことによるのだろう。あるいは常にこちらから浸透しなければ自分たちが浸透される、そういう「強迫観念」や「恐怖」のようなものが、この浸透型準文明にはつきまとっているのかもしれない。
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