第3章 辺境型準文明
【1 極東型(日本、朝鮮)】
辺境型準文明とは、その片側に強力なモラルシステムを持つ文明が隣接している準文明である。極東型の場合、それは中国文明ということになる。一見、日本、朝鮮は独自にそれぞれの歴史を形成してきたかのように見えるかもしれないが、中国文明の状況に大きく左右されたことが多かった。特に朝鮮半島はそうであった。中国の戦国時代の頃から、その住民の一部は朝鮮に逃れ、秦の時代には日本に来た者もいたという※1。前漢の時代、武帝の時には朝鮮には楽浪郡他が設置された。朝鮮では高句麗、百済、新羅としだいに小国から大国の形成が進み、高句麗は楽浪郡を滅ぼした。また朝鮮半島南部にあった加羅諸国は、日本と深くかかわりがあったが、新羅によって滅ぼされた。朝鮮の国家統一にあたって唐が新羅、日本が百済を支援して行われた白村江海戦(663年)があり、日本が敗れた。唐と新羅は高句麗を滅ぼし(668年)、その後、新羅は唐から離れて朝鮮半島においてはじめて統一国家を形成した。日本では壬申の乱を経て、律令国家(奈良朝)成立となった。
※1 日本に来た者
秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて、徐福を日本に派遣したという。
中国文明、唐は科挙に基づく律令政治を行ったが、それ以前までの貴族政治から官僚政治への過渡期にあった。それに対して新羅、日本(奈良朝)は儒教でなく鎮護仏教を導入し、都を中心とした貴族政治を定着させていった。新羅は骨品制度※1を布き、都在住の(律令)貴族を尊重したが、やがて地方からの反乱※2をまねくようになった。日本はしだいに(律令)貴族、藤原氏に権力が集中(平安時代)していったが、これも地方からの反乱※3が起こり、武士が台頭してきた。
※1 骨品制度
中国、魏の九品官人制度に似た、生まれによる身分と官職を結合させた制度。ただし新羅の場合、こうした族人秩序は都、慶州に限定していた。朝鮮半島統一に合わせて、新羅は身分制であった外位制を廃止し、京位制を地方人にまで拡張したが、都を中心とした貴族制から離れることはなかった。
※2 地方から反乱
金憲昌822年と張弓福846年の反乱
※3 地方から反乱
平将門と藤原純友の乱 935~941年、この時点で朝鮮と100年の時間差があった。朝鮮、日本とも、地方と海洋交易を根拠地とする勢力による中央権力に対する反乱であったところが共通していた。
朝鮮半島では地方の反乱をうけて、地方豪族の力を基に高麗が成立(918年)した。その後、中国では宋が成立(960年)。士大夫が台頭していた宋は科挙を発展させ、本格的な官僚国家が成立した。高麗においても科挙が導入され、文班と武班のコースができた。地方豪族を両班制度に組み入れて、官僚制度を整えたが、しだいに中国同様、文官の地位が高くなったが、社会情勢は悪化した。こうした中で実力を蓄えた武官が台頭してきた。元が朝鮮半島に攻め込んできた時、文官はいち早く降伏したが武官は長く抵抗を続けた。その後、元は高麗や南宋のこうした抵抗勢力を利用しながら日本へ侵攻した。
日本においては、武士は貴族から権力を奪い、貴族の根拠地、京から離れた鎌倉に武士による統治機構「幕府」(1192年)を形成した。ここらへんから、日本は中国文明や朝鮮と異なる歴史を歩み始めることとなった。朝鮮(高麗)は中国と日本の中間形態ともいえたが、元の後半には科挙が復活し、中国において官僚政治が復活していった。明の成立(1368年)と共に、朝鮮では明と結びつく形で李氏朝鮮が成立(1391年)した。明の鎖国政策の影響を受けながら、李氏朝鮮の時代には儒教と科挙に基づく、中国と似た政治形態(両班体制)をいっそう深化させた。一方で明の影響を抑えるため、世宗はハングル文字を作るなど独自の文化政策も行った。しかし明末と同様、党論争は李氏朝鮮にも現れ、政治的混乱が生じがちになり、日本の朝鮮出兵、女真族の侵入を招いた。
日本は元寇の後、中国のように文官の復権に向かうような動き(建武の新政)もあったが、武士による集団合議制で政治を再開した(室町幕府)。しかしやがて分裂していき、戦国時代となっていった。明の鎖国のため、倭寇は東シナ海を暴れまわっていたが、この間、極東諸国が分裂状態の日本に介入することはなかった。日本は自力で再統一し、逆に文官政治の弊害で政治的混乱が生じていた明、李氏朝鮮に侵攻した。日本は朝鮮出兵の失敗後、関ケ原の戦いを経て江戸幕府(1603年)を形成した。
その後、明と李氏朝鮮は女真族に侵入され、中国は清となり、李氏朝鮮は生き残った※1。日本も李氏朝鮮もしだいに商品経済が発展し、社会変動が生じてきたが、日本は武士の支配、朝鮮は官僚の支配※2という点で違いがあったかもしれない。日本では地方の下級武士から経済や政治の改革が生じてきて、最終的にはアメリカの圧力(外部力)で改革運動がさらに激化した結果、西洋列強と同じような社会体制へ移行(明治維新:1868年)した。
朝鮮では欧米の圧力や清や日本の動向もあったが、開化派、儒学派、東学派(農民反乱)と分かれていた。支配層間での党争が止まない中、農民反乱が始まり、清と日本から軍事的介入を招くこととなった。そうした中で日清戦争が起こり、日本が清に勝ち、その後、朝鮮を狙っていたロシアとの戦争に勝った日本は朝鮮を自らの市場、原料供給地とし、朝鮮を併合(1910年)、中国への足掛かりとするようになった。
※1 李氏朝鮮は生き残った
李氏朝鮮は国内において党争を続けていたが、清に対してすぐ降伏したため、滅ばずにすんだ。
※2 官僚の支配
李氏朝鮮は文化的な統治を行い、社会変動に併せて税制を変えたり、実学を重んじ、社会変動に対応したりした。しかししだいに改革派(実学から開化)、儒教派(衛生斥邪)、農民闘争派(東学)と分かれていった。農民等による反乱が高まりをみせる中で、支配層は党争に明け暮れていた。また儒学が官僚に重んじられたほどには、実学は高くみられていなかった。こうした背景には両班体制があった。そしてその軍隊は傭兵に近いものであった(兵役はお金を払うことで回避することができた)。
第一次世界大戦後、ヨーロッパ列強が極東から後退していくにつれ、イギリスがインドを拠点として世界展開したように、日本は中国を世界戦略のための拠点にしようと考えるようになっていった。中国進出は当時の軍人の昇進意欲と重なるものだった※1。日本は第一次世界大戦後、アメリカとの協調時代を間に挟みながらも、こうした帝国主義政策に近づいていった。
ソウルの極東における位置※2はとりわけ重要であっただろう。朝鮮半島はヨーロッパでいえばベルギーに相当する場所にあたり、そこで党争(李氏朝鮮時代からの傾向)のような、政治的混乱が生じれば日本は介入※3 することが多かった。また地政学的要所であることからインフラ投資も行ってきた。日本の朝鮮統治の失敗はそれが経験不足※4からだけでなく、重要な場所であるだけに、強く抑え込もうとしたこともあっただろう。
※1 軍人の昇進意欲と重なるものだった
戦争機会がある方が、軍人(幹部)は昇進機会を得ることができ、軍需産業は利益を得ることができる。軍部と独裁政権の問題点はここにある。済南事変以降の連続的な軍部暴走は、軍人間の競争と、日本における重工業化の波と深い関係があった。
※2 ソウルの極東における位置
ソウルを中心に円を描くと、大阪と名古屋の間、ウラジオストク、ハルピン、北京、上海が周上となる。ソウルは極東における中心であり、ハブとなりえる場所であり、シンガポールのようになりえる位置にある。しかし第二次世界大戦後、北朝鮮のあり方が大きな不確定要因となってきた。一つの考え方として、北朝鮮をマレーシア、韓国をシンガポールのように考えてみるのもいいかもしれない。
※3 日本は介入
三・一運動、文化政治、皇国臣民化といったように、状況に応じて日本の朝鮮に対する介入の仕方は変わっていった。三・一運動は日本による利権接収に対する朝鮮人による大規模な反乱であり、反乱の代表者はかっての改革派、儒教派、農民闘争派であったが、当初は穏健な請願であった。すでに党争的な感じは弱くなっていたが、逆に大衆に対するコントロールは利かなくなり、大規模な反乱となっていった。こうした状況に対し、言論弾圧をやや弱め、利権を一部朝鮮人に認めることにより分断を図ったのが文化政治であった。いわば日本はイギリス的な手法で朝鮮を統治しようとしたわけである。イギリスは財産権を基礎とし、極端な右派と左派を排斥し、穏健派による妥協を作り出すことを常としたが、朝鮮の場合、この時点での極端な右派が上海で大韓民国臨時政府を組織し、後に韓国となり、極端な左派が大衆闘争を激化させ、満州での抗日パルチザン闘争に発展し、後に北朝鮮となっていった。文化政治の後は戦争の時代となり、軍部による同化政策が進められたが、あえてハングルを作った歴史を持つ朝鮮人にとって屈辱的なことであり、日本人の致命的なところが出てしまった政策といえるかもしれない。穏健な朝鮮人は日本人に対して面従腹背で通してきた。
※4 経験不足
明確に民族的精神を形成していた、歴史の流れからいえば兄弟といっていい準文明国家、朝鮮を支配し、統治することは日本にとって未知の経験だっただけでなく、予想以上に困難な事業であったといえるであろう。教科書通りに植民地支配を行おうとし、それが障害にぶつかると、イギリスのやり方をまねた。しかし軍部支配時代には、日本国内と同様、政治はなかった。
朝鮮の日本からの解放後、北と南に帰ってきて政権を形成したのは、かっての過激勢力であった。そして穏健な朝鮮人はこの二つの政権の間で再び朝鮮戦争という動乱に巻き込まれることとなった。朝鮮人が考えていることは日本人から見ていて分からないことが多いように思われるが、特に分かりにくいのは、エリートでなく、右でも左でもない穏健な人々が考えてきたことなのかもしれない。日本の文化政治の時代から最近まで、仮面をつけて(素顔を隠しながら)生きてきたのではないだろうか。
ジャック・アタリはもし韓国が南北問題に巻き込まれなければ、21世紀は韓国の時代になるだろうと書いていた。韓国、北朝鮮はそういう重要な場所の一つなのだが、歴史的に起こりがちであった政治的混乱を鎮静化する工夫が必要なのかもしれない。「穏健な朝鮮人」の生活を高める、政治意思を組み上げるような社会構造力が必要だろう。
日本は第二次世界大戦で敗れ、中国市場を失ったが、冷戦下でアメリカに依存しながら、経済成長をとげた。韓国では李承晩政権後は軍による開発独裁の中で財閥が成長し、ソウルオリンピックを契機に再び民主化されたが、財閥支配の経済運営は変わらず、日本の大正デモクラシーの時と状況が似ているのかもしれない。北朝鮮では軍による開発独裁が継続しているがこちらはもっぱら軍事一筋といったところである。ドイツ統合の結果、ドイツ国内で東独出身者は二級市民と自嘲していると聞かれる。国家連合をつくり、互いの得意部分を活かすという統合の仕方もあるかもしれないが、ドイツのようなやり方は現在の韓国には難しいだろう。お金がかかりすぎるからだ。また北朝鮮の政府は現在もなお穏健な朝鮮人でなく、韓国に都合よく妥協できる相手でもないように見える。当分は韓国だけで極東のハブ、シンガポールを目指す環境をつくり、北朝鮮がマレーシア、韓国がシンガポールとして共生し、ともに力をつけていくのが現実的であり、その間、政治的混乱を極力抑え、少しでも穏健な韓国人が素顔で暮らせるような社会を築いていく方がいいのではないか。
一方日本だが、日本の歴史からすると、第二次世界大戦から、自己充填の期間が70年経過し、しだいに海外展開を再開しようとしている時代にきているのかもしれない。70年間かけて信頼関係を築き上げてきた日米安全保障条約を尊重することが基礎となるが(日米関係は双方にメリットがあるから続いてきた)、もっと多方面(アメリカ、ヨーロッパ文明だけでなく)に目を向けることが、経済、外交で日増しに重要になってきているようだ。現在の日本はアメリカと中国の覇権争いに目を奪われがちだが、そうした視野の狭さは辺境型文明の弱点といえそうなところかもしれない。しかし実はそういったところをそれぞれのやり方で見事に克服していったのが、次に述べる極西型準文明(イギリス、北欧)といえるだろう。
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