【2南米型】
南米においては、原住民インディオが文明(アステカ文明、マヤ文明、インカ文明)をすでに築いていた。そこへ入植してきた白人(スペイン人)が強制労働や持ちこんできた病原菌によって、かなりの数の原住民を死亡させ、アステカ文明、インカ文明を滅ぼしてしまった。
こうしたこともあって、スペイン本国は政策として原住民と共存しようと図かるようになっていった。労働力として必要であったからだ。一方、ブラジルはもともと労働力が少なかった。南米大陸はスペインとポルトガルによって分割、統治されたが、主だった地域を支配したのはスペインだった。メキシコやボリビアで銀が産出されたからだが、スペインはブラジル以外(ブラジルはポルトガルが支配した。最初の頃は北部が中心であったが、しだいに南部へ中心が移っていった)の南米大陸を副王制度によって統治し、スペイン人入植者に勝手なことをさせなかった。それは南米大陸との通商をスペイン本国が支配しようとしていたことと関係があった。スペイン帝国の経済は中継貿易※1で成り立っていたからだ。これに対してポルトガル本国(再独立後※2)はしだいにイギリスとの関係を強めていった。
※1 スペイン帝国の経済は中継貿易
スペイン本国の工業は発展せず、特許商人に交易権を与えることで、本国は収益を得ていた。工業地としてのフランドル(ベルギーの一部)の台頭はこれと関係がある。また一般商人の参入への要求も高まっていった。またスペイン植民地には独自の工業の発展の芽もあった。
※2 再独立後に
1580~1640年のスペインとの同君連合期に、ポルトガルは多くのアジアの拠点を失い、1640年の再独立後は対イギリス従属が進行した。
スペイン植民地の白人入植者はいわば自力で武力を蓄え、大地主になっていく者も出てきたが、しだいに副王による統制が煩わしくなり、これと対立する者が現れた。スペイン以外のヨーロッパ諸国との通商を統制されることに対しても不満が高まっていった。そうした中でヨーロッパではナポレオン戦争が起こり、スペイン本国、ポルトガル本国はそれぞれナポレオンによって征服され、スペイン国王は拘束され、ポルトガル国王はブラジルに逃亡し※1、その後、ブラジルで帝政を布いた(1822年)。
※1 ポルトガル国王はブラジルに逃亡
1807年、ポルトガル国王はイギリス艦隊の護衛のもとに、植民地ブラジルにのがれた。
スペイン本国が占領される中でスペイン植民地は独立し、先進的な民主憲法を作ったが、議会をうまく運営することができず※1、しばしば武力介入する大地主(カウディリヨ)による政治支配が生じたが、スペイン植民地はしだいに分裂を重ね、産業革命を経たイギリスの自由貿易体制にそれぞれ組み込まれていくこととなった。この間、アメリカとは輸出品(農産物)で競合することが多かったため、南米はもっぱらヨーロッパとの関係を強くしていった。一方でブラジルは大地主が地域で割拠していたが、スペイン植民地と比べて大地主間で協力する政治を行ったので分裂せずにすんだ。ブラジルの国土が大きいまま残ったのはこのためである。このようにスペイン植民地とポルトガル植民地とでは対照的な展開をしてきた。
※1議会をうまく運営することができず
スペイン植民地の自治は市単位であり、広域的に自治を行う経験が欠けていた。このため議会は紛糾し、スペイン植民地は徐々に分裂していくこととなった。
親玉政治であれ、大地主協調政治であれ、イギリスによる自由貿易体制の中で、南米諸国はしだいに発展してきたのだが、都市の発展と共にしだいに都市問題、労働問題が生じてきた。これには19世紀後半に移住してきた南欧、中東欧からの移民も関係があった。それと同時に19世紀後半からはしだいにイギリスが衰退してきたのに対し、アメリカが興隆してきた。アメリカは南米に帝国主義の欧州列強が入ってくるのを嫌い※1、また1914年にアメリカによって完成されたパナマ運河の防衛も加わり、南米諸国に対し、棍棒外交を行うようになった。
※1 南米の中でもメキシコは独特な状況であった。独立当初から農民層と大地主層とが対立し、大地主層はスペイン本国勢力と再び結びついたり離れたりした。また大地主層はアメリカとも領土問題(テキサスやカリフォルニア)で対立してきた。サンタアナは大地主層の力を背景に親玉政治を行ったが、テキサス戦争(1846~1848年)でアメリカに敗れ、その後メキシコでは自由主義者ファレスが政権を握ることとなった。しかし混乱の中で再び軍人ディアスが大地主の力を背景に政権を握り(1877年)、大地主層の支配が続いたが、ついには1911年に革命が起こり、大地主層の支配はひっくり返った。
自由貿易体制は南米産業の一次産品化を進め、1929年の大恐慌で決定的な破局を迎えた。それ以前から自由貿易体制下で都市問題、労働問題が発生しており、南米政治ではポピュリズムが進行していたが、ここへきて輸入代替産業の育成を図るため、また同時にポピュリズムの要求にも応えるため、軍人の活動が目立つようになってきた。自由貿易体制から輸入代替産業育成への変化は外資に対する不信もあったが、北アメリカの成功への対抗心もあっただろう。少なくともアメリカ合衆国は国内市場を育成することで大きな成功を収めつつあった。南米の支配層はどちらかというと長い間、ヨーロッパに親しみを感じてきたのだが、そのヨーロッパが傾きはじめていた。
南米では昔から、軍人の影響力が大きかったが、ポピュリズムの潮流の中でしばしば軍人は緩衝材の役割を果たしてきたともいえる。過激な大衆民主主義に走りがちなポピュリズムに対し、軍が介入し、より穏健な形にした上で政治を正常化するという流れが往々にして生じた。大地主支配から一種の開発独裁に姿を変えてきたともいえるが、第二次世界大戦後しばらく持ちこたえたが、やがて経済成長は止まった※1。
※1 大衆民主主義への対応は賃金や福祉向上につながったが、国際競争力を低下させることにもなり、南米は1900年頃には経済繁栄を誇っていたが、その後しだいに衰えていった。
第二次世界大戦中、アメリカは南米に対して善隣外交を行ったが、戦後は冷戦のため、アメリカの資金投入は北半球に集中、南米については共産主義化しないように効率的にその行動を抑制しようとした。そのためアメリカは大地主層と大衆運動とのバランスを図ろうとする軍部を南米では重用してきたが、そうした抑圧のひとつからキューバ革命が生じた。キューバ革命(1959年)は他の南米諸国に大きな動揺を与えた。(南米政権では東アジアのような外資主導による輸出促進による経済成長策をとることはできなかった。)
1973年の第一次石油危機のオイルマネーは欧米の銀行を経由して南米に還流し、外資による南米市場の活性化が図られたが、これはニクソンショック(1972年)後の先進諸国の停滞に対して新しい刺激となる可能性もあったのかもしれない。しかし1979年の第二次石油危機(イラン革命)は南米諸国に経常収支の悪化をもたらし、累積債務問題を生むこととなった。これ以降は新市場主義※に基づいて経済成長を図るようになっていった。
※新市場主義による経済成長
南米諸国は国家が経済に介入する形で、輸入代替産業育成を図ってきたが、累積債務問題でそれが不可能となった。新機械を購入する前に借金返済をしなければならず、借金の金利は世界的インフレ、スタグフレーションのため、高金利、不況となり、IMFの規制下で新市場主義による経済回復を図ることとなった。
こうして見てくると、植民型の準文明といっても、南米とオーストラリアとではかなり違っていたことが感じられる。南米は白人及びクリオール(スペイン、ポルトガル系)、インデイオ、メスティーソ、黒人(ムラート)と多様であり、民主主義もあるが、大衆による過剰な反応のために武力介入によって強制的に修正されることがよくあった。
スペイン人に征服された地域にはアステカ、インカなど高度な文明を築いた種族があった。スペイン人はインディオを鉱山や農園で使役し、その間両者の混血が進んだ。ラテンアメリカの多くの国ではインディオおよび混血人口が大きな割合を占める。
また南米は海外の影響(外部力)を受けることも多かった。例えばナポレオン戦争、世界恐慌、石油ショック等(特に第二次)。こうした中でもポピュリズムによって過激になりがちであった主張と軍による力の行使が特徴的だった。またそれ以外にも政策が出される「間の悪さ」も感じられるところである。イギリスによる自由貿易体制の時代に、アメリカのように輸入代替政策を進めていればどうだったか(スペイン統治時代には現地産業発展の芽もあった)。戦後世界貿易の発展時(1950~60)に一次産品だけでない、また輸入代替でなく輸出主導型政策をとれなかったのか(おそらくはポピュリズム政治のため、アジア諸国より賃金コストが高くてできなかったのだろう。またアメリカの北半球での戦略の影響もあったかもしれない)。またオイルショックで世界が不況の時に、オイルマネーで過剰な投資を行い、累積債務問題に陥ったり、支配層の経済政策判断の悪さ、民衆の理解力不足のため、説得が難しく、解決策が暴力的になり、またそれが「日常的」なことのように南米ではなってしまったことも問題だっただろう。
こういうポピユリズムと緩衝材としての軍の役割は他の文明でもよく見られることである。しかし南米文明の場合、支配層がどれだけ長期的な意味で合理的になれるか。あるいは多文化主義である大衆がどれだけ理性的に政策形成を進められるかが重要だと思われるが、南米の場合、特にどれだけラテンアメリカ独自の力で文明を形成できるかにもかかっているのかもしれない。そのためには半ば本能的に北米をいくらかでもラテン化していこうと試みるかもしれないし、長期間保障される貿易体制の形成を、自らの経済建設のために求めることであろう。
南半球から植民型準文明、オーストラリア、南米と見てきた。同じ南半球で共通した特徴は多文化主義に至ったということであろう。オーストラリア、南米は広くはヨーロッパ文明に含められるが、原住民、移民等の接触度からして、また多文化主義をも考慮して、それぞれモラルシステムの中心にある「四文明」とは区別し、「準文明」に含めて考えてきた。また「文明の研究」の中では四文明の中にアメリカ合衆国を含めて考えてきたが、北米文明はオーストラリア同様、植民型の準文明に入るのかもしれない。こうしたことは後の辺境型準文明で極西型としてイギリスを論じるときにも関係してくるが、北アメリカを準文明として描くのは、今回は差し控えたいと思う。
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