第二展示室 浸透型準文明
【1 アフリカ型】
アフリカ大陸の特徴は大まかには北部が大砂漠、中央部が熱帯雨林、南部が乾燥した草原、砂漠であり、全体として大きな卓状となっているところだろう。またマラリア蚊など自然の影響もあり、北部やニジェール川周辺を除いて大きな文明が形成されることは少なく、また他の文明が浸透するにも困難が伴い、時間がかかった。しかし人類発祥の地といわれて、ナイル川を中心としたエジプト文明は最古の文明の一つであり、そのピラミッド群の巨大な威容や周辺が著しく砂漠化が進行してきたことから、ここにはかって大文明のようなものがあったことも考えられるだろう。エジプト文明の後には、ギリシャ、ローマ文明が伝わり、アレキサンドリアは、ヘレニズム、ローマ時代を通して世界の交易、文化の中心の一つであり続けた。その名残としてコプト教徒(キリスト教)が今でもエジプトに残っている。
7、8世紀におけるイスラム文明の浸透は急速なものであった。もともとイスラム教は商人の宗教であり、通商網を掌握するために他宗教の信者も税金を払えば被保護民として扱ったので、イスラム文明はいわば新しい「社会構造力」を発明したといってもいいだろう。なかでも北アフリカは急激にイスラム文明の一部に入っていった。ウマイア朝、アッバース朝といった大帝国の時代を過ぎて、ファーテイマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマントルコ。あるいはムラービト朝、ムワッヒド朝。という具合に、王朝は変わり、細かく分かれていったが、イスラム文明はコスモポリタンな文明であり、その中心であるメッカ、メジナには様々な国からウラマー(法神学者)の遊学者がやってきた。北アフリカのムラービト朝やムワッヒド朝はそういうウラマーらにより指導され、発展していった王朝であった。
イスラム文明はイスラム教という「モラルシステム」と「通商」でもって進出していった文明であり、東アフリカには船によって紅海やインド洋を航行して、西アフリカには隊商でサハラ砂漠を通行してじわじわと浸透していった。アフリカの中央部は、自然環境のため外部から入りにくいこともあり、大小さまざまな部族社会が形成されていたが、その中には、例えばニジェール川周辺ではいくつかの大文明※の興亡があった。
※ニジェール川周辺の大文明
古来、ニジェール川流域にはガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国など王国文明が発達し、ジェンネ、ガオなどの交易都市を発達させた。
北部のイスラム諸王国から西アフリカにくる商人はアフリカ中央部における熱帯環境に対応するために、その外縁に根拠地をつくった。一方で東アフリカではザンジバル島のようないくつかの港町をつくり、そこを拠点として内陸部へ進出していった。西アフリカでは現地の王国をしだいにイスラム化していった。イスラム文明はカイロを中心として世界的な通商ネットワークを持っていたので、これらアフリカ中央部の王たちとは西アフリカでは金と岩塩の交易を行い、東アフリカでは奴隷や象牙等を取引した。西アフリカでは原住民の王国がイスラム化していったが、イスラム商人が金の産出地に入ることは禁じられていた。それに対して中央アフリカは人が入り込みにくい複雑な地形であり、そのことが集団形成を遅らせてもいた。しかしイスラム文明は少しずつ内陸部へと浸透していった。
15世紀の終わりごろになると、スペインがアメリカ大陸に到達し、ポルトガルが喜望峰を経由するインド航路を開拓した。しかしそのころにはすでに東アフリカはイスラム文明の通商網に入っていたので、ヨーロッパ文明が浸透していった地域は、西アフリカの海岸部、南アフリカということになった。それにはコンゴ川などの河川も含まれていた。
ヨーロッパ文明は現地の諸民族に武器や綿布他を提供し、西アフリカ及び中央アフリカは奴隷他を提供した。奴隷は大西洋を渡り、北アメリカ、南アメリカの労働力となった。奴隷貿易による人的資源の大損失がその後のアフリカの発展を大きく歪めていったのだが、こうした奴隷市場がなぜ成立しえたのだろう。またそうした人的資本の枯渇が短期間で生じなかったのはなぜか。
もしかしたら中央アフリカは一部の密林を除いて、自然に恵まれ、社会の高度化なくして人口が増える環境があったのかもしれない。大社会が形成されなかったため、諸部族が大きくならない形で多く残存し、それらがその後それぞれ自己主張して対立した。諸部族はそれぞれ勝つために武器が必要となる。このような部族間の仲の悪さはインド文明におけるラージプトの争いや、日本の戦国時代にも見られた現象であるが、そもそもヨーロッパ文明が武器を与えて異教徒同士対立させ、同時に通商目的も遂げるという、軍事産業と通商を組み合わせたビジネスモデルを最初に「発見」した地こそ、ここ西アフリカと中央アフリカだったのではないか。これに比べるとイスラム文明による東アフリカの奴隷貿易は武器売買の代物ではなく、それ以外の商品との交換であり、奴隷としてもある程度丁重に扱われたことだろう。イスラム教には奴隷の扱いについてきまりがあるからだ※1。
※1 コーランにおける奴隷の規定
コーランはムハンマドが孤児だったこともあり、孤児、女性、奴隷に対して、人権の観念こそなかったが、扱い方について細かく定めていた。
さらにヨーロッパ文明はポルトガルを先頭にアフリカ南部に浸透していった。その先端ケープ植民地に、初めに浸透したのはオランダ人であった(1652年)。南アフリカは交通上の要衝であったため、中継地として植民を進めたが、後から入ったイギリスに突き上げられる形でオランダ人は北へと浸透していった。しかし金、ダイヤモンド等が産出されることが分かり、イギリスとボーア人との間で戦争(1899年~1902年)が始まった。
少し先に進みすぎたが、19世紀前半頃には、イスラム文明、オスマントルコやマグリブ諸国の衰退により、ナポレオンのエジプト侵略、フランスによるアルジェリア制圧、ムハンマド・アリーのエジプト近代化政策※1、アラブのワッハーブ運動など、北アフリカでは変化の時を迎えていた。
※1 ムハンマド・アリーのエジプト近代化政策
ナポレオンのエジプト侵略に抗戦、1805年エジプト太守となった。国内統一に成功し、行政、産業、教育、軍事の近代化を急速に進めた。非ヨーロッパ国家による殖産興業化の第一号といっていいだろう。
アルジェリア制圧(1842年)はイスラム文明が盛んであった地にフランスが浸透するきっかけとなった。西アフリカはネオスーフィズム運動により混乱しており、フランスはそれに乗じてアフリカ北西部に進出した。ワッハーブ運動はムハンマド・アリーによって鎮圧され、オスマントルコとエジプトはヨーロッパ文明を一部採り入れ、それぞれ改革を試みたが、そろって財政破綻※1 する結果となった。なおネオスーフィズムの影響を受けてスーダンではマフデイの乱が起こったが、イギリスとエジプト連合軍によって鎮圧された。
※1 オスマントルコとエジプトの財政破綻
1875年にオスマントルコ帝国財政が破産し、1876年にエジプト国家財政が破産した。
アフリカ北部、西部におけるヨーロッパ文明とイスラム文明との闘いはイスラム文明の足並みの悪さや思想的混乱により、ヨーロッパ文明の勝利となったが、中央アフリカ、南部アフリカにおいては北部アフリカのような抵抗勢力は少なく、ヨーロッパ列強同士による浸透となり、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦争はそうした戦争の最大のものとなった。
こうしてアフリカ西部、中央部、南部から浸透してきたヨーロッパ文明によって最終的には、20世紀初頭にはほぼアフリカ全大陸が支配されることとなったが、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、ヨーロッパ文明の諸国が共倒れとなったため、1957年、ガーナを初めとして、アフリカ諸国は次々と独立していくことになった。イギリスは、過激な独立分子を弱体化した上で、穏和な勢力同士で妥協させ、そのうえで憲法を作らせ、その枠の中で自らの資産をできるだけ守ろうとしてきた。一方でフランスはわりと植民地に自治を任せていたので、植民地側の自主性を認めてきたのだが、フランス人の入植がかなり進んでいたアルジェリアなどではそのようにいかず、動乱が生じた。また白人の入植が進んでいた植民地、南アフリカはイギリス撤退の後、ボーア人(アフリカーナ)がアパルトヘイトを長期間、布くこととなった。
その他、資源が豊富なベルギー領コンゴでは独立後、民族抗争が生じ、その背後ではヨーロッパ諸国やアメリカ、ソ連が関係することもあった。「植民」や「資源」の存在が独立後の発展を妨げてきたのだが、冷戦が終了し、植民による問題も長い時間の中で「多文化主義」の問題へと移行しはじめた。資源問題についていえば、ヨーロッパ文明だけでなく、現代においては中国文明等のアフリカへの浸透が、違った形で問題を生じさせてきている状況であろう。
また民族抗争については、北、西アフリカにおいて根強いイスラム文明の影響が残っており、これがこのまま中央アフリカ、南アフリカへ南下していくのか、予断を許さないところである。北半球から眺めるとそうなるが、南半球から眺めると、オーストラリア、南米のように多文化主義的な文明圏の一部になっていくのかもしれない。南アフリカ、中央アフリカがイスラム文明化していくのか、それとも多文化主義を採り入れていくのか、その分岐がどこらへんかが今後重要になってくることだろう。将来においてはイスラム文明と多文化主義が混合していくこともありえるかもしれない。
浸透型準文明のアフリカ型を見てきたが、植民型との違いは「原住民の比重が大きい、独自の強い文明があった」という点である。それに対して複数の文明(モラルシステムを持つ文明)が浸透したが、その浸透が後に述べる融合型文明と異なり、深く重なっていないというところもまた浸透文明の特徴といえるであろう。
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