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シロガネの草子

新続々暴露本 『大内山』 元女官・草間笙子


栗原玉葉《芙蓉》

ここ何日《大内山》続きで申し訳ありません。とても面白い内容ですので、つい自分の興味のある所だけを書いております。元女官の見た見聞録というのは、実に貴重で興味深いです。それと順不当で書いております。

~品格~


韓国ドラマ《皇后の品格》


令和版日本皇后の品格(・・・・と天皇の品格)


(品格とは?)


(品格?)

~皇后様は朗らかで御親しみ深い。誰でも一度拝謁したら、忘れることは出来ない。かつて皇后様に拝謁した外人達は口をそろへて「お色の真っ白な!高いお鼻!小さな御唇!!彼女は何と素晴らしい方!!」と批評した。


「いやーーーえーー?」

その時、米国政府から派遣されたミスKも外人達に交って拝謁を賜った。彼女は日本人で日本で生まれた。だけども物心つかぬ半年半許りでアメリカに渡って、小学校からずっとアメリカ式の教育を受けた。彼女のお父さんは立派なお医者様で大きな病院をもっていた。日本で生まれた日本人であるが、アメリカで育ち、アメリカの教育を受けた彼女はもう心底からアメリカ人であった。

彼女の日本語は、たどたどしい片言しか云えなかった━━。容姿といひ、態度といひ、どう見てもアメリカ人になりきっていた。日本と米国が不幸にして、太平洋をはさんで激しい戦を交へていた間、彼女の一家は別に抑留されることもなく今までと何ら変わりない穏やかな生活をつづけていた。彼女は戦時中も相変わらずアメリカの学校で教鞭をとっていたし、日本人だからといって決して迫害されることもなかった。戦う事数年、不幸にして日本が敗戦した後、アメリカの文化政策にもとづいて、彼女は日本の教育界のため特に米国政府から派遣されて、まだ見ぬ日本へやって来た。

勿論生まれた祖国であるから日本を嫌っていたわけではなかったが、アメリカしか知らない彼女にどうして日本を理解することが出来やうか。

彼女の母親は、祖国を離れた日本人の常として大の皇室思ひであった。口ぐせの様に日本の歴史について、皇室の有難いことについて、話すのであったが、子供達は皆アメリカの教育をうけたアメリカ人として、それはただ一編のお伽噺としか思われなかった。母親は彼女の息子や娘たちとは、もはや理解することの出来ない精神の相違があることを知って寂しく思った。

その彼女が皇后様に拝謁した。その日皇后様は御優しい御言葉と温かい握手を一人一人に賜ったのである。


晴れやかに、上気して学校へ戻って、早速日本人の先生たちに言った。


(月明かりの中の皇后陛下も素敵だったけど太陽の下の皇后陛下もたまらず素敵だよ素晴らしいよ━━!!)

「皆さん、この手は、皇后陛下に握手して頂いた手ですよ。さあ握手しましょう。そうすれば皆さんにもこの喜びをお分けすることが出来るのです」


こうして彼女は賜った握手のぬくもりをその日一日、自分の手に残したいものと、手の洗ふのも惜しいと思った。日本人の血潮に目覚めてきた。


玄弥
(あぁ又これを貼ったせいで公開停止処分を受けてしまう)

「たとへ敗戦したといっても、前には一等国として対等に交際して来た国の皇后陛下です。敗戦国に対しても、礼儀というものがあります。某と某はそれこそ側で見る目も立派な、日本風の御辞儀をして皇后様の握手を頂いた。私は大変気持ちよかった。だけども何某の横柄な態度は本当に悲しいと思ひます。何處(なんところ)でも礼儀があるものですのに」

日本人であればこそ、やはり皇后様に対して、無礼な態度に出られることは、それがたとへ救ふべからざる敗戦の結果とは言へ耐へられることではなかった。

「私もうれしいけど、アメリカのお母さんがどんなに喜ぶでせう」

毎晩半ば居眠りしながら聞いていたお母さんのお伽噺も決して無駄ではなかったのである。世の中の優れた教育家が百万言を費やそうとも、偉大な外交官が全智をしぼったあらゆる手段を盡(じん)させようとも、こうした輝かしい成果を収めることが期待出来るであろうか。実に皇后様の御立派な、御親しみ深い御態度なればこそ、百人の親善大使にも優さる成果がおさめられたのあった。

皇后様はこうして社交的でいらっしゃるばかりでなく、半面非常に家庭的でいらっしゃる。御趣味といへばあらゆる女性的のもの、御生まれつき御器用でいらっしゃるので、お裁縫とか、手芸、料理など殊にお好きであり、又お上手であった。

宮様方がお小さんの間、夏の盛りにはいかにも御子様らしい赤い金のとと(魚)のついた浴衣などをお求めになると、御自分で模様の裁ち合わせをお考へになって、お忙しい時などは御自分でお縫ひになる暇もおありにならなかったが、必ず裁ちものだけは御自分でなさるのであった。反物の御見立まで何でも御自分でなさる。

臣下で退職する者などあるとき記念に(賜る)ためにそのお人柄や年頃を思ひ合わせて、あれこれ御見立てになったが、それが如何にも当人に似合はしいものばかりで、御上品な落着いた模様といひ、いづれも確かな御眼ききであった。


(香淳皇后のお見立てした洋服生地をご覧になる、秩父宮妃殿下、高松宮妃殿下、三笠宮妃殿下)


毛糸の編物も御手早く御綺麗であった。皇子様のスエーターなどを種々新しい工夫をこらして、凝ったスタイルのものをお作りになるのが御楽しみであった。
宮様方も「おたた様のお作り遊ばしたもの」と仰せになって、如何にもお嬉しそうにお大事にお召しになるのだった。

又皇后様はお染物がお好きでいらした。


高畠華宵《中将姫》

広いお湯殿の畳の上に、赤いヘリのついた御座を敷き電熱器を置かれる。その上に、白い大きなホーロ鉢をのせる。そのホーロ鉢の前に皇后様の御しとねを敷き、そこにお座りになってお染めになるが、煮るのも火加減も御自分で手まめになさるのである。染料は手軽に出来るといふミヤコ染料・・・・


(みやこ染料)

・・・・で、あらゆる色をとり揃へて沢山に御用意なさってあった。

こうして御自分の洋服などを、次から次へと丸染してはお召しになっていた。染かへて一寸を入れればまるで新しい様な感じであった。

(美智子様の一度きりの新しいドレス)

皇后様が御自分で御煮上げられない時は女官が二人ほど代わりに、その大きな洗面器に神妙にさし向かっているのも滑稽であった。すべて皇后様は、決して無駄といふ事はなさらなかった。あくまでも利用出来るものは工夫して更正なさった。

(永遠にお召しになれないそれは)


(永遠に美しく・・・・)

それも今にはじまった事ではなく、一つの御趣味であった。

皇后様は又一寸のお暇を見て供進所に出られ、お料理をなさった。毎日の御膳のことはすべて大膳が御用意しているので、御料理と云っても大抵は御菓子をお作りになるのだった。栗とか果物など季節の物をつかって、カステーラ風にお焼きになったりしたが、いかにも御器用であった。


島成園《題名不詳》

こうして何かお作りに時は、いつでもお便りのついでに、たとへ少し宛でも宮様方に御福分けになった。宮様方も、いつもならあまり召上がらないお菓子でも、御たあさまの御手製のものはお喜びになって、いつもよく召し上がった。

こんなことが、何よりも御慰みであったのに、最近ではいろいろの材料が不足であるので、大膳からおことわりする事が多かった。それはごく時々の事であったし、たしかに御玉子といひ、小麦粉といひ、お砂糖などは不足には違ひなかったけれど、その僅かばかりの材料が何とかならないわけではなかった。

尤も以前の様な自由な時代であったら、御材料も充分で、口さがない女官たちが、一般では

「お粉何瓦でも玉子一個」といふのに

御手製のものは

「玉子何個に粉何瓦」といった御不用な御分量なので、「美味しいのもうべなるかな」と苦笑していたが、勿論最近ではそんなことはなかったのだった。

皇后様の御趣味はこうした御家庭向ばかりでなくもっと御広かった、文学的な御才能も豊かでいらっしゃた。

日本画は御上手であったし、書道に於いては御能筆の御血統の誉れ高い久邇宮家の姫宮様でいらしゃった上に、特に御習字に深い御趣味がおありになったので、その麗はしい水莖(みずくみ)の跡はただ見とれるばかりである。流石にその御気品の高いこと、当代における坂正臣流の名筆である。


坂正臣(ばんまさおみ)

一体に御所では、昔から習字といふものに重きをおいて盛んであった~

~昔、女房たちの御用の暇なときには、御習字をすることが大切な一つの御用であった。毎朝御局から奥へ出仕する時、必ず愛用のすずり箱をかかえへて上がって、御用が一しきり終えれば、いつも直ぐ御座所の外のお入側に、それぞれの文机を持ち出して習字にいそしんだものだそうである。それで今でも大宮御所の女官や女嬬たち、宮城でも年とった女嬬たちの手跡筆跡は、誠に素晴らしい芸術とも云ふべきで、大宮御所からの「御文」などはよく典侍の代筆であったが、丁度色紙に和歌を書いた時の様に紙一杯にちらし書きがしてあって、まるで字のような絵のような美しさである。

今の宮城の女官たちも名筆揃ひであって、それぞれ流儀は異なっているが、習字に対する熱心なことは驚くほとである。すでに六十すぎた或る女官ははや立派に一流を会得した腕前をもっていながら、他の或る習字の先生の手跡がいたく気に入って、早速入門して熱心に通信教授を受けていたが、わずか半年程の間にすっかり新しい書体をマスターしてしまったのである。元々勝気な女官であったが、俗に(六十の手習)とは云われるものの、それを地でゆく熱心さはただ感嘆の外はないのだった。

何といっても昔の人々の手のたしかさには敵はないが、今ではだんだんこうした御所風の名手も少なくなって行くばかりなのは、心細いかぎりであって、出来ることながらば、何十年の習練を積んだ手だけは永久に保存しておきたいものと惜しがられている。

今でも習字は仲々盛んで専ら行成流が行われている。これは女子学習院の影響であらうが、尾上柴舟先生の手本によるもので、皆熱心に励むのを皇后様は何よりお喜びになって、書には雑仕など下々のものの習作まで御覧になって、励ましの御言葉を頂くこともある。

御内儀の道具の一寸(ちょっと)したはり札にも、覚え書にも、御所風のいとうるはしい水莖のあとが惜しげもなく書きちらしてあるところは、流石御所らしい奥床しさである。


上村松園《美人詠哥(びじんえいか》



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