熊本から気ままに山と自転車のブログ

西南戦争玉名戦跡・高瀬官軍墓地

西南戦争高瀬官軍墓地
2021/8/19(木) 晴

今日は、久々に太陽が見えた。最高気温予報31°に、午前9時半からポタリングに出る。
目的地は、玉名市豪潮式宝篋印塔とする。
熊鹿ロード→県道31→国道208と走り、稲佐から木葉川沿いに菊池川堤防道路を目指す。

豪潮式宝篋印塔を後にして更に市街地を走ると、西南戦争官軍墓地(写真5参照)があった。


基部の碑文(写真6参照)には、「西南の役は明治維新の終幕なり此時田原坂は熊本城北第一の要害として十七昼夜に亘りて激戦あり我が高瀬官軍墓地は其時斃れたる勇士の塋域(えいいき)なるが星霜多年を重ねしを以って墓標は破損し或は亡失して其奮態を保持すると能わざるに至る依つて将来を慮(おもんぱか)り全遺骨を納めて合祀塔を建立し其姓名官職を袖石に刻して志士英名を永遠に傳へんと欲す冀(こいねがわ)くは天下有為の士よ先人の忠誠に鑑みて邦家の為に赤心を捧げ盡(つく)されんことを」とある。


墓地は改装されて公園のようになっている。その入り口の説明板(写真7参照)には、「高瀬一帯は、明治10年(1877)の西南の役では、田原坂の戦に次ぐ県北の激戦場となったところです。
北上を図る薩摩軍と、それを阻止しようとする官軍が2月27日高瀬で激突。高瀬町、高瀬御蔵のある永徳寺村は戦場となり、高瀬町の西半分と御蔵、御茶屋はともに焼失しました。高瀬町や、旧弥冨村の民家には当時の銃弾の跡や、刀傷が残されており、官軍本営、熊本県の仮県庁、博愛社(のちの赤十字社)の発祥や西郷隆盛末弟小兵衛の戦死にまつわる逸話など、西南の役をめぐる語り草は事欠きません。
ここ官軍墓地には、395柱の官軍の将兵が葬られていましたが、墓標が風化しやいすい砂岩のた剥離や崩壊が相次ぎ、昭和41年、合祀塔に祀られることになりました。」とある。



諏訪神社西南戦争本営跡
2018/10/28(日) 晴

昨日県立装飾古墳館でリーフレットを頂き、今日が古墳開放日であること知る。
家内から快く「行ってくれば」のことば。今日は、一日自転車に乗れる!
熊鹿ロード~県道31~国道208~玉名大橋へと走る。
繁根木川と菊池川に挟まれた稜線の南端に位置する県道4脇に諏訪神社(写真1参照)がある。


その横に「西南戦争の本営跡」の表示板(写真2参照)があった。
なるほど!後背地は山、繁根木川添いの県道4を辿れば南関町に通じている。
後方からの補給路を確保し、最悪の場合は撤退路でもある。
川尻町薩軍本営も、市指定の本営跡より泰養寺本営説が納得できる。



西南戦争繁根木八幡宮戦跡
2018/3/1(木) 曇

秋丸眼鏡橋から北に少し行くと、繁根木八幡宮(写真1参照)がある。


門前に西南戦争錦絵(写真2参照)があった。
「熊本城を包囲した薩軍は植木、木葉で第十四連隊を破って北上。2月25日には征討軍が南下し、高瀬を奪回、翌26日官軍は、伊倉寺田方面へ進出。この時、薩軍は繁根木川左岸堤防に拠って、両軍は繁根木八幡宮を中心にして終日激しく戦った。翌27日薩軍第一大隊第一小隊長西郷小兵衛(隆盛の末弟)は、陣頭指揮をしていたが、官軍の流れ弾に胸を貫かれ31歳にして戦死を遂げた。この日再び高瀬で両軍は雌雄を決する大会戦を行い、この戦いに勝利した官軍は南下した。」と説明文にある。


玉名市、繁根木、岩崎地域の西南戦争遺跡案内図(写真3参照)



西南戦争高瀬戦場跡
2017/12/25(月) 晴

高月官軍墓地を後にして、国道208玉名大橋を渡り、堤防右岸を左折した所に公園(写真4参照)がある。


ここの錦絵(写真5参照)は、官軍本営の様子を描いたものと思われる。
その説明書では、
「官軍、薩軍にとって譲ることのできない要地であったが、西南の役の関ケ原というべき両軍の主力同士の戦いは官軍の勝利に終わり、西南の役の勝敗の分かれ目になった。
高瀬を失った薩軍は、南関進出の見込みが断たれ、北進の道は完全に挫折した。
以後薩軍は田原坂へ退却し長い長い消耗戦を戦うことになる」とある。


堤防を少し下り、JR線路の南側の旧船着き場跡に西郷小平の錦絵がある。
西郷小兵衛は、西郷隆盛の末弟で、この地で戦死した。

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「熊本の近代史跡・文化財探訪記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事