偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏999苗場山(新潟)道祖神

2021年09月19日 | 登山

苗場山(なえばやま)道祖神(どうそじん)

【データ】 苗場山 2145メートル▼最寄駅 JR上越線・越後湯沢駅▼登山口 新潟県湯沢町元橋▼石仏 苗場山山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼106】 苗場山へは湯沢町の元橋から入り、赤湯に一泊してから山頂を目差した。『越後の山旅』(藤島玄著、昭和54年)の苗場山の案内に「合掌した男女神の道祖神石像」とある一行にひかれ、人里離れた山頂に道祖神はありえないと思ったが、それを確かめたくなって出かけた。それにしても赤湯の温泉といい苗場山への道といい、一帯は緑のなかに溶け込んでしまいそうな蒼林の中で、梅雨どきとはいえ、これまで経験したことがない静寂さを味わった。
 道祖神は旅の安全を願う道の神、悪霊を防ぐ塞の神、夫婦和合の神などさまざまな信仰があり、像の素材も木、藁、石とさまざまだった。石像ひとつとっても自然石、石祠、単体像、双体像などがあり、双体像にしても合掌するもの、手を握るもの、肩を組むもの、酒器をもつ祝言型など多岐にわたり、儀軌によって形が決まっている石仏のなかで、この神だけは集約しきれない部分があった。確たる社殿がないのも道祖神の特徴で、多くは道端に祀られている。ただこの神の神格から祀られる場所は、集落の端や村境や峠であり、山頂にあることはなかった。
 蒼林の道は突然視界が広がり苗場山頂に広がる池塘の一角に出た。田んぼにも似た地塘はゆるやかな傾斜で山頂まで続いていた。その一角、秋山郷に下るところに神名を刻んだ文字塔が多数祀られていた。天照皇大神・猿田彦命・天鈿女命・天児屋根命・大穴貴命・事代主命・天忍穂耳尊・大山袛命・保食命、いずれも日本神話に登場する神々で、作物の豊穣を願っての建立であろう。猿田彦命は道の神としての性格も持ち合わせている。そして苗場山の道祖神だが、合掌した双体像だった。初めて見る形だったが、光背も男女の区別もない小さな姿から「道祖神ではない」と直感した。これは江戸時代初期に関東や甲信越で盛んに造られた、石祠型墓塔に納めた先祖の石像である、と確信した。

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石仏998飯士山(新潟)御嶽三座神

2021年09月17日 | 登山

飯士山(いいじさん)御嶽三座神(おんたけさんざしん)

【データ】 飯士山 1112メートル▼最寄駅 JR上越線・越後湯沢駅▼登山口 新潟県湯沢町土樽の岩原スキー場▼石仏 飯士山山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼105】 初めてスキー場に立ったのは塩沢町の石打丸山スキー場。昭和40年代の始め、冬の新潟にはたっぷり雪が降り、スキー場から見えた山はどれも神々しいほど白く高く輝いていた。雪のある時期はとても登れそうもない山ばかりだったが、その中で一番近くにあって雪がなければ簡単に登れそうに見えたのが飯士山。しかしこの山への道は、雪国ならではの大きな変化があった。湯沢町からの道は急な登りが続いた後、最後に小さなピークが三つもあった。石打からの道は沢を辿ったあと手掛かりの少ない岩尾根となった。一番楽なコースが岩原のスキー場を登るもので、たんたんと登れた。
 飯士山の山頂には関東の山に多い木曽御嶽の神・三笠山刀利天宮と、新潟の各地の峰に祀られている薬師如来が鎮座していた。伝統的な仏教と近世末期の山岳信仰を代表するこの二つ石仏が揃う山は他にない。御嶽信仰は江戸時代末期から明治時代にかけて各地に広まったもので、御嶽三座神の御嶽山座王大権現・三笠山刀天宮・八海山大頭羅神王を祀った。御嶽の神が勧請された山をみると集落はずれの名もない山が多い。この時代、集落近くの主な山には古くからの神が鎮座し、その後に勧請されたさまざまな神も一つの山を占めて、新参の神を勧請する山は限られていた。御嶽の神は険しい岩場に祀られる傾向もあり、この神を祀る場所を探すのに苦労した跡がうかがえる。飯士山でも薬師や他の神仏に遠慮して、西に少し離れた岩峰に祀られた。
 三座神を山中の三か所に別けて祀るのも御嶽信仰の神の特徴で、これは木曽の御嶽に倣ったもので、下から八海山・三笠山・御嶽山の順に祀る。しかし飯士山では三座神を一か所に祀ったようで、『越後の山旅』(藤島玄著、昭和54年)には、「三神が奉祀された岩峰が崩壊して、現在は三笠山だけ」と記されている。確かに他の二神は見つからなかった。

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石仏997遠見尾根・地蔵の頭(長野)風切地蔵

2021年09月13日 | 登山

遠見尾根・地蔵の頭(じぞうのかしら)風切地蔵(かざきりじぞう)

【データ】 遠見尾根・地蔵の頭山 1673メートル▼最寄駅 JR大糸線・神代訪駅▼登山口 長野県白馬村神城のゴンドラ山頂駅▼石仏 地蔵の頭、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 白馬五竜スキー場のゴンドラは、遠見尾根の地蔵の頭の下まで運んでくれる。一帯は高山植物園で、これを見ながら登ると地蔵菩薩が鎮座する地蔵の頭に着く。ケルン状に造られた岩の中央に祀られた地蔵は風切地蔵。「慶應三年(1867)」の造立である。立派な錫杖が際立つ地蔵で、この後立山(うしろたてやま)で同じような地蔵をいくつか見ているが、どれも立派な錫杖が目立っていた。

 ケルンに埋め込まれた銅板の案内に「この地方は季節風の強いところで、慶應三卯年三月土地の人々が風害の防止を祈願して地蔵を建立、風切り地蔵としてこの地を地蔵の頭と呼びました」とある。


 地蔵の脇にあるもう一つの地蔵は「早稲田大学山岳部/北壁登攀紀年」が造立したもの。北壁は遠見尾根の先にそびえる鹿島槍の岸壁で、アプローチが悪いことからこの壁に入る登攀者は限られていた。特に冬は厳しく、そこに最初の足跡を残したのが早稲田の山岳部で、昭和10年1月だった。その栄誉を記念しての地蔵である。その先の一角には、この一帯で遭難した人たちの墓標が並んでいる。

【独り言】田中欣一氏の『白馬の石仏』(注)には、後立山に立つ風切と雨乞の地蔵石仏が5カ所写真とともに報告されています。風切地蔵は遠見天狗尾根、遠見尾根地蔵の頭、小蓮華山頂。雨乞地蔵は八方池、天狗池です。このなかの小蓮華山頂の石仏(享和元年)は同書に行方不明とあり、私も探してみましたが山頂一帯には見つかりませんでした。ただ、頭部のない菩薩の石仏があり、『白馬の石仏』に紹介された風切地蔵に酷似しているので写真をアップしておきます。


 天狗池の雨乞地蔵(慶應3年)は谷間の岩屋にあり、そこへ行く道はありません。私はだいぶ昔ですが、田中欣一氏に紹介された人に案内していただいて見ることができました。写真はそのときのものです。遠見天狗尾根の石仏(明治15年)はまだ見ていませんが、ネット情報「あにねこ登山日誌 天狗風切地蔵」に案内されているのを見ました。この尾根を歩く登山者は昔からめったにいませんから、すばらしい報告です。山の石仏を探している人はいるんですね。

 これも昔のことですが後立山の風を八方尾根で体験したことがありました。冬、八方池にテントを張った夜に猛吹雪となり、近くに幕営していたパーティーのテントが風で倒されてしまいました。テントを雪に埋めて私たちのテントに避難させて一夜を過ごしてもらいましたが、テントが倒された原因は風が吹く方向と反対側に雪のブロックを造ったためで、風をまともに受けてしまったようです。この日は夕方から風向きが180度変わったのです。私たちは、風向きが変わることを予測してブロックを積んでいたので飛ばされずにすみました。この八方尾根の雨乞地蔵(慶應3年)はこのブログの唐松岳・雨乞い地蔵で案内しました。
(注)田中欣一著『白馬の石仏』昭和59年、白馬村教育委員会

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石仏996諏訪・唐沢山(長野)弾誓

2021年09月10日 | 登山

諏訪・唐沢山(からさわやま)弾誓(たんせい)

【データ】諏訪・唐沢山 1000メートル▼最寄駅 中央本線・上諏訪駅▼登山口 長野県諏訪市上諏訪、山の神バス▼石仏 阿弥陀寺裏山、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 上諏訪駅の東の山のなかに唐沢山阿弥陀寺がある。唐沢山は諏訪市上諏訪の字らしく、阿弥陀寺の山号は法国山となる。
 嶽門という名の石垣の間が寺の入口で、入るとすぐ「弾誓上人爪彫御名号」の案内がある。自然石に「南無阿弥陀仏」銘が読み取れる。宮島潤子氏は『謎の石仏』(注1)で、この名号塔を弾誓五十回忌の供養碑としている。弾誓(1551~1613)については、『謎の石仏』の「あとがき」に、「戦国時代の末から江戸時代のはじめにかけ、諸国を遊行し、苦しみ多い人々の救済に力をつくしたが、その手段として自ら刻んだ木彫仏を人々に与え、その結縁によって念仏をひろめた」とまとめられている。弾誓は尾張海部郡の生まれ。12歳で出家し岐阜の武儀に隠遁、後に熊野、佐渡、信州、相模などの主に洞窟を棲家として念仏布教を続けた。木彫仏を作ったことから作仏聖の祖とされ、弟子たちは石仏も手掛けている。


 急な坂道を登り、本堂も近い岸壁に「南無阿弥陀仏」銘の大きな名号塔が二つ彫られている。一つは徳本の名号塔で4メートルぐらい、一つは徳住で3メートルはある。徳本(1758~1818)は紀伊の生まれ。『日本仏教史辞典』(注2)には「諸所に草案を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦行練行すること多年、わずかに「阿弥陀教」の句読しか習わず、宗教を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得た(略)得意な筆跡を刻んだ名号碑が各地に建立されている」とある。徳住(1777~1842)は尾張の生まれ。40歳で徳本の弟子になっている。愛知県東部にその名号塔が多いことをこのブログの碓氷峠(群馬)で案内した。これらの名号塔から、阿弥陀寺は江戸時代に念仏の寺として栄えたことが分かる。



 本堂の裏山、阿弥陀寺の始めとなった岩屋への道の途中に弾誓の墓がある。南無阿弥陀仏を六面に刻んだ笠塔で、台座正面に「開山上人寶塔、」、裏側に「慶長十八癸丑歳五月廿五日」銘。弾誓はこの銘の日に、京都・大原の古知谷阿弥陀寺で念仏を唱えつつ端座合掌の姿で息を引き取っている。弾誓の墓と同じ場所に河西浄西の五輪塔もある。浄西は唐沢山の地に念仏道場を開いた僧。阿弥陀寺では浄西を開基、弾誓を開山としている。

 浄西は岩屋に十一面観音を祀ったという。いま岩屋には十一面観音石仏が鎮座している。
(注1)宮島潤子著『謎の石仏・作仏聖の足跡』1993年、角川選書
(注2)『日本仏教史辞典』1999年、吉川弘文館


【独り言】 私が山の石仏を調べているのが気に入られたのか、宮島氏からはお住まいである信州安曇野の酒が何度か届いたことがありました。宮島氏はアルプスの景色のように豪快な人で、会うといつも大きな声に圧倒されました。
 著書『謎の石仏』に影響されて、弾誓とその一派が修業地とした山もいくつか訪ねたこともあり、このブログでも佐渡の檀特山長野の奇妙山虫倉山神奈川の大山塔ノ峰など案内しました。
 だいぶ昔に中央アルプスの駒ヶ岳の帰り、大田切川沿い道の洞窟で見た地蔵菩薩がこの本に「帰命山地蔵平の地蔵」と紹介されていて驚いたこともありました。どうしてこの地蔵平の道を歩いたのか記憶にありませんが、そのとき写した写真を探してみましたが、これも見つかりませんでした。登山を始めた当初は石仏の写真を含めて整理はいい加減でしたら、今になって後悔しています。
 宮島氏から『むしくら』という(注3)と分厚い本がとどいたこともありました。宮島氏は、私が山の姥神を調べていたことを知っていて「虫倉山系の大姥信仰」が掲載されているこの大著を送ってくれたのでした。
(注3)虫倉山系総合調査研究会『むしくら』1994年、長野市教育委員会

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石仏995入笠山(長野)摩利支天

2021年09月06日 | 登山

入笠山(にゅうがさやま)摩利支天(まりしてん)


【データ】 入笠山 1955メートル▼最寄駅 中央本線・富士見駅▼登山口 長野県富士見町、富士パノラマリゾート・ゴンドラ山頂駅▼石仏 入笠山山頂とテイ沢夫婦岩、地図の赤丸印。青丸は高座岩▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 入笠山の山頂に「大山祗命/摩利支天」銘の35センチほどの石塔が立つ。側面に「昭和三十九年」とあり、昭和のこの時代に摩利支天の石塔を建てられたことに驚く。大山祗命は山の神として、かつてはこの国の里山によく祀られてきた。摩利支天は陽炎の象徴で、武将が守護神として信仰したことが知られているが、入笠山の摩利支天は豊穣の役目を担ってのことと思われる。摩利支天は木曽御嶽にも祀られ、御嶽信仰とともに関東甲信越の里山に勧請された。一方諏訪地方は里でも摩利支天を散見する。しかし、諏訪でこの仏にどのような役目を期待したのか私はよくわからないでいる。


 入笠山の南にあるテイ沢の夫婦岩でもう一つの摩利支天を見た。テイ沢はかつての長谷村(現伊那市)の戸台から入笠山に入る小黒川の支流。沢沿いに道があり、右岸左岸と渡りを繰り返して大阿原湿原に出る。沢に入って両岸の岸壁が狭まるところが夫婦岩。左岸の岩場の中腹に祀られた4基の石仏のなかに摩利支天がある。高さ57センチの平板状の石に線刻された摩利支天は猪に乗る三面六臂像で、江戸時代の仏画書『仏像圖彙』から切り取ったような像容だ。年号は無いものの造立されてそれほど経っていな印象である。



 摩利支天と一緒に並ぶ石仏は千手観音、不動明王、それから刀を持つ持国天。いずれも浮き彫りで、摩利支天とは違い古い石仏である。しかしこの三尊の造立趣旨は見当すらつかない。

 夫婦岩の下には「日野大権現」銘の角柱石、さらに河原の巨岩には「十一面観世音菩薩」銘の石塔もある。またネット情報「伊那谷ねっと」には、この夫婦岩には17もの石仏が確認されているとあり、これらの尊名がわかれば石仏の造立趣旨がわかるかもしれない。

【独り言】 「伊那谷ねっと」(注1)によると、夫婦岩の石仏を発見したのは北原厚氏と紹介されています。北原氏はかつて入笠山の西側山中にあった芝平集落の住人だった人で、ここ20年ぐらいこの地域の歴史を掘り起こし古道を整備してきた人のようです。北原氏が特に力を入れているのが「法華道」という日蓮宗の遺跡への道でした。


 日蓮宗の石塔が立つのが高座岩。そこには「日蓮大菩薩/南無妙法蓮華経/村中安全祈祷」「妙朝山奥之院/南無巌魂日朝尊者霊跡/廿七世日最/昭和十五年」の二基の石塔が立ち、「日朝大上人」「荒澤不動明王」「如意輪観音」の小さな石塔と一緒に南西を向いて建てられていました。南西の方向、高遠町山室には日蓮宗の妙朝山遠照寺があります。
 妙朝山は平安時代に天台宗の天福寺として開かれたが、室町時代に焼失。これを日蓮宗の妙朝山遠照寺として再興したのが日蓮宗の日朝(1422~1500)でした。日朝は伊豆宇佐美郷の出身で、身延山久遠寺十一世にまでなった僧です(注2)。日朝は久遠寺の発展に尽くした僧でした。このような高僧が南アルプスの谷間に来たことは意外かもしれませんが、小黒川の下流にある戸倉山に奈良時代に薬師堂が建てられたことをこのブログで案内したように、宗教者にとって長谷村は魅力的な何かがある谷だったようです。
(注1)「伊那谷ねっと」長野県南部のニュースや地域情報を発信するポータルサイト
(注2)『日本仏教史辞典』1999年、吉川弘文館

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石仏994八海山(新潟)霊神碑

2021年08月31日 | 登山

八海山(はっかいさん)霊神碑(れいじんひ)

【データ】 八海山 1778メートル▼最寄駅 JR上越線・五日市駅▼登山口 新潟県魚沼郡市(六日町)山口の八海山スキー場▼石仏 薬師だけ、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼104】 初めて八海山を登った昭和49年、埼玉県からきた御嶽講(おんたけこう)の人たちと一緒になった。20人ほどの団体は白装束、入山形に三の講印を染め抜いた白鉢巻をして、地下足袋や運動靴姿。御嶽山と墨書きされた桧笠をかぶった人や使い込んだ金剛杖を持つ人もいて、信仰のための登山であることは分かったが、山登りに適した格好には見えなかった。八海山の上部、大日岳に通じる尾根は八つの峰からなり、いずれも岩峰で鎖を頼って登らなければならない。特に最後の大日岳の鎖は垂直に垂れ下がっている。しかし、御嶽講の人達はこの峰を軽々と渡り歩いて行った。
 木曽御嶽を信仰する人の集まりが御嶽講、この人達が八海山に登るには大きな理由があった。御嶽の王滝口を開いた普寛(ふかん)行者は秩父大滝村の行者だが、その弟子に八海山のふもと大崎の行者・泰賢(たいけん)がいた。泰賢は普寛の御嶽登山にも同行して、御嶽教の布教にも力をそそいだことが知られている。普寛が御嶽山を開く前の八海山開山にあたっては、この山に精通していた泰賢が大きな力になった。後に八海山の神は普寛により御嶽山に勧請され、八海山大頭羅神王(だいづらしんのう)として御嶽山座王大権現(ざおうだいごんげん)・三笠山刀利天宮(とうりてんぐう)とともに、御嶽三座神(さんざしん)の一角を占めるようになった。
 御岳信仰に欠かせないものが霊神碑、扁平な自然石に「○○霊神」の銘が入ったもので、木曽御嶽の登山道には二万とも三万ともいう碑が林立していた。御嶽の信者の霊魂は、死後この霊神碑をめざして山に登るとされ、その数は毎年増え続けている。御嶽山を勧請した山にもこの形の霊神碑を見ることが多い。八海山にも数は少ないが同じように霊神碑があった。角柱型のもので、御嶽山の霊神碑が山麓から中腹にあるのに対し八海山では頂に集っていた。御嶽講の人たちが軽々と渡っていった岩峰の峰にも霊神碑が建てられていた。
     *
下写真は不動が岳の石造物


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石仏993守門岳(新潟県)不動明王

2021年08月27日 | 登山

守門岳(すもんだけ) 不動明王(ふどうみょうおう)

【データ】 守門岳 1537メートル▼最寄駅 JR信越本線・長岡駅▼登山口 新潟県長岡市(栃尾市)栃堀▼石仏 大岳下に不動明王、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼103】 『越後の山旅』(藤島玄著、昭和54年)は登山道の案内をはじめ、過去の文献から山の歴史をたどり、要所に残された石仏まで丹念に拾い出しており、新潟の山を登るときには欠かせない本だった。この本の守門岳の案内に、車で保久礼小屋で入れるとあるのを見て出かけたが、雨で高原状の尾根まで登って引き返したことがあった。それ以来、保久礼小屋は尾根上の展望のいい場所にある綺麗な山小屋というイメージがあった。それから十年もすぎて守門村の二口から保久礼小屋を訪ねた。しかしイメージとはまったく違って、ブナ林のなかにあるコンクリート造りの要塞のような建物だった。
 守門岳は栃尾市をはじめ山麓住民の信仰の山。しかし藤島は「頂上に神仏の祭祀がなかったのは、険阻というより人煙稀薄の為」と書き残している。この大きな山は登るというより仰ぎ拝む山なのだろう。石仏は期待できない山だったが、大岳の下に不動明王があった。風化が進んで表情ははっきりしない。ただひとつ口元の二本の牙がはっきり残っていた。不動明王の特徴の一つ二牙(にが)で、下から二本出すものと上から二本出すもの、それに上下から出すものがある。守門岳の不動は上下から出ていた。右手の持つ剣は威力の象徴、左手は磨滅してよく分からないが、衆生を救う羅索を持つ。
 「大岳が栃尾、栃堀方面からの守門岳だ。信仰上の奥社、奥ノ院はここである」と藤島がいう大岳には石祠が二基、その一つ入母屋造の石祠に「巣門神社」の御札が納められていた。かたわらの栃堀森林保護組合が建立した石碑にも「巣門神社」とある。藤島は「守門岳は諏門岳、巣守山、蘇門山など諸書に見えるが、語源名義は不明」としている。栃尾市栃堀は守門岳の登山口の一つで、集落に巣守神社があり、この神社も藤島がいうように守門岳を奥社としている。境内には不動明王が鎮座していた。
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下写真は大岳山頂の石造物


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石仏992粟ケ岳(新潟)薬師如来

2021年08月23日 | 登山

粟ヶ岳(あわがだけ) 薬師如来(やくしにょらい)

【データ】 粟ヶ岳 1293メートル▼最寄駅 JR信越本線・東三条駅▼登山口 新潟県三条市(下田村)北五百川▼石仏 五合目の薬師堂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼102】 粟ケ岳には下田村北五百川から登った。米どころの新潟平野の一角でもこのあたりは山の中、棚田の間を歩き、そこに水を引く水路にそって山に入っていった。この道は粟ケ岳の中腹にある薬師堂への参道だが、本来は水路のための道だったに違いないと思えるほど、山肌を巧みに切り開いて造った側溝を水が勢いよく流れていた。
 道が尾根に取り付くところに石段があって「霊山女人禁制時代の足止堂の跡」という下田村の案内が立っていた。しかし石段以外に女人堂の痕跡はなく、杉の大木だけがかつての堂跡を物語っていた。ここから先、薬師堂まで平坦地はない。急斜面に根本が地面に這いつくばかりに曲がったブナの木が、豪雪地帯の山であることを見せつける。そんな林の中、粟ケ岳のはるか手前の五合目に薬師堂があった。昔は御堂があったというが、今は石積みにトタン屋根をかぶせた粗末な小屋が薬師堂、なかに薬師如来石仏が七体並んでいた。七仏薬師であろう。
 七仏薬師は薬師の力を七つの仏で分担し、これを総合して無病息災や安産を祈願するもの。この珍しい形の石仏が山にあるということは、この地方の薬師信仰の篤さを裏づける。新潟の山には薬師と名のつく山や峠が多く、そのいくつかには薬師堂がある。いずれも集落近くの山に祀られ、その代表である米山薬師にみられるように、薬師本来の病気治癒の信仰のほかに、稲作の神としての役目も担っているようだ。そのため水源のある山のなかに薬師を祀ったのだろう。そう考えると下田村から粟ケ岳の道も稲の豊穣を願う道だったと思える。
 粟ケ岳への道は薬師堂の裏から稜線に出てさらに続く。南には守門岳が大きく広がり、この山の山麓にも栃堀薬師山という薬師の山がある。
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下の写真は薬師堂の全景

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石仏991五頭山(新潟県)毘沙門天

2021年08月20日 | 登山

五頭山(ごずさん) 毘沙門天(びしゃもんてん)

【データ】 五頭山 912メートル▼最寄駅 JR羽越本線・水原駅▼登山口 新潟県阿賀野市(笹神村)出湯▼石仏 四ノ峰、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼101】 五月末の越後平野は田植えが終わり、水が張られた田んぼを五頭山から見下ろすと、湖が広がっているように見えた。それは川が氾濫したようにも見えるとてつもなく大きな湖で、遠くの日本海まで続いていた。五頭山から先は海まで山らしい山はない。
 かつて山麓の人たちは、田植えが終わると五頭山のふもとにある優婆尊(うばそん)に参ったという。五頭山山麓には出羽の優婆堂と出湯の華報寺があり、6月には大祭があった。優婆堂の優婆尊は三途の川の彼岸にいる奪衣婆(だつえば)と同じ鬼女。奪衣姥は亡者の衣服を脱ぎ取るのが仕事で、その濡れ具合で行く先が決まるとされた。重く濡れた者は生前に罪を重ねた証拠、地獄に落ちる。しかしこの信仰、越中立山では奪衣姥が姥神となって、女人救済の本尊となったように、優婆尊も女人を極楽往生させる信仰に変わっていた。華報寺は境内に温泉があることで知られた寺。信者はここでも極楽気分を味わえた。
 五頭山は優婆尊信者が登った山でもあり、その組織が石仏を奉納したという。山頂を形成する五つの峰に石仏が置かれていた。五ノ峰に錫杖を突き宝珠を持つ地蔵菩薩。四ノ峰には三叉鉾を突き宝塔を持って邪鬼(じゃき)の上に立つ毘沙門天。地面にはいつくばる邪鬼は仏法の妨げをする天邪鬼。儀軌では尼藍婆(にらんば)・毘藍婆(びらんば)立っていた。
 山を降りて華報寺の温泉で汗を流したあと、近くにある郷土資料館に寄った。ここで目を引いたのが五頭山麓から出土した中世の石仏や五輪塔。石仏の多くは阿弥陀如来で、華報寺を中心とした五頭山は極楽浄土を形成していたといえる。したがって優婆堂は立山の姥堂と同じ極楽への入口だったに違いない。
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下写真は山頂の聖観音菩薩


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石仏990厩岳山(福島)准胝観音菩薩

2021年08月16日 | 登山

厩岳山(まやだけさん) 准胝観音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)

【データ】 厩岳山 1261メートル▼最寄駅 JR磐越西線・磐梯町駅▼登山口 福島県磐梯町更科字源橋▼石仏 山頂下の観音堂への道、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼100】 昭和50年に登った厩岳山で覚えているのは、登山口の源橋の集落はずれにあった「厩嶽山」の石碑と、藪のなかに続いたたよりない道、それに厩岳山神社前にあった石造仁王と、社殿内の達磨ストーブで暖をとったこと。そして道筋にある三十三観音は十七体しか見つからなかった。それから30年後に訪ねた厩岳山一帯は、伐採やスキー場開発などですっかり変わっていた。ただブナやコナラの林のなかに続く穏やかな登りは整備され、半ば土に埋もれていた石仏たちは掘り起こされ、ひとつひとつに仏の名称、奉納者などを記した説明板までついていた。
 厩岳山の厩は馬小屋を意味する。馬の神様として山頂直下に社殿をかまえた厩岳山は会津一帯の信仰が厚く、「厩嶽山」の文字塔が各地に建立された。信者を厩岳山に導いてくれる三十三観音は、平坦な道が終わり、山に登りだす所から始まる。それは西国三十三所札場の各本尊を石仏にしたもので、置かれた間隔は100から200メートルとまちまち。本尊とは思えぬ稚拙な石仏たちで、如意輪観音は顔を精一杯傾け、千手観音の手は棒にように横に並んでいた。石仏造りに馴れていない石工の手になる観音たちだが、愛嬌はあった。そのなかの一つ、西国十一番・上醍醐寺の本尊は准胝観音、この仏を本尊とする寺は少なく、厩岳山の三十三所観音を造った石工はこれを顔が三つ並んだ三面で表現した。准胝観音は真言宗の六観音の一員になっているが、天台宗では不空羅索観音に入れ変わる。准胝は観音でないとする考えがあってこの違いが生じた。その姿は三眼十八臂とされ、厩岳山の三面像は三眼を三顔に表現したものかもしれない。
 山頂下にある厩岳神社の下には、ひょうきんな姿の仁王が昔のままたたずんでいた。しかし達磨ストーブがあった場所がどこだったか、そのような所は見当たらなかった。
     *
 下写真は厩岳山の観音と仁王


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石仏番外 蟻川岳(群馬)日本武尊

2021年08月13日 | 登山

蟻川岳(ありかわだけ) 日本武尊(やまとたけるのみこと)


【データ】 蟻川岳 853メートル▼最寄駅 JR吾妻線・中之条駅▼登山口 群馬県中之条町蟻川▼石仏 蟻川岳の中腹、地図の赤丸印。青丸は記念碑▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言】 蟻川の集落に入ると、ありがたいことに「蟻川岳登山口」の案内が要所にあって迷うことなく登山口の駐車場に着くことができました。そして山頂には〝蟻川戸主会〟の人たちが設置した標識がありましたから、案内から駐車場まですべてこのメンバーの人たちが造ったものなのでしょう。戸主会という名称は昔ながらの強い結束を感じました。山に入ると昭和11年に建てられた「植林記念」の石碑や石祠もあって、蟻川岳が昔から山麓に人たちに大事にされてきたことがわかります。


 植林記念碑は群馬県立中之条農業学校に、大正7年から昭和11年まで赴任した石井廣虎先生から「薫陶を賜った生徒六百余名の有志」が建てたものでした。この間に先生は柏・赤松・黒松・檪など70765本の植林を行ったことが石碑に記されていました。道から外れた尾根には「日本武尊」銘の石祠もありました。関東には日本武尊の伝承が残る山がいくつかあり、群馬の北西部にもあります。
 『古事記』には、東国の蝦夷を平らげた日本武尊の帰路を足柄峠の坂本から甲斐の酒折に入り、科野(信濃)の坂の神から尾張に出たと書かれています。『日本書紀』では、甲斐の酒折から武蔵、上野を廻って碓日坂から信濃に入っています。このとき碓日嶺の東側を吾嬬(あづま)国としたと書かれています。この薄日坂は碓氷峠とされていますが、四阿山(あずまやさん)の鳥居峠とする説もあります。四阿山は吾妻山とも記され、日本武尊を祀った山でもあります。四阿山から流れ出す吾妻川は、蟻川岳がある中之条町を潤して利根川にそそいでいます。
 このブログの趣旨から外れて地名の詮索をしてしまいましたが、蟻川岳の山名の由来も知りたいものです。

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石仏989高間・大黒天(群馬)観音菩薩

2021年08月09日 | 登山

高間・大黒天(だいこくてん) 観音菩薩(かんのんぼさつ)

【データ】 高間・大黒天 550メートル(国土地理地図に山名無し。暮坂峠の南南東、地図の青丸印)▼最寄駅 JR吾妻線・岩島駅▼登山口 群馬県東吾妻町松谷の檗窪集落▼石仏 檗窪から大黒天の道。地図1の赤丸印は大黒天、黒丸は暮坂峠側の登山口。地図2の赤丸印は観音菩薩▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 1999年の記録を頼りに、高間山の北にある大黒天を訪ねるため東吾妻町の檗窪(きわだくぼ)に入った。99年の記録には「檗窪は山間の小さな集落。集落といっても家は二軒しかない。そのうちの一軒は下へ降りてしまったという。昨年下の高日向から林道が開かれ、この道はやがて北の山脈を越えて暮坂峠に通じるようだが、いつになるかわからないと草刈をしていた男が話してくれた」とある。記録は大黒天まで記され、それによると道に「三十一番」銘のある石仏があって三十三観音の一つとしている。石仏に右に在所、左に奉納者銘があった。ところが次に「三十九番/施主三嶋村」があり、さらに登った先に「四十一番/施主枩尾村」や「四十二番/施主岩下村」などが出てきて、三十三観音ではないことに気づいたことも書かれていた。今回はこれらの石仏の確認が目的だった。

 檗窪の下の集落・高日向の道端に「十番」の如意輪観音があった。「施主當所/水出元右エ門」とある。かつて大黒天への道で見た石仏を同じ形のものであり、石仏はもっと下の中川温泉の方から置かれていたのかもしれない。
 石仏への期待は膨らんだが、檗窪はすっかり様変わりしていて思い当たる風景どころが、登山口さえわからない状況になっていた。林道は集落の奥まで伸びていたのでこれを進んだが、沢の手までストップしていた。ちょうど居合わせた男の話によると大黒天への道はすでになく、最近は暮坂峠の方から道が付けられたという。結局檗窪からのかつての信仰の道を辿ることはあきらめた。


【独り言】 偏平足の山登りは地図と磁石だけがたよりです。車はカーナビにまかせますが、カーナビはどの機種もそうなのでしょうが、山間部の道路は表示されないことがよくあり感まかせです。今回はナビ設定の勘が狂って檗窪の南の集落・伏ノ窪に入ってしまいました。たまたま草刈に来ていた男がいたので間違いに気づきましたが、男がいなければ藪のなかでもがいていたはずです。檗窪からの道も、登山GPSもアプリも装備していない偏平足には地図にある道を探しだすこともできませんでした。それに時期的にもヒルが多いこの地方ですから、藪山へ入る気にはなりませんでした。


 大黒天へは暮坂峠手前に古い案内を見つけて、急ごしらえの林道に入りました。しかしその後案内はなく、分岐が多い林道を尾根まで登って探しましたが大黒天への道はわかりませんでした。あきらめて下る途中で見つけたのが二俣分岐に立つ祭礼に使った紙の案内でした。丸まっているため登るときは気付きませんでした。その後も道探しに苦労しましたが、どうにか天然の岩を祀った大黒天に登ることができました。上の写真は99年に大黒天に奉納された打ち出の小槌ですが、いまその数は激減していました。石仏を探して檗窪方面の尾根を少し下ってみましたが、見つかりませんでした。


 参考のために暮坂峠手前から大黒天への道を記しておきます。林道を登って二つ目の分岐を左に入る。すこし登って林道が大きくカーブする右手の涸沢の左岸の踏み跡に入り、両側がせまってきたあたりで右岸の尾根に取りつく。炭焼き窯跡の先の尾根に道があり、右手の高みが大黒天。


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石仏番外 大戸・仙人窟(群馬)十八羅漢

2021年07月30日 | 登山

大戸・仙人窟(せんにんくつ) 十八羅漢(じゅうはちらかん)

【データ】 大戸・仙人窟 550メートル(国土地理地図に山名無し。大戸の町に北)▼最寄駅 JR吾妻線・郷原駅▼登山口 群馬県東吾妻町大戸▼石仏 仙人窟のなか、地図の赤丸印。青丸は大運寺▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言】 仏書によると、十八羅漢は十六羅漢に慶友(けいゆう)尊者と賓頭盧(びんずる)尊者を加えたものだが、この二尊は往々かわることがあると書かれています。前回案内した古賀良山(群馬)の山麓の大戸は、江戸時代に信州街道の宿場として栄えたところです。その街はずれの山中に仙人窟という寺院跡があり、十八羅漢の石仏があるので訪ねてみました。
 初めに、国道沿いの仙人窟入口にある案内から紹介します。「徳川時代の国学者清水浜臣著の上信日記によれば、寛永年中に松厳という坊さんはここに寺を創造し大丹寺と名付けた。延宝年間(1675)に潮音禅師は弟子の心月草菴を住ませ、観音及び羅漢十八躯を建設したとのこと」とありました。


 清水浜臣(1776~1824)は江戸の医師で国学者。「上信日記」によると、文政2年(1819)の春、善光寺参りの帰りに草津から大戸宿に出て投宿、ここで聞いた大運寺や仙人窟などの話を日記に記したようです。江戸時代には旅のガイドブックがあり、旅日記もそれをもとに神社仏閣の様子をことこまかに書いたものがありますが、現地で取材をした清水浜臣の日記は現代において貴重な資料になっているようです。大運寺は仙人窟の近くにある曹洞宗の寺で、仙人窟へ登る道に立つ石燈籠に「大運寺」の名がありましたから、仙人窟は大運寺が管理していたのもかも知れません。



 仙人窟へは石段が続きます。案内には「当時参百段を数えた磴も水害により壱百八十段にすぎない」とあります。登った先に現れる大きな口を開けた仙人窟は圧巻です。正面奥に聖観音を祀り、十八羅漢は窟の左右に並んでいました。下から見上げる位置にあるのでいちいち確認はしませんでしたが、若々しい羅漢が並んでいました。以前に鳳来寺山の行者返の十六羅漢を、江戸時代の仏画集『仏像圖彙』をもとに案内しましたが、ここ仙人窟の羅漢は何を手本にしたのかわかりません。ここの羅漢が造られた延宝年間に仏像圖彙はまだ出来ていませんでした。

 仙人窟から岩尾根の胎内くぐりを潜ったさきにあるのは奥の院で、素朴な造りの地蔵と菩薩二体の石仏が並んでいました。

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石仏988古賀良山(群馬)華童子、仏堂

2021年07月26日 | 登山

古賀良山(こがらさん)華童子(げどうじ)、仏堂(ぶつどう)

【データ】 古賀良山 981メートル▼最寄駅 JR吾妻線・郷原駅▼登山口 群馬県東吾妻町大戸の古賀良神社▼石仏 古賀良山山頂手前の尾根、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより



【案内】 榛名山の西山麓、東吾妻町大戸にある里山が古賀良山。山の中腹、杉林の奥の長い石段の先に古賀良神社が建つ。東吾妻町の案内(注1)によると古賀良神社は「八天狗を祭神として祀り、天正七年(1579)には四阿山より伊弉諾尊と伊弉冉尊を勧請」したとある。社殿は木造だが、その奥に鎮座する本殿は高さ3メートル、幅2メートルもある巨大な石造り。欄干から脇障子に刻まれた鯉の滝登りまで本殿すべて石造りだ。案内によると「信州伊那郡中坪村石工」の仕事だという。背面には「安永二年(1773)」銘がある。
 ここで案内する華童子は山頂へ向かう尾根に立つ文字碑。自然石に輪郭だけ線刻する袋文字で「華童子」と彫られた石碑で、高さは93センチ。背面に「嘉永七年(1854)寅九月吉日再立」とある。華童子から少し登ると山頂で、「元和三年丁巳(1617)」銘のある石祠が祀られている。この石祠は古賀良神社の奥の院で、四阿山(あずまやさん)より勧請した神を祀っている。
 四阿山はこのブログ案内したが、山頂には信州側と上州側でそれぞれ祀った社殿があり、国境の鳥居峠からの道に蓮華童子院という寺院跡が残っている。慶長十六年(1611)に記された「四阿山略縁起」(注2)にこの山の開山の様子が描かれている。それによると、華童子は四阿山に白山権現を勧請した行者、これを祀ったのが蓮華童子院とされている。
 話を古賀良山の華童子に戻す。山頂の奥宮の手前に華童子を祀るこの形は四阿山と同じであり、嘉永七年に再建までして建てたこの石碑は、古賀良山のとっては欠かせない石碑だったのである。
(注1)「東吾妻町の歴史・文化探訪」広報ひがしあがつま№132
(注2)萩原進著「浅間山系三山の信仰と修験道」『山岳宗教史研究叢書9』1978年、名著出版


【独り言】 仏堂 古賀良山山頂の石祠は寄棟造りで、台座を含めると1メートルの大きさ。元和三年の造立ですから江戸時代の始めで400年も前の石祠になります。このころ上州一帯にはこの形の石祠が沢山造られました。初めは仏を祀る仏堂として造られましたが、すぐ先祖を祀る入母屋造りになり、内部に先祖の双体像を祀るようになって、これが元禄ごろまで続きました。石祠の室部の正面左右に造立年や戒名を入れるのも特徴で、摩滅がひどいですが年号が読み取れることがままあります。古賀良山の石祠には「山本坊」銘もありました。山本坊といえば武蔵生越の修験ですが、これと関係があるのでしょうか。
 この形の石造物は石祠・石殿・石室と称して統一された名称がなかったので、私は墓地にあるものを「石祠型墓石」とし、内部に祀られた石像を「祠内仏」としてきました。


 古賀良神社の境内では宝形造りの仏堂を見ました。室部に菩薩の顔だけ置いてあるような状態は異様でしたが、よく見ると胴体は土の中に埋もれているようでした。「元禄七甲戌(1694)」銘もありました。この石造物の名称をなんとするか。神社の境内ですから墓石ではなさそうです。この時代になると石の仏堂は造られなくなっていますが、宝形造りの石祠内に菩薩系の石仏が納められていますから、仏堂としか言いようがありません。

 古賀良山の山には他にも正徳二年(1712)の石柱、文政八年(1825)の笠塔、萬延元年(1860)の「雷電宮」文字塔など、江戸時代を通して奉納された石造物が見られます。笠塔には「大戸宿」銘もありました。大戸は古賀良山の西山麓にある信州街道の宿場でした。信州街道は高崎から長野へ出る脇往還、草津や善光寺に行くには便利な街道でした。その途中に四阿山の鳥居峠がありました。

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石仏987古城山(山梨)富士講碑

2021年07月23日 | 登山

古城山(こじょうやま) 富士講碑(ふじこうひ)

【データ】 古城山 720メートル(国土地理地図の山名無し。碑林公園から四尾連湖への道の仏岩の南のピーク▼最寄駅 JR身延線・市川本町駅▼登山口 山梨県市川三郷町市川大門の碑林公園▼石仏 、古城山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 先に案内したブログ・仏岩の石龕からさらに登ると、二基の石塔が立つ。「小御嶽/市之瀬重太郎」と「龜岩八大竜王/上北町/萬延元(1860)庚申六月」銘の石塔で、小御嶽は富士山河口湖道五合目の小御岳、亀岩は吉田口八合目にある八大竜王を祀る岩。二基はこれらを移し祀った石塔と思われる。小御岳の石塔には山印に三ツ星の紋が入る。これは市川大門にあった富士信仰の組織・大我講の講印である。


 さらに登って登山道から離れた左の尾根の先にあるのが古城山。壊れた木祠(富士浅間社か)を囲むように10基(3基は倒れていた)の石碑が並ぶ。木祠の脇に「石尊大権現/大天狗/小天狗」の石祠がある。石尊は銘の上に種字カーン(不動)が入る。これは富士山小御岳に祀られた神だ。木祠の背後には「浅間神社」と「藤森稲荷大明神/明治三十九年」の2基の文字塔。藤森稲荷は吉田口五合目下にある富士守稲荷か。この文字塔にも山印に三ツ星の講印が入る。
 10基の石碑の多くは、富士登山三十三回の成就を記念して建てた富士講碑。富士講碑は、富士講の講祖の年忌や先達の登山を記念して造立した石碑。古城山の富士講碑は「登山三十三回大願成就/権少講義/大我講」銘が多い。権少講義は明治政府が宗教政策のため設置した教育職の階級。この階級を授与された者はそれなりの教育者だったのであろうか、それとも三十三回成就した者が授与されたのか、そのあたりは定かでない。いずれにしても名誉なことであり、石碑に刻んだのだろう。


【独り言】大我講について『市川大門の石造物』(注)に簡単に説明されているので、要約します。江戸時代末期に市川大門にあった富士講は丸仙講(江戸の丸仙講とは別組織らしい)で、大変な盛況だった。これに対し、明治になって丸仙講から分かれて大我講を開いたのが大寄友右衛門。同書に「丸仙講に不満を抱き、一味徒党を率いてついに分離し、自ら大我講を組織」とあります。
 大我講独立の詳細はわかりませんが、富士講ではいろいろな理由で別に講を組織することが繰り返されました。普通は商店の〝のれんわけ〟のように元講からの円満な独立が多かったのでしょうが、なかには分裂した講もあったのでしょう。その結果、江戸の冨士講は江戸八百八講といわれるほどに増えたそうです。これは地方でも同じで、丸仙講から独立したのが大寄友右衛門で、大我講を組織し発展させました。その拠点が古城山であり、富士講碑の造立を続けたようです。
 古城山に立つ「大我講開祖碑」には、「大寄兌孝翁」銘で大寄友右衛門の功績が記されています。しかし漢文のためよく読めませんでしたが、そのなかに「内外八湖之外特開八池」とありました。富士信仰の重要な水行をする場所として内八湖、外八湖、忍野八海があります。富士山麓の湖から選んだ内八湖の一つが古城山の先にある志比礼湖(四尾連湖)であり、忍野八海を再興したのが大我講の大寄友右衛門とされています。ちなみに外八湖は琵琶湖・諏訪湖・中禅寺湖など、日本一の冨士山にふさわしい関東中部の大きな湖から選んでいます。これらを巡って修業をする富士行者がどのぐらいいたのかわかりませんが、巡礼・廻国者が多数いたこの国の霊山巡りからすれば、びっくりするような範囲ではありません。
(注)『市川大門の石造物』1995年、市川大門町教育委員会

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