偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書293 重文・文殊菩薩(福島県いわき市四倉)

2024年05月31日 | 里山石神端書

福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の重要文化財文殊菩薩

 いわき市の北西部、仁井田川沿いの薬王寺を訪ねました。薬王寺の板碑や亀趺はすでに紹介しましたので、今回は木彫の文殊菩薩です。

 参道石段脇に「国宝文殊尊/昭和三十一年/参道構築記念」」銘の石碑がありました。この寺にある文殊菩薩は重要文化財ですが、かつては国宝だったのでしょうか。


 文殊菩薩は本堂裏の収蔵庫にあり、運慶作と伝わる国の重要文化財です。拝観を申し出ると、住職が開錠し案内していただきました。堂内や仏像に写真もOK、ネットへのアップもOK。住職がいうには皆さんに宣伝してもらった方がいいとのこと。


 堂内には他にも釈迦涅槃図や絹本色弥勒菩薩などもあります。ぜひ訪ねてみてください。
(地図は国土地理院ホームページより

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里山の石神端書292 亀趺(福島県いわき市四倉)

2024年05月28日 | 里山石神端書

福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の亀趺(きふ)

 いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺の境内に亀趺(きふ)がありました。

 亀趺は亀の形をした石碑の台座。石碑を造立するにあたり〝鶴は千年亀は万年〟のことわざにあるように、長寿の亀にあやかって石碑が末永く立ち続けることを願いました。亀趺は古くから中国で造立されていたもので、この国では江戸時代に大名など大型の墓石の台座としたのが始まりとされています。

 薬王寺の亀趺は笠塔を支えています。笠塔正面には「重罪一時/消滅生免/災殃死生」の宝筐印陀羅尼経が刻されていますから、これは宝筐印塔です。亀の顔はしっかり造られていますが、甲羅の部分は別の台座を重ねてあって端折られたもので亀趺としては見劣りがします。その顔には、耳と牙があります。実際の亀に耳はついていますが見えませんし、歯はありませんが、亀趺となると耳がついているものが多いようで、これは中国の亀趺でも同じです。
(地図は国土地理院ホームページより)


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里山の石神端書291 板碑(福島県いわき市四倉)

2024年05月24日 | 里山石神端書

福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の板碑

 いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺は、大同年間(806~10)に徳一(とくいつ)によって創建されたというこの地方の名刹。徳一は法相宗の僧で、常陸から磐城そして会津に寺院を建立し仏教文化を広めたことで知られています。


 薬王寺には板碑が多く集められていました。参道に並ぶ板碑は関東に見られる緑泥石の薄いものではなく、自然石を利用したこの地方独特の形。寺の案内によると、板碑は参道をはじめ石段や境内に45基あるそうです。どれも頭に二条線、その下に大きな種字を刻した板碑で豪快です。



 いわき市の案内によると、この形の板碑はいわき市でも薬王寺を中心とした地域にだけに造立されたもので、年紀があるものは弘安八年(1285)から永和四年(1378)年の百年間だそうです。

 石段入口には乗り物から下りることを示した「下乗」銘の結界石も立っていました。
(地図は国土地理院ホームページより)


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里山の石神端書 茨城県行方市雁通川流域

2024年05月21日 | 里山石神端書

里山の石神端書284 閻魔王、地蔵(行方市石橋)

里山の石神端書285 月待塔(行方市石橋)

里山の石神端書286 鳩(行方市根古屋)

里山の石神端書287 石祠型墓(行方市根古屋)

里山の石神端書288 日本武尊(行方市岡)

里山の石神端書289 道祖神(行方市雁通川)

里山の石神端書290 生祠(行方市荒宿)


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里山の石神端書290 生祠(茨城県行方市雁通川)

2024年05月17日 | 里山石神端書

行方市荒宿・嬪野神社の生祠

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。

 嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。
 そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。


 江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでしょうか。
 推測ついでに、この四基を生祠(せいし)としました。生祠は生存中の人の徳を称えて造立した石祠。この国には生祠が多く、これをまとめたのが加藤玄智氏で『本邦生祠の研究』(注1)とう本があるほどです。関東で知られた生祠は埼玉県羽生市にある佐倉藩主の堀田氏を称えたもので、宝暦から安政(1751~1860)にかけて造立された10基が、『近世羽生郷土史 別巻』(注2)に報告されています。江戸時代の羽生は佐倉藩領でした。

 生祠は人物銘をいれた石祠ですから、殿様とした嬪野神社の石祠はその範疇に入ると判断して生祠として案内しました。
(注1)加藤玄智氏で『本邦生祠の研究』1931年、明治聖徳記念学会
(注2)『近世羽生郷土史 別巻』1986年、羽生市古文書に親しむ会
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書289 道祖神(茨城県行方市雁通川)

2024年05月14日 | 里山石神端書

行方市雁通川一帯の道祖神

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。この地域でときどき目にするのが駒型の道祖神。石塔正面に「道祖神」銘があるだけの簡素なもので、高さは40センチ前後。石橋で会った老人は「どうろくじん」と呼んでいまいた。
 見た道祖神は5カ所。そのうち3カ所は神社境内やその参道で、路傍は1カ所だけでした。造立は刻された紀年銘から明治以降のようです。道祖神の役目の一つとして外からの疫病などを塞ぐことですから、集落外れの路傍に置かれるのが普通です。したがって神社に置かれているのは路傍から移動した道祖神にもみえてきます。その点は確認できませんでした。次にその道祖神を写真で紹介しておきます。



(地図は国土地理院ホームページより)

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屋上菜園2024-05闘病日記27

2024年05月12日 | 屋上菜園




 庭木で大きくなった木を伐りました。いずれカミさんが剪定をするので、まだ余力があるうちに丈のある大きな木を切ることにし、家庭用のチェンソーをネット購入準備しました。しかし使ってみると、チェンを反対に取り付けたり、チェンのゆるみがでたりで苦労したものの、目的は達成しました。
剪定は業者にまかせれば済む話ですが、年金生活者であり猫の額ほどの庭で、自分で思うように手入れをしてきた庭です。皆同じ高さにしてメリハリがなく、寂しいかぎりではありますが、これでカミさんに引き継げます。
     *
 4月末抗がん剤治療前に行う血液検査の結果、血糖値248の数値がでました。これまではいつも130ぐらいでしたから担当医師に指摘され、いろいろ尋ねられました。思い当たるのは、ここ数日体重減少を回復させるため、3食ご飯を食べるようにしたこと、胃をスッキリさせるために炭酸系ジュースを飲むようになったこと、間食に甘いものを食べるにしたことなど、確かに血糖値を上げてくれといわんばかりのメニューでした。それに検査の前日は庭木の剪定で、ジュースを沢山飲んだことも関係あるのかも知れません。いずれにしてもがん患者でなくても危険的な血糖値ですから、翌日から家庭での食事療法をはじめました。
 5月初めの血液検査の血糖値はなんと487で即入院。病室室で計ったら600になっていました。このまま帰宅していたら倒れてしま数値のようです。すぐインスリンと生理食塩水の点滴。夕方には200まで下がりました。ただ急激にさげるのはよろしくないと、インスリンは中止。そして、この突然の血糖値が上がった原因究明のため、しばらくの入院生活で先がみません。
 振り返ると、昨年も5月末に腎臓機能低下で2週間の入院をしました。2度と入院はしたくないと思いましたが、身体のコントロールができない今は先生まかせ、成り行き任せです。これからは1日4回、自分でインスリンを注射しての生活になりそうです。

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里山の石神端書288 日本武尊(茨城県行方市岡)

2024年05月10日 | 里山石神端書

行方市岡の福寿寺

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。
 その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。

 石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相鹿丘前宮跡」銘。側にある案内には、日本武尊の食事を用意するとき雷鳴とともに別雷命が降りてきて、これを水の神として祀ったのが雷神社。江戸時代に道鏡と合わせ祀って丘前宮道鏡大明神とした、とありました。


 道鏡大明神の社殿をのぞくと男根が……。道鏡と男根はどのような関係なのでしょうか……。子授け祈願として性神の祀ることは古くからありましたが、江戸時には石造男根も造立されてきました。その象徴として、道鏡は巨根だったという俗信があったようです。俗信の元になった一つが『日本霊異記』(注)の下巻第38、称徳天皇と道鏡の件です。
同書には「我之黒見曾比 麻多に宿し給へ 人に成まで(黒いふぐりよ、股でおやすみなさい。一人前になるまで)と歌った。称徳天皇の世の天平神護元年(765)のはじめに、弓削氏の僧道鏡は天皇と同衾し、政治をとって、天下を治めた」とあります。真意のほどは……。

 境内入口には二十三夜塔と月読命の石塔、墓地には女人信仰の如意輪観音と子安観音が並んでいました。


(注)『日本霊異記』昭和42年、平凡社・東洋文化97
(地図は国土地理院ホームページより)

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八千代新川千本桜 24-05

2024年05月04日 | 

ふくしま浜街道・桜プロジェクト

 3月下旬に「ふくしま浜街道・桜プロジェクト実行委員会」より、オーナー基金制度終了の知らせがきました。
 このプロジェクトは東日本大震災の翌年、被災から桜の成長と共に復興してゆく浜通りを子どもたちに残し、花咲く桜並木とともに迎えたい、この震災を忘れないための浜通りのシンボルにしたいという想いから立ち上げたものでした。目標は2万本で、国道6号線の樹木がほぼ完了したことにより、今年4月30日で解散するとのこと。
 目標達成お祝い申し上げます。そしてお疲れ様でした。

 私がこのプロジェクトに参加したきっかけは、1歳の孫の死でした。何もしてやれなかった孫のために何か残してあげたいというときにこのプロジェクトに出会ったのでした。申し込むとオーナー会員証が届き、後日桜の番号と植えた住所が届きました。数年後地図を頼りに現地を訪ねると、国道4号線脇の土手に、独り立ちする大きさに育っていて、孫の成長を見る様でした。

 

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里山の石神端書287 石祠型墓(茨城県行方市根古屋)

2024年05月03日 | 里山石神端書

行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。

 龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。


 石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓石として五輪塔や夫婦像を納めるものが普及していったようです。ルーツは中世の畿内の墓石にあると思っていますが、戦国期から東国のこの墓石の造立地をみると、甲斐の武田氏が支配した地域に偏っています。

 石祠型墓石は千葉県銚子一帯にも造立されていて、かつて訪ねたことがありました=上写真=。その特徴は室部正面に鳥居が浮き彫りされていること。龍翔寺の墓石にも鳥居がはっきり残っていますから、銚子と同じ様式です。行方と銚子は距離的にも近く、同じ霞ヶ浦水系でしたから、同じような石造物があっても不思議ではありません。しかし銚子一帯の多くは砂岩を利用したもので崩壊がひどく、多くは室部が潰れていました。
 ところで室部の鳥居は何を意味しているのでしょう。和歌山・高野山の四十九院の鳥居につながるのでしょうか。
(地図は国土地理院ホームページより)

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『東国里山奥山の石神・石仏風土記』②

2024年05月02日 | 


(写真は仮の裏カバー表紙です。出版は夏頃の予定)
【初校・再校】
 東国の山で見た石神石仏の本を製作中です。
 2月に北海道・東北の初稿が出ると、校正と写真の照合で忙しくなりました。しかし集中力が続かず、作業はなかなか進みません。3月には関東と中部の初稿も出て、本の概要が見えてきました。こうなると一日も早い出版につなげるため、体調と相談しながら校正をすすめ、3月中旬に終わらせました。
 この間山渓の編集担当者とのやりとりはメールで、どうしても対面での打ち合わせが必要なときは私の体調を気遣って、自宅まできていただくこともありました。
 ここで困ったのが写真の再提出。カラー本は写真の鮮明さが必修で、山渓の出版は写真の美しさが特徴ですから、素人写真の私の手元にはそのような写真はありません。
 そうこうしているうちに4月に再校が出て、出版社がある東京へも行けなくなり自宅での打ち合わせ。これには編集者からの、山名から登山口をはじめ神仏名、参考文献の確認、誤字・脱字ほか表記不統一の修正などことこまかに指摘され、この確認には時間がかかり、5月になっても作業中です。原稿を書き始めるときに、表記の統一を考えないまま作文を進めたのが失敗でした。それにしても編集者の子細にわたるチェックの凄さには驚くばかりです。

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屋上菜園2024-05闘病日記26

2024年05月01日 | 屋上菜園


 タマネギ、ニンニクが成長し、ジャガイモの芽が出て成長中、収穫を終えキヌサヤの後には手無しインゲンを植える準備で屋上菜園はにぎやかです。仕事をまかせたカミさんも屋上に行く回数が増えましたから、ヤル気になったようです。
     *

 「現在推奨できる薬剤はありません」。これは食道がんに有効な抗がん剤がなくなってきて、何か薬がないかという段階の3月に行った「がん遺伝子パネル検査」の結果でした。パネル検査は、がん細胞に起きている遺伝子の変化を調べ今後の治療に役立つことがないか調べるための検査です。しかし検査により有効な薬が見つかる確率は数パーセント。それでも検査を受けたのは、パネル検査のデータががんゲノム情報管理センターに保存され、今後のがん治療の参考になるということなので、お役に立てればという気持ちからでした。
 4月中旬のCT検査は、抗がん剤を続けるか緩和ケアに移るかを判断する分かれ道の検査。抗がん剤の効果がなければ治療打ち切りで緩和ケアになるところでしたがが、悪くはならない現状維持の効果あり、ということでもうしばら続けることになりました。命が少し延びた感じです。

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