偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書277 男根(千葉県成田市旧下総町)

2024年03月29日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)小野・八幡神社の男根

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の小野八幡神社で、石碑に彫られた男根がありました。


 これは男根石と同じ趣旨の性神です。男根の大きさは約20センチ。

 これまでいろいろな石造男根を見てきましたが、この形は初めてです。淫祠(いんし)として為政者が造立を取り締まってきたこの種の石造物が、各地に残っているのは、性神信仰の根強さを示すものです。八幡神社の性神がどのような信仰背景があっての造立かは不明ですが、子授け子育てを願う神の一つであることは間違いありません。
 性神の脇には同じような男根のミニサイズの片割れがありました。このようなミニサイズの石造物は下総町の道祖神に見ることができます。


 この下総町には小さな石祠を道祖神として祀る風習があります。次回から下総町の二か所から紹介しますが、どうしてこのような形の道祖神を造るようになったかも不明です。下総町では夫婦円満、安産・子育てと案内しています。また同じような石祠は成田市や佐倉市でも散見することがあります。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書276 十九夜塔(千葉県成田市旧下総町)

2024年03月26日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)大和田・龍安寺の十九夜塔

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の大和田にある龍安寺を訪ねました。
 龍安寺は曹洞宗の寺で山門前に禅宗特有の「不許葷酒入山門」の結界石が立っていました。その裏側には弘法大師の石仏群は、この寺が成田組十膳講八十八所霊場の一番になっているための造立でしょう。


 境内に入ると、左手に菩薩の石仏が並びます。その右端に座すのが「奉待十九夜/文化十四丑(1817)」銘の十九夜供養塔。


 十九夜塔は女性たちが、月齢十九日の夜に当番あるいはお堂に集まって経を唱え、歓談した行事を行って造立した石塔です。集まったとき掲げる軸の本尊は如意輪観音とされています。したがって造立された十九夜塔も例外もありますが如意輪観音がほとんどです。龍安寺の十九夜を見ると観音特有の頭上の化仏や持物の蓮華はありません。ところが膝に両手で赤子を抱いています。像容だけを見ると子供を抱く子安観音ということになります。石塔の十九夜塔の主尊は当初の如意輪観音でしたが時代を経ると子供を抱く像容に変化してきました。これは十九夜の信仰が念仏から安産に変化したためとの指摘もあります。その様子を中上敬一氏の「十九夜念仏源流考」(注)から簡単に紹介します。
 中上氏によると、十九夜念仏塔は江戸時代の寛永期に茨城の利根川流域に登場し、千葉や栃木に広がったようです。この初期十九夜の主尊は阿弥陀如来。これが女性の信仰に変わったのは、女性が落ちる血の池地獄から救済する『地盆経』を背景とした十九夜念仏和讃にあり、血の池地獄に苦しむ女性を救うのが如意輪観音であるところから、十九夜信仰の主尊に定着していったと推測しています。また、茨城に残る十九夜の由来に、女の厄年が十九歳であることを歌っていることをあげています。また早婚であった江戸時代の19歳は心身共未熟なため、出産による死亡率が高かったことへの安産祈願を如意輪観音に願ったことを紹介しています。こうして登場した十九夜塔の如意輪観音が赤子を抱く姿になるのは江戸時中期からのようです。
(注)中上敬一著「十九夜念仏源流考」『日本の石仏54』1990年、日本石仏協会
(地図は国土地理院ホームページより)

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昭和の石仏写真館(168)川口市の寺社⑤

2024年03月25日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤
新光寺(峯)

新光寺・不動明王

新光寺・異形十一面観音

新光寺・地蔵菩薩

安行原蛇ノ木下

安行原蛇ノ木下・大日如来

安行原蛇ノ木下・庚申塔

安行原蛇ノ木下・地蔵菩薩

峯路傍・道祖神

安行原蛇ノ木・庚申塔

安行原蛇ノ木・地蔵菩薩

安行原蛇ノ木・成田不動


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里山の石神端書 埼玉県本庄市児玉町秋山

2024年03月23日 | 里山石神端書

里山の石神端書270 宝筐院陀羅尼経(本庄市児玉町秋山・日輪寺)

里山の石神端書271 大魔羅(本庄市児玉町秋山・御嶽神社)

里山の石神端書272 五神神名塔(本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社)

里山の石神端書273 文殊大士(本庄市児玉町秋山・直正寺)

里山の石神端書274 二十二夜塔(本庄市児玉町秋山・薬師堂)

里山の石神端書275 十二天(本庄市児玉町秋山・十二天山)

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里山の石神端書275 十二天(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月22日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・十二天山の十二天

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。十二天はその秋山集落の山中に建つ神社です。
 秋山集落から林道に入り、馬頭観音が鎮座する瓦屋根の木祠が建っているところがかつての登山口で、石燈籠に「従是千百米」銘がありました。


 今の登山口の十二天池で、社務所・十二天会館が建っています。林道はさらに奥にのびて十二天神社の下まで入ります。


 ところで十二天は仏教の守護神、とくに密教の守護として行や儀式が行われた道場に絵図として用いられたようで、木彫としても少なく、石仏となるとほとんどありません。一般には災厄から守護とされたようです。山ではこれまで奥多摩の三ノ木戸山と西上州の馬居沢秋葉山で十二天に出会っています。奥多摩の三ノ木戸山の十二天尾根には「十二天山神」銘の丸石があり、宮内敏雄氏の『奥多摩』(注)に「十二天は天神七代・地神五代を祀った宮」とあります。この神名は明治の神仏分離で仏名から変えた可能性もありそうです。西上州では十二天の各天部の銘が刻されていましたから、こちらは間違いなく仏教の十二天です。それにしても里山に祀られた珍しい神仏の背景には、近世初頭に活躍した修験者たちの姿が見え隠れしますが、十二天もその一つでしょう。


 秋山の十二天も災厄守護の信仰で霊験があったのでしょう、山頂の十二天社に続く石段の両脇に祈願成就を報告する石碑がいくつも立っていました。
(注)宮内敏雄著『奥多摩』1944年、文松堂書店
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書274 二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月19日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・薬師堂裏の二十二夜塔

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ薬師堂の裏庭に石造物が並んでいました。一か所に集められたといった感じです。


 「猿田彦大神」、「庚申塔」、青面金剛庚申塔、墓石2基、石祠型墓石、宝篋印塔型墓石、二十二夜待供養塔、卵塔2基。庚申関係の石造物が3基ありますから、庚申信仰が継続して行われてきたのでしょう。卵塔は僧侶の墓石、石祠型墓石は江戸時代初期のものです。二十二夜塔には「二十二夜待供養/延享二年乙丑(1745)十二月廿二日/女人十一人」銘がありました。



 『日本石仏事典』(注1)には月待塔として十三夜塔から二十六夜塔まで解説され、これらが近世の造立で、地域により偏りがあり、造立者が男か女か、信仰の具体的例なども紹介されていて、実にさまざまな願いが込められての信仰だったことがわかります。そして二十二夜についは、ほとんど女人講であり、如意輪観音の像や二十二夜の文字を刻むものが多いとし、埼玉の北西部や群馬の中・西部に濃密であると解説されています。
 ところで近世以前の月待行事についてはあまり資料がなく、『日本の石仏』№22(注2)を参考に要約すると、まず月を見る行事は古くからあり、これに仏教がかかわって月待信仰に引き継がれていったことがわかります。仏教の月の仏は月天(月天子)。月天子の本地仏が勢至菩薩で、月の信仰の本尊として勢至菩薩が信仰されたようです。また勢至は中国の五大十国(907~960)のころ生まれた三十日仏の二十三日が有縁日の仏。こうして月待信仰は二十三日に勢至菩薩を本尊として信仰として定着していったことが指摘されています。これとは別に仏教では十七夜から二十三夜までの月待を行う〝七夜待〟の行法が行われていました。その本尊は『修験深秘行法符咒集』(注3)によると17夜聖観音、18夜千手、19日馬頭、20日十一面、21夜准胝、22夜如意輪、23夜勢至菩薩(ここに並ぶ六観音は准胝が入るので真言系)。後にこの七夜待の行事は一般にも広まり、さらにこれを一夜ずつ独立させたのが、近世に行われた十九夜・二十三夜などの月待信仰ではないかともいわれていす。これを主導したと思われるのが修験者で、『修験深秘行法符咒集』は修験が相伝した秘法をまとめたもので、月待のそれぞれの日ごとの本尊と行う行法が記されていて、先にも書きましたが二十二夜の本尊は如意輪観音となっています。
(注1)『日本石仏事典』庚申懇話会、1975年
(注2)『日本の石仏』№22、日本石仏協会、1982年
(注3)『修験深秘行法符咒集』日本大蔵経編纂会偏、2010年
(地図は国土地理院ホームページより)

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昭和の石仏写真館(166)川口市安行

2024年03月18日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市安行の寺社
金剛寺(安行吉岡)

金剛寺案内

金剛寺不動明王

安行領塚路傍 庚申塔・寛文(1661~63)

安行領塚路傍 庚申塔・寛保2年(1717)

興善寺(安行領塚)庚申塔・元禄7年(1694)

興善寺(安行領塚)庚申塔・宝暦8年(1758)

興善寺(安行領塚)地蔵菩薩

安行領家路傍 庚申塔・安永3年(1774)

宝蔵院(安行原)板碑・応安7年(1374)

宝蔵院(安行原)成田不動

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里山の石神端書273 文殊大士(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月14日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・直正寺の文殊大士

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山際に建つのが禅宗の戸田山直正寺。本堂とその上に立つ文殊堂からなる寺です。


 寺の案内には、江戸時代初期の「承応元年(1653)戸田五郎左衛門直正が、戸田氏の供養のため廃寺を中興した」とありました。戸田氏はこの地を給地とした旗本。


 文殊堂は向拝柱を飾る豪華な木鼻と禅宗独特の花頭窓がある落ち着いた建物です。しかし堂内は畳もあげられて荒れるにまかせた感じ。天井の花絵のほとんどは薄れてしまいました。ここに案内する「文殊大士」の文字塔は、片付けられて淋しい仏壇の下に置かれていました。自然石を利用した文字塔です。

 文殊大士は文殊菩薩の一つの呼びかたで、特に禅宗で修行僧の理想形として僧形の文殊大士が座禅堂に安置されてきました。したがって像容のある石仏として野に祀られることはなかったようです。


 禅宗の寺らしい石造物が文殊堂上の歴代僧侶の墓地にありました。円柱の塔身に丸い笠を載せた石塔で、形から笠塔としておきます。禅宗らしいのは、丸い塔身に刻された「兼中到/正中偏/偏中正/正中来/兼中至」銘。仏書によるとこれは、中国唐の時代の禅僧が唱えたもので「偏正五位」として、曹洞宗に引き継がれてきた考えのようですが、この説明をするには難しすぎる文言です。
(地図は国土地理院ホームページより)

 

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里山の石神端書272 五神神名塔(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月12日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社の五神神名塔

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ秋山新蔵人神社は、南北朝時代この地に縁があった秋山新蔵人光政の子孫が祀ったものと、境内の案内にありました。それは小さな社殿で、秋山集落に建つ寺社はどこも質素といった印象です。



 境内の隅に五角柱のそれぞれに「埴安媛命/倉稲魂命/天照大神/大己貴命/少彦名命」銘を刻した五神神名塔が祀られていました。高さ78センチ。五神神名塔は関東では、佐倉、相模など限られた土地で造立されたことがわかっています、どこでも70センチ前後の高さです。この石塔の造立目的は五穀豊穣を願うもので、土の神を祀る〝社日〟の習俗が根底にあるとされ、この石塔を地神と呼ぶ地方もあります。
 社日は「一年に二回あり、春分と秋分に最も近い戊の日をいう。この日は、産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊穣を祈り、秋には収穫のお礼参りをする」(注1)。
 この社日を石造物として具体化した一つが、五画柱に五神名を刻した様式で、それを提唱したのが大江匡弼(1725頃~1790)、天明元年(1781)に著した『春秋社日醮義(しょうぎ)』にあると指摘されています。匡弼は関西の人で、宗教学者。
 具体的な祀り方は、同書に図解されていて、五角の石柱に五神の名を刻むこと、天照大神を北向きに祀ることなどが基本となっています。これが徳島地方に多いのは「寛政元年(1789)、富田八幡宮祠官・早雲古宝が時の徳島藩主蜂須賀治昭に意見を申し入れ、以後各村浦に地神塔を建てて祀らせるようになった」(注2)とあるように、藩あるいは宗教者の勧めがあっての造立だったようです。
 児玉町の山には実に様々な神々が祀られていて、近世に宗教者が盛んに活動をした痕跡が見られます。五神神名塔は秋山集落の西の稲沢集落の山中でも見ていますから、この地方でもこの神を祀るよう勧めた宗教者がいたはずです。
(注1)『こよみ読み解き辞典』1993年、柏書房
(注2)高橋普一著「地神信仰に見る均質性と多様性-徳島県那賀郡那賀町の事例より―」『日本の石仏』№96、日本石仏協会
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書271 大魔羅(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月07日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・御嶽神社の大磨羅

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ御嶽神社があるというので訪ねてみました。
 御嶽(みたけ)神社というので、木曽御嶽(おんたけ)ではなく奥多摩の御嶽神社を勧請したものかと訪ねたのですが、それは小さな敷地の小さなお宮で、脇に大きな男根石が鎮座していて、予想は大外れでした。


 案内によると、御嶽神社は「この地にある飯島一族の氏神様で、古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様」ということでした。さらに「御神体は石棒で(略)その型にならってか、大小様々な石棒が人知れず奉納され(略)秋山の大魔羅と呼ばれている」とありました。

 お宮をのぞくと内部には小さな木の男根が沢山納められていました。案内には「あまりの多さに氏子が時折取り片付ける事もある」とも。肝心の石棒ご神体はご近所の家が預かっているということで見ることはできませんでしたので、大魔羅である男根石なのか古い時代からの石棒なのかはわかりません。珍しい例になりますが、縄文時代の祭祀として使われた石棒を祀っている小社もあったりします。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書270 宝筐印陀羅尼経(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月05日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・日輪寺の宝篋印塔

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ日輪寺は真言宗の寺、境内に宝篋印塔のような石塔が立っていました。


 この塔、相輪はあるものの笠は宝篋印塔のものとは違う層塔や宝塔のような形です。二段構えの上塔身の四面に彫られた種字金剛界四仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)が宝篋印塔であることを示しています。これに「宝篋印塔」銘でもあれば間違いなく宝篋印塔となるのですが……。
 宝篋印塔は宝筐印陀羅尼を納めるための塔で、鎌倉時代以降石塔の一つとして盛んに造立されました。江戸時代になると墓石としても造立され、形も変形を重ねてこの日輪寺のような宝筐印塔も登場しました。
 造立の目的は下塔身に刻まれています。
「経曰若有 有情能於 此塔一香 一華禮拝 供養八十」
「億刧生死 重罪一時 消滅生免 災殃死生 佛家若有」
 この銘の解説は『日本石仏事典』(注)から案内します。
「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば 八十億刧生死重罪が一時に消滅し 生きている間は災害から免れ 死後は必ず極楽に生まれかわる」。この銘こそ宝筐院陀羅塔の造立目的を記した『宝筐印陀羅尼経』の文言です。


 境内には石祠型墓石もありました。埼玉ではこの本庄市あたりから北にかけてこの形の墓石が残されています。
(注)『日本石仏事典』庚申懇話会、1976年、雄山閣出版
(地図は国土地理院ホームページより)

 

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昭和の石仏写真館(166)川口市の寺社④

2024年03月04日 | 登山

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社
赤山城跡(赤山)

赤山城址案内

真乗院(石神)

真乗院庚申塔・元禄三年(1690)

真乗院庚申塔・宝暦七年(1757)

宝蔵寺(西新井宿)庚申塔・元禄八年(1695)

宝蔵寺庚申塔・寛政三年(1791)

宝蔵寺庚申塔・文政三年(1820)

源長寺(赤山)案内

源長寺石仏

源長寺庚申塔・正徳六年(1716)


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里山の石神端書 千葉県南房総市千倉

2024年03月02日 | 石仏写真館

里山の石神端書264 地蔵絡子(南房総市千倉の平磯)

里山の石神端書265 鯨塚(南房総市千倉の平磯)

里山の石神端書266 大日如来(南房総市千倉の千田)

里山の石神端書267 鯉(南房総市千倉の千田)

里山の石神端書268 風神雷神(南房総市千倉の大川)

里山の石神端書269 やぐら(南房総市千倉の大川)


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屋上菜園2024-03闘病日記24

2024年03月01日 | 屋上菜園


 2月5日夜は八千代市も大雪となりました。屋上菜園は雪の綿帽子をかぶって暖かそうです。6日朝は長靴を履いて外に出ました。しかし雪かきをするカミさんを見ているだけでした。食道がん発病以後、体力はすっかり衰えてしまいました。
     *
 2月は抗がん剤副作用の口内炎で苦しみました。食べられるのはおかゆ・麺・パスタなど味が薄く柔らかいものだけ。中旬に担当医にお願いしてうがい薬を変えてもらいましたが、それも効果がなく、「抗がん剤を休みますか」との提案がありました。確かに治療を休むのが一番良い方法です。でもそうすると転移したリンパのがんがまた動き出してしまうのが心配。どちらを選ぶか? 治療を選択ましまた。

 それにもかかわらず2月下旬のCT検査の結果、リンパのがんは増大、肝臓のがんも復活。口内炎に苦しんだ今回の抗がん剤の効果は無し、という最悪の状態。そして主治医がいうには、もう使う抗がん剤が無いという説明。後は緩和ケアに移行するそうです。それでも先にリンパ対策のため止めたFOLFOX治療を再度やってみることになりました。それから最後の薬がないか、がん遺伝子パネル検査を受けることにしました。これで合う薬が見つからなければ、緩和ケアになるそうです。見つかる確率は限りなく低いとのこと。

 

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