行方市根小屋・八幡神社の鳩
行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。八幡神社は雁通川が北浦の河口にある根古屋集落の北側、中世に相賀城という山城に建てられた神社。現地の案内には「寛永十六年(1639)龍翔寺九世住職の祐守法印の時に再建したと伝えられている」とありました。龍翔寺は山城の麓に建つ真言宗の寺。
八幡神社の鳥居をくぐって登り出すと、手水石と道祖神が並ぶ崖に突き当たります。道祖神は駒形の石に「道祖神」銘があり、この雁通川一帯でよく目にする道祖神です。境内には勧請された石祠が並び、「淡島大明神/元文四未(1739)」銘の石祠もあり、根古屋の鎮守といった感じの八幡神社です。
鳩は神社の本殿脇障子に二か所に彫られています。白い鳩です。
鳩は八幡神社の使い。御先(みさき)と呼ばれた神の先触れとして働く動物で、寺社の創建譚に登場する地主神などです。例えば熊野は八咫烏、稲荷は狐、春日は鹿、山王は猿、天神は牛、三峰・御嶽は山犬などです。そして八幡は鳩となっていますが、八幡の大元である大分宇佐八幡宮やその後勧請された京都石清水八幡宮、それから神奈川鶴岡八幡宮においてもこの関係を明快に解説したものは見ていません。
(地図は国土地理院ホームページより)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市
不動院(榛松)庚申塔・延宝六年(1678)
不動院(榛松)庚申塔・寛保三年(1743)
真浄院(石神)提頭羅神王
真浄院(石神)国常立命
三仏寺(戸塚)三神①
三仏寺(戸塚)三神②
三仏寺(戸塚)三神③
三仏寺(戸塚)三神④
桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)①
桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)②
行方市石橋・熊野神社の月待塔
行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。熊野神社は石神集落の中心部にある神社で、近くに観音堂や浄泉寺もあります。
境内には庚申塔や月待塔が並び、この神社が集落の信仰の中心だったことがわかります。月待塔は「廿三夜供養塔」「奉待廿□」「十九夜/奉廿三夜/廿日待」の三基。いずれも風化がひどく、この場所に立て替えたような印象の月待塔です。その中の「十九夜、廿三夜、廿日待」を並べた月待塔はどういう背景があっての造立なのか、考えてしまいました。中央に「奉廿三夜」とありますからこれが主で、あわせて十九夜と廿日待を行っていたということだと思いますが、十九夜も廿日待も信仰や石造物の事例の少ない月待です。そのなかでも茨城には若干あったようです。
熊野神社の前に観音堂がありました。境内の案内には「神明山観音寺 本尊は、木像聖観音菩薩立像 現存する木札によれば、延宝六年(1678)二月吉日御堂再造とあるが、創建年は明らかでない。熊野神社別当として置かれたものである。明治元年神仏分離令により廃寺となるが、その後も地域住民のあつい信仰心で、護持されている。平成二十一年十二月吉日御堂再建、入仏供養が営まれた。毎月旧十七日夜には女人が集い、家門繁栄、安産祈願等が行われる」。いろいろな月待塔があった石橋集落です。
(地図は国土地理院ホームページより)
行方市石橋・養源寺の閻魔、地蔵
行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。初めは石神集落の養源寺。
養源寺は、山門に変わりに石柱を台座しその上に石仏を乗せて対にした所が入口。石仏は閻魔王と地蔵菩薩。寺の境内に閻魔と奪衣婆、あるいは六地蔵が並ぶ光景はよく見ますが、山門がわりに閻魔と地蔵が座すのは初めてです。
寺に向かって左側の像は、風化のため表情はわかりませんが冥府の裁判官十王の着衣である道服(道教の道士の服装)姿なので十王であり、その中心の閻魔王としました。本来なら笏を持つのですが、これも欠けています。石柱には篆書で「禁葷酒」銘がありますからこれは結界石も兼ねています。養源寺は禅宗・曹洞宗の寺でした。
右は右手に錫杖左手に宝珠を持ち、左足を踏み出そうとする延命地蔵です。地蔵菩薩は六道に苦しむ亡者の救済仏ですが、閻魔王の本地仏ともされています。
大護八郎氏の『石神信仰』(注)では、閻魔王の本地仏は『地蔵菩薩発心因縁十王経』が出典と紹介されています。
境内には薬師堂もありました。
堂内の中央に薬師如来、その両脇の4段の祭壇に木彫仏が並んでいます。最上部に薬師如来脇には日光・月光菩薩、その脇の2段3段に十二神将。ところが十二神将は11体で、1体は不動と神像の像容です。神像は十王の一王のようでもあります。養源寺は留守でこの件は聞くことができませんでしたが想像するに、かつてこの寺には十王を祀る十王堂があったのでは、と思いました。
(注)大護八郎著『石神信仰』1977年、木耳社
(地図は国土地理院ホームページより)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市
庚申塔・東本郷路傍
如意輪観音・東養寺(東本郷)
六地蔵1・東養寺(東本郷)
六地蔵2・東養寺(東本郷)
出羽三山供養塔・金棟寺(東本郷)
六地蔵1・東養寺(東本郷)
六地蔵2・東養寺(東本郷)
六地蔵3・東養寺(東本郷)
六地蔵4・東養寺(東本郷)
青面金剛・正源寺(新堀)
勢至菩薩・正源寺(新堀)
千葉県成田市(旧下総町)青山・東光寺の川崎大師
利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の青山を訪ねました。ここは東光寺を中心に、薬師堂や北辰神明社が建ち、そのなかに石造弘法大師を納めた小社が二社並んでいました。
その一つはこの地方に組織された成田組十膳講八十八所霊場の一つ。千葉県北部と茨城県南部の下総地方には、江戸時代中期以降四国八十八霊場を移したミニ霊場が各地につくられました。ミニ霊場は大きな寺を起点としてはいますが、その多くは小さな木祠に石造弘法大師(一部に木彫もある)を祀ったものです。
もう一つは川崎大師を祀った小社です。社内には川崎大師からいただいてきたお札がきれに並んでいました。川崎大師の本尊は弘法大師。青山の集落では「誠心講」という川崎大師の講をつくって、毎年川崎大師へ参拝したそうです。川崎大師がどのような布教活動をしたかは手もとに資料がありませんのでわかりませんが、川崎大師は東京西新井大師、千・香取の観福寺とともに関東の三大厄除け大師とされ、江戸時代中期より繁盛したようです。青山からは観福寺が近いのですが、わざわざ川崎まで出かけたのは、旅の楽しみがあったのでしょう。
小社の近くには「奉待十九夜講中/天明二(1782)」銘の如意輪観音が座していました。
(地図は国土地理院ホームページより)
千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠
利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。
集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。
石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多さです。
大型の石祠も少しあり、こちらには造立年が入ったものがありました。そのいくつかはいずれも文化年間(1804~1818)初めの銘があり、この時代に道祖神石祠の奉納が始まり、続いて小型の石祠の奉納が始まったと推測するのが妥当でしょうか。奉納目的は下総町の案内にあるとおり、夫婦円満、安産・子育。とにかくすごい数の道祖神石祠でした。
(地図は国土地理院ホームページより)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺
圓通寺の六地蔵
地蔵菩薩
阿弥陀如来
板碑群
板碑・至徳元年(1386)
板碑・応永五年(1408)
板碑・文正二年(1467)
板碑・文明十二年(1480)
板碑・文明十八年(1486)
僧像
十三仏
千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔
利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。
山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっとも政子は嘉禄元年(1225)に亡くなっています。
境内奥から山の上に立派な石段が続き、登り切ったところに立つのが坂道供養塔です。「文化七年庚午(1810)」銘。石段の先には「端栄山霊感講三十三観音新設記念碑」端栄山は楽満寺の山号、三十三観音は楽満寺境内に立つ新しい石仏か。
供養というと仏・法・僧や死者に供物を捧げることですが、この国では地震や津波での死者供養から動物や植物、橋や石段や石垣を造っても供養塔を造立しました。人形供養や針供養の行事もあります。八百万の神の国ですから、供養塔も八百万です。
(地図は国土地理院ホームページより)
千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音
利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。
迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。
迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。
(地図は国土地理院ホームページより)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本蓮の普門寺
(庚申塔は№169と一部重複)
庚申塔(元禄六年・1693)
庚申塔(正徳二年・1712)
庚申塔(正徳二年(1712)
庚申塔(寛延二年・1749)
庚申塔(寛延三年・1750)
庚申塔(安永六年・1777)
庚申塔(享和四年・1804)
六地蔵
六地蔵1
六地蔵2
千葉県佐倉市(旧下総町)高の月輪神社の天神
利根川下流の下総町が成田、市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここに案内するのは高集落の月輪神社金環殿の奥にある天神様木祠に鎮座する木彫の天神です。
高集落外れに「月輪神社」の扁額がかかり、社殿に「金環殿」とある神社のさらに奥にある木祠が天神様。
祀られているのが木彫の天神で、冠をつけ袍姿の坐像の胸に天神の象徴梅鉢紋をつけています。右手は笏を持つように握った形、左には太刀をさしているはずですが、これは見当たりません。
これまで山や山麓の石仏をだいぶ見てきましたが、天神をはじめとした神像の石仏にはほとんど出会いませんでした。仏像が路地に立てられたのに対して神像は社殿に祀るという意識が強かったようで、数少ない天神石像は石祠内に祀られるケースが多い印象です。
山麓の寺社巡りをするようになって気づいたのは、木彫の神像を祀る小社が多いことです。基本的には姿を現さないこの国の神ですが、近世になると掛軸などに神の絵図が登場して、これを手本に木彫が造られたと思います。これが石仏になった例が天神で、他には天照、春日、八幡、稲荷などがあります。木彫道祖神なども、石像になる前は木彫あるいは藁などの人形の時期があり、いまでもその形を続けている地方があることも知られています。
(地図は国土地理院ホームページより)
(写真は仮の表紙です。出版は夏頃の予定)
【経緯】
22年9月、食道がんステージ4を告げられ抗がん剤治療に入る前に決めたのが、石仏・古文書・桜のボランティアなどの会の運営の辞退でした。山の石仏調べも出来なくなりました。
こうなると自分の時間ができて始めたのが山の石仏のブログをまとめること。どうまとめるか構想は膨らんでいて、ブログ偏平足の「山の石仏案内」も千回を数え、ちょうど区切りのよい時期でもありました。いま振り返ると、がんになったのは、そろそろ自分のライフワークをまとめなさいという催促だったような気がします。それまで会の運営であまりにも忙しすぎました。
『東国里山奥山の石神・石仏風土記』はブログ「山の石仏案内」から抜粋・加筆したもので、取り上げた山の石仏案内約1000、写真は新しく選びなおしたもの約1050で構成した内容です。苦労したのは写真で、50年前のフィルム、その後のデジタルで保存したCD、ハードデスクなどから拾い出す作業。目的の写真を選びだすのは時間ばかりかかり、とくにフィルム写真をパソコンに取り込む機材は20年も前に購入しておいたもので、操作そのものから仕切り直しでした。
急がなくてはとこの作業は家ではもちろん、入院中のベット、抗がん剤治療中の椅子でも作成しました。ただ家では集中力が続かず、病院での作業がはかどったのは意外でした。
当初は出版費をおさえるため版下まで作成して、印刷製本だけの出版を考えていました。しかし編集作業をしながら、この本は50年100年後に残すために書店販売ができる出版社から出したいと考えがかわり、原稿・写真が揃った昨年12月に山と渓谷社に相談しました。山渓社は18年前に『里山の石仏巡礼』をお願いしたところであり、今回の本の内容は〝山〟というのが一つのキーワードなので、山渓社が相応しいとお願いしました。そして1月にOKが出て正式契約、スタートしました。
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤
慈林寺(安行慈林)六地蔵
福寿院(赤井)庚申塔
東光寺(江戸袋)観音
東光寺・石幢
東光寺
普門寺(蓮沼)
普門寺・庚申塔(元禄元年・1693)
普門寺・庚申塔(正徳二年・1712)
普門寺・庚申塔(寛延三年・1750)
普門寺・庚申塔(安永六年・1777)
普門寺・庚申塔(文化元年・1804)
普門寺・庚申塔(天保五年・1834)