おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

確かにやめる先生っているよな

2024-04-22 20:37:49 | Weblog

 でも、それって若者の特権なのじゃないですか。そろそろミドルで、「最近の・・は」なんてフレーズが身についてきたのかな笑

自治体退職者10年で2倍 目立つ若手、待遇不満も(共同通信)

 このような記事もよく見かけますね。このデータ、あなたならどう読み解きますか。グラフの読み取り、最近の小学校では必要とされているOECDのいうところの「読解力」ですよね。

 僕もあまり読解力はないので「感想だけ」伝えます。
データには教職員は入っていないはずですね。この記事を読んで、他者への奉仕(全体への奉仕者)や公共という意識はその事を担う根本的な価値を持っていないと「奉仕を受ける権利」「公共のサービス」という側面しか見えなくなり「全体へ奉仕や公共の仕事」を行うことに若者の「生きがいは」は生まれ来ないかもしれない、と思いました。

 教師という仕事も、やればやるだけ時間がかかる仕事で、時には時間を忘れて没頭しなくてはならないことがあります。ただそれが常態化するかどうかは個々の力量や立場も影響しているようにも思います。

  教師の世界にも働き方改革が適用され、時間外勤務の制限が大幅に厳しくなり、管理職は管理実績を上げるためかその遂行を機械的に指示することだってあるはずだと思います。

 さらに勤務時間というより残業のない時間での業務の遂行が求められていきます。国の「働き方改革」が「施策」ですからね。法律に基づいて勤務し賃金を得なくてはならないので、ひょっとしたら、一旦帰宅してから学校に戻り生徒指導事象がおこってから対応するという事態がおこるかも知れませんね。政策を政治家が作っているように思ってるようですが、実際は官僚が作っているから、どの政党が政権を取ってもそれほど変わらないのが日本の政府だということはあなたも知っている通りです。

 すでに「育児休暇(夫婦とも)や育児保障のための軽減措置」を「管理職やそれに準じる主任」にもとることができるずです。昭和の時代に40人の学級で先生していた僕なんかには想像もできないほどの条件緩和ですね。4%の残業代も10パーセントになるとか。昔と比べたらいけないですよね。

 でも、一般の会社なら「営業部長や営業課長」がそうしたことができるのでしょうかね。また「先生は優遇されている」といわれるのでしょうかね。僕はむしろ先生たちがバッシングされないかということの方を心配します。意外と保護者との乖離はこうしたお互いが「おかれた立場を理解できにくくしている関係」から始まることが多いということも知っておいてください。
 
 「教師の常識は世間の非常識」といわれたほど「世の中の人が置かれている状況」を理解できず自分の教師になるまでの経験と学歴だけで「リスペクト」されることが当然だと思い込んでいた先輩たちも見てきましたし、何も言わないけどみんなから「リスペクトされる先輩」もみてきました。

 今まで一人が10の仕事を受け負っていたのに8でいいといわれたら全部で40の仕事は4人ではなく5人必要になります。一人が10の仕事ができていても4人なのですが、もし一人が7の仕事しか請け負えない人がいた時どうしていたか、4人しかいなければ「誰か」が「黙って足りない分を受け持つ」という美学を持つ先輩が「昭和」の時代にはいました。「機械的な平等論」「一律の負担軽減論」ではなく、「やくざ映画でよく見たことのある美学」に近いものだったのかもしれません。 

 だから学校が人手不足になるのは当然のように思います。過重労働を防ぐための改革ですが、生きがいのないサービスを生み出すならやりがいのない仕事に公務員や教員がなるのは当然で、こうした議論を行わず3Kの議論にすり替えるマスコミの論調は少し気になります。

 公務員をすべて民営化するべきだという議論ならまだしも、ですね。公共サービスを担う人たちの生きがい改革、金で解決しようという方向より、やりがい改革を考える時なのではないでしょうか。

 組織のトップの意識改革をするのなら組織の構成員が納得できる方向を示さないでこれが「正しい」と押し付けることはもううんざりですよね。そんなことは今に始まったことではないようにも思います。学校という組織だけでもないし先生の世界だから許してはいけないことではなく、組織というものが持つ構造的な「必要悪」みたいなものだと思ってきました。伝える人との人間関係で構成する人たちの印象も変わります。

 アメリカではこうした印象操作まで大統領になるためには必要だといわれていますよね。アピールしたもの勝ちの世界は日本人には馴染まないものなのかも知れませんね。

 ひょっとしたらそんなことを考えない公共サービスロボットの業務にすり替えて人員整理をするための前段階かもしれません。たわごとです笑

 もっと金さえくれればもっと頑張れるという先生もいるけど「何で」「どれだけ」頑張るのかを親や子どもたちに示す「実力」があるらしいので、そうした方たちの「評価」こそ、むしろロボットの出番ですね。

 あなたは人間的魅力も実力もない管理職はいやだ声も出さずに負けていいのかな?

 そんな若い先生が増えていくと、生成AIを活用した都道府県の教職員の勤務評価ルールに基づき数値化された客観的教員の業務評価の導入がおこなわれるなんてこともあるかもしれません笑

 現場を知らない研究者の先生が「ロボットによる教員の客観的評価制度と賃金への反映」というテーマとして面白いの論文を書けば科研費がとれるかもしれません。発表しても相手にしなければいいのですが、もしそれが、真面目に教授を目指す大学の若手研究家や一流大学の看板を背負った教育学や教育工学、教育経営学という専門分野の高名な学者さんだったら?冷や汗が出ます。

 今から思えば、僕は幸いなことに、人情味溢れる(溢れすぎて、ときには、暑苦しかった😀)先輩と自立した後輩たちに恵まれたから、先生という仕事が楽しかったのかもしれませんね。まだ、こうして毒をはいてます。

 あなたの問いである、やりがいがいつから「生きがい」になったのかは分かりませんが、結局は人との出会いなのかもしれません。
 
 あなたの言うように古い「師弟観」なのだと思います🎵だけど、誰がをリスペクトできるって人生を明るくしてくれますよね。もしだれかがリスペクトしてくれたら、もっとワクワクしてしまいます。子どもたちがリスペクトしてくれる、親たちかリスペクトしてくれているということの実感はある意味で教師という仕事の醍醐味でもあり、一度知ってしまうとそうあり続ける原動力でもあったように思います。

 周りの先生なんかどうでも良かった😀だって周りの先生でもリスペクトできない人もたくさんいたから。管理職の先生なんか仕事で本音が話せないのは可哀想だとさえ思ってました。
 
 管理職でも先輩でも、「令和」だから質が落ちたのではなく、仕事への向き合い方は「昭和」も「令和」もそれほど変わらないと思いますよ。


 まして採用倍率は関係ないからね😃

 ただ声を出せばこちらがやられる可能性があったのが「昭和」、タブーを守り従順であることが求められた時代だったから「覚悟」(ある意味での仕事を辞める決意)と「力量」がないと声が出せなかっただけ。

現場の声が上に聞こえないのは昔も今も官公庁の仕来たりみたいなもの。織田さんが映画で「事件は現場でおこる」って叫ぶ場面カッコいいと思ってました。でも、こんなのやったら万年ヒラだなとも。

 今は令和、よほどのことをしない限り辞めさせられることもないしハラスメント委員会も機能しているかどうかは別にして、間違いなくあるし。
 
 なのに今もそうした悪習に怯える子羊たちが群れをなしているのかな😀

なんかちがうよね🎵したたかに😀ですよ。

「みんなが言っている」「なぜ自分だけ・・」

せつかく受かったのにやめるのはもったいないよねって話です。

 今よりも月給がよくって、今よりも福利厚生がよくって、どうしても「あなた」が必要(欲しい)といわれたのならそれもありだし、その仕事にやりがいや生きがいを感じられる自信があるのなら別に止める気はないよ。

 ただ、自分が「にげてる」とか「〇〇にまけた」「誰 誰が悪い」なんて理由で思ってるのはカッコ悪いと思ってるだけです、昭和ですから笑
 
「働き方は厚生労働省」の管轄、「教員の働き方」は文部科学省、なら「子どもたちが生きがいを感じる働き方」は「どこの省庁」が担っているのでしょうね。

 縦割り行政を批判する学校の先生も「縦割り集団の育成」や「教科担任制」という縦型構造だけに頼っていると、なんて考えるのは年寄りの冷や水ですね。

 縦も横も斜めもクロスして考えてきたから「先生」と呼んでもらってきたってこと忘れてるんだろうね。

少し前(R3)に調べた時、
教員の離職率は
20代: 約5.2%
30代: 約2.6%
40代: 約1.6%
50代: 約0.8%
でした。
公務員は
20代:5.5%
30代:4.1% 
40代:1.6% 
50代:1.3%
一般は 少し元の資料が違うので正確ではない(非正規雇用も含まれているかは不明確)けど
20~29歳 :6.3%
30~39歳 :0.7%

こうした数値からだけだと「若い時は離職する」ということは読み取れてもなぜ辞めるかはわかりにくい。
 
 「上司の圧がきつい」とか「同僚とうまくいっていない」とかじゃなくて「サービス業なんてやりたくない」という「他者と関わる仕事への違避感」がなんとなく見えている資料はあるのだけど。

 もし、そうなら、仕事の求めるものと「あなた」の求めるものとが違うわけだから、むしろ早い段階での転職が周りのためにも、あなたのためにもいいかもしれない。

 確かに教育の場では、職業への情熱と使命感という言葉もよく聞きます。採用試験で小論文でよく出てきますから、でも使命感も情熱も「ベクトル」を間違ったり見失ったりすると子どもにとっては厄介なものになるのです。

 性善説の親たちは子供たちの成長と学習に貢献したいという強い使命感を先生は必ず持っていると勘違いするし、学校で出会うかもしれない高倍率の就職氷河期を乗り越えた官僚的な管理職はこうした職業的意識をプロ意識と混同し強要したり期待したりすることだってあるのです。

 情熱は、教育現場での長期的なキャリアを支える一つですが「教師という職業」に幻滅と幻想を抱くとすぐに消えてしまいます。「リアル」を先生になる学生に教えられないで、採用試験の模範解答となる「理想の教師像」しか伝えられないなら「教員育成大学」なんて不必要で、インターンシップで学校現場に行った方がいい。そこで事前に「あなた」が耐えられるかどうか確かめるべきだったと思います。

 安定性と給与は間違いなく教師という職業の魅力の一つです。特に、公立学校の教員は給与や福利厚生が整っています。このことに気づいた若い先生は意外とやめないのです。
 年休がとりにくいとか、サポートが少ないとかいろいろ言いますが、ちゃっかり海外旅行ができるぐらいのことは、今でも可能なのです。
 たしかにバブルの時、同世代が信じられないほどの給与だったので羨望したことはありました。でも同世代の勤めた証券会社はバブル後倒産しましたが、日本国はまだ倒産していません。若干危なくなっているのは事実だとしても、まだあなたが定年退職になるまではあるはずです。

 仕事のサポートを無料で受けるシステムはあります。それを使うか使わないかも自分で判断できます。最低限度の教師であるためのノウハウは必要ですが、それがあったから採用試験には受かったはずです。
 倍率は時代の要請でたいしたことではありません。駅前の英会話教室に通う一般企業の会社員は「海外で働くために自費で通う人」もいれば「より高みの仕事を目指すためやスキルとして自費」で通います。
 「忙しいから」「代わりにクラスを持ってもらう人がいないから」「興味がない研修」「強制されるのは嫌い」と「自らの権利を義務と混同して放棄していると」当然子どもたちは「教育を受ける権利」を、親たちは「教育を受けさせる義務」を混同してしまうことだってありうるのです。
 世界にどれだけの子どもが「教育を受けたいのに受けられない」でいるのかが頭ではわかっていても理解できない先生になっていませんか。
 教員のプロフェッショナルな成長をサポートするプログラムやリソースを提供されていても自己成長を実現できないとしたら、その要因を探ることも必要ですよね

 学校という先生のコミュニティでは同僚のサポートが必ずしもあるとは限りません。大人ですから同僚と協力し、学校のコミュニティで支え合ってはいます。
 でもそうした良好な職場環境を作る努力をせずに、自らの要求だけを優先するなら、自立した大人として同僚は認めるでしょうか?
 あなたがリスペクトしない同僚はあなたを当然リスペクトしてくれません。
 立場や利害関係だけでの批判や不満は、相手にも不満感やストレスを生み出します。
 だからといって言いたいことも言わず、無視すれば「しかと」をいじめだと理解できない子どもたちと同じですよね。
 ベテランたちは「職員室のあなた」が「教室のあなた」であることを知っているのかもしれません、安らぐことが必要なので「子どもたちのいる教室」の方が安心できるのだろうと。

 子どもとの関係はいいに越したことはありませんが、あなたが与えたいと思っているサービスと子どもたちが学びたいと思っていことがすれ違うと教室は「沈黙の場」になります。
 優しい子どもたちはあなたの与える素晴らしい授業という時間に「沈黙」というマントを着て、その時間の過ぎることを待つことだってあるのです。
 コンピュータの与えてくれる知識や進学のために親たちが高い授業料を払ってくれる塾の先生のおかげで、あなたのサービスが評価されることだってあるのです。
 あなたが「本音」で接しているかどうかを子どもたちは見抜く力があると僕らは先輩から教えられてきましたが、そんな言葉は学力修得だけしか見えない先生には馬の耳に念仏だったのでしょうね。
 成長はテストの点でしか見られない、ですか。もしあなたが公立学校の先生なら、学力テストを批判する前にテストの点を上乗せできたとい事実を示さないと誰もあなたの言葉に賛同しなくなりますよ。

 政治に関心もなく施策や政策についての知識がなく「社会」という教科を教えている先生はいないと思いますが、教育制度の改革や政策の変化は時代とともに常に行われています。
 新聞を読む時間もないほど教科のカリキュラム消化のための素材探しのための時間を教材研究と主張するなら、どれだけの授業時間と教材研究の時間が「あなた」に必要なのかを「あなた」が子どもたちや親に示し「納得」させなければならない時代になっていると思います。
 医師ですら治療のために伝えることに対する「エビデンス」が要求される時代なのだといいます。

 「専科」なら簡単なことだと思いますが「専科」以外の教科も持たなくてはならない小学校の先生は本当に大変ですね。単純に持っている免許があるからとか「全科」の免許を持っているからとかいう理由で「専科」を持たされるならやめた方がましだとか言うことができる先生がいることや「専科」をもてない先生がいたり持てる先生がいなくて「講師」や「2級免許修得者」で穴埋めなんてことを考えるとそれが「ブラック」といわれる「正規雇用者と臨時雇用者との格差」を生んでいるんだなんてことに気づけない偉い人たちがいるのかもしれませんね。
 
 結局、先生たちも 子どもも、親も、偉い人たちもマスコミもみんなが、学校や先生を「奉仕だけすればいいもの」にしてしまったことが本来の学校が担うべき任務を提供できない状況に追い込んでしまっているように思います。

誰のせいだと犯人捜しをせずに、みんなで何ができるかを考えるのが「令和の日本型教育」のはずですよね。


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