”スローライフ滋賀” 

【身近な昔探訪】第255回・東近江御代参街道・本町通りの伸和電器商会


御代参街道入り口(北側)付近の伸和電器商会

 元「伸和電器商会」こと現在「Sテックしんわ」(東近江市八日市本町2−9)は昭和43年(1968年)に創業。現在は近江八幡店、能登川店の3店舗である。

 昭和43年に新しく開業した「伸和電器商会」が今の場所で開業していたとすれば「元山路屋乳母車おもちゃ店」があった場所である。新しいと言っても既に53年前になる。

【身近な昔探訪】第145回・東近江・御代参街道(本町通り)の「山路屋」おもちゃ乳母車店
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/a681298f6fac17cac7c062ef36555efc

 昔、ミドリ電化?という電気店がこの付近にあったとも聞くが伸和電器との関係があるのか定かでない。
直ぐ近くに昔から西村電気はあるが現在は閉業している模様。

コメント一覧

Unknown
藤井毛糸店、畑自転車のあたりで道は西に
昔は藤井毛糸店、畑自転車のあたりで道は西に続いていて市場のようになっていたと思うと書いたが、そのことを覚えている人に出会ったので道と店の存在は確認できたと思う。ただし「市場が今のアピア北に移って、元の市場はなくなって閉じられたのではないかと思う」という類推は、そうではないと思うと言われた。

とにかく細い道であったらしい。親玉の向かって左に3-4尺の抜け道のような隙間があるが、その程度の幅の道だったと思うと言われた。新地の方まで続いていたとも・・・?
Unknown
畑自転車
畑自転車。昭和56年のゼンリン住宅地図にて確認済。
Unknown
国華商会?あるいは畑自転車?
自転車屋はあちこちに結構多くあったが、本町通りにあったのは1軒だけだったように思う。名前を国華商会としたが、畑自転車だったかもしれない。あるいは商店名が国華商会で経営者名が畑だったのかもしれない。
Unknown
市宮神社でなくて
市宮神社でなくて市神神社。ただし、通称は市宮さんだったと記憶。今もやっているのか、七夕飾りを奉納する習慣があったと思う。2月3日の伊勢大神楽のイベントはなくなったと聞くのが残念。2月1日の御河辺さん/河桁御河辺神社は一時期、日曜開催になったが、元の2月1日の決まりに戻ったのは喜ばしい。
Unknown
ターゲットを絞らないと無限地獄ですな
駅豆どっ理→駅前通り

そうそう、ここには木造3階建ての高木医院(耳鼻咽喉科だったように思う、後に高木テレビ商会→現図書館裏に移転。近くには今飲み屋になっている山口外科(その前は・・・書かない)や小沢医院(今のアピアの角、その西が商工会議所ビル、前が家庭裁判所、北が後にカネトラのボーリング場、カネトラは元々佐野屋肉店の前にあって、(後に計算機センター)フードセンターで儲かったのか、400mリンクの名神八日市スケート場?など多角経営。家は今の二橋商店のあたりでイケダ散髪の前だった。
 
チョトだけ細く、否、補足
ご存知だと思うがABCも2つあった。大阪チェーンの南側のABC菓子店と、今もあるABC食堂(グリルABC、戦時中は翼食堂だったと聞く)の2つ。戦時中と書いたので、蛇足だが今のイケダ散髪店を裏から見ると、往時の「すし米」半分が見られる(道路拡幅で半分に)(すし米は緑町海老長旅館(元本町通り北出口)の近くに移転)。すし米では三船敏郎が酔っ払って周囲を走り回っていたと聞く。他にも芥川也寸志も八日市飛行場の整備兵だったそうだし、不確かだがフランク永井もいたと聞いたことがあるがこれは確実ではない。昭和29年だった鶴田浩二らの「雲ながるる果てに」が八日市飛行場後で撮影された縁か、音楽を担当している。最近、カラー化されたものがYouTubuで視聴可能なのを知った。モノクロは有料みたい。

海老長は宝くじ売り場があって高額当選者が何回か出たようだ。駅豆どっ理に出たところに、高さ1.2mほどのバラックの靴屋があって、売春斡旋で捕まったと聞いたが確認が必要。南側の出口(荒松)では年末に子どもたちがふなご(ウラジロ)などを売っていた。大昔は陸軍関連で筏川閉じられるまで、ここは大橋と呼ばれていたと聞く。そして東に伸びる金屋大通りにも、バラックよりマシな木造長屋の商店が連なっていて、古着屋などがあった。これに立ち退きには大変だったように思う。

関西電力は今は緑町だが、元は瓢箪小路(野々宮神社北)から昭和堂楽器付近、たねやのあたりは県事務所。いくらでも書けるが深夜ゆえ、そろそろ寝たほうがいいので、ここまでと致しまする。チョトだけ細く、否、補足のつもりが少し長くなり、恐縮。
   
曖昧な記憶
ミドリ電化かみどりやか、カネトラフードセンター前でダンボール山積みで入っていくと狭い空間があって裸電球の下に店の人がいた。斜め前はライオン写真館?で空き家のような感じだった。フタミヤは本町通りに2つあって、ミドリ電化?の横(北側)がフタミヤ洋品店?その次が川副(洋品店か履物店)。ずっと南に移って、いたや旅館(大きな柱時計)市宮の北に移転した跡でヒカリヤ開業(前がいそべ魚屋)、その南側がフタミヤ本店。

市宮神社から西進する道はメトロ菓子店で終わりのように見えるが、昔は藤井毛糸店?国華商会?(自転車屋)に突き当たるが、このあたりは道が西に続いていて市場になっていたと思う。市場が今のアピア北に移って、元の市場はなくなって閉じられたのではないかと思うが、よくわからない。

ずっと後の昭和50年ごろの情景は姫野カオルコの「特急こだま東海道線を走る 」の短編の一つに描写があったと思う。天輪焼があった頃(向かいは柴田帽子店−細い道-大阪チェ-ンの最後期、後にアックアラカツに)の描写だったと思う。天輪焼より先にメトロ(木村)菓子店が似た商品を売っていた。(メトロは出目又-後に山岸鶏肉店?と山崎洋品店?の間、つまりメトロは三方が道に面していた、その北側の道で「しばらく」を売っていた時期がある。この家族は世界的に有名なデザイナーの秘書だったと聞いたことがあるが確かめてはいない。

姫野カオルコの自宅は広島外科の前辺り、福音教会の近くだったとおもう。聞くところによると、一時期、電車の中に住んでいた。古い電車を家代わりにしていたとも聞く。面白い事に、姫野カオルコは八日市との縁をあまり表に出さないようにしていると思う。ただし、「特急こだま東海道線を走る 」の一編はABC食堂の〇〇ちゃんの話だし・・・。(姫野カオルコには(赤瀬川原平らの超芸術)トマソンの舞台となった白夜書房の怪しい雑誌「写真時代」に関係していたという点で敬服している)

クローバー美容室を東進すると甘党の店を通り過ぎて、チチブヤの前に10円マーケットがあった。

いくらでも書けるけど今宵はここまで。
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