Photo散歩

気ままに写真を撮り歩きます

ハス博士 阪本祐二氏について

2020年07月18日 | 

修景池続きです

今日の記事は少し長くなります

お時間がありましたらお読みください

舞妃蓮の作者阪本祐二博士についてです

 

ここでは大賀ハスの両サイドを阪本祐二氏が手掛けた舞妃蓮と紅舞妃蓮が守るように植栽されてます

(大賀博士の塑像の前には一番大きな大賀ハスのマスもあるがそれとは別に)

 

紅舞妃蓮(べにまいひれん)
昭和45年に、阪本祐二氏のもとにあった舞妃蓮と中国産紅系蓮の自然交配によってできた品種のようです。

 

咲き出しから撮ってみました

7月8日

11日

13日

 

16日

 

紅舞妃蓮は修景池の中央の一番良い場所にある

この池がいつ作られたか知らないが最初からあったのかな?

 

 

なぜか紅舞妃の左隣に接して超八重咲きの妙蓮と千弁蓮のマスがある

妙蓮(みょうれん)
千弁咲
花弁の数が1000枚以上になる、珍しい蓮です。茎が曲がってしまうほど花が重くなります。
近江妙蓮公園の近江妙蓮は天然記念物指定されているようです。

 

ここでは花をまだ見たことがない

 

 

妙蓮の左にある

千弁蓮(せんべんれん)
千弁咲
花弁の枚数が3000枚になるといわれます。
綺麗に開花させるためには人が花弁を開いてあげる手助けが必要な蓮です

これもここでは花を見たことがない

 

 

千弁連の左に昨日書いた中尊寺蓮がある

 

 

以下は御坊市のホームページを引用しました

「ハス博士」

阪本 祐二

 2000年の眠りから覚めて、現代に美しい花を咲かせる大賀ハス。
 古代のロマンを誘う花を恩師から託され、その品種保存に努め大賀ハスで国際交流を図るとともに、新たな品種を作り出すなど、「ハス博士」として知られる阪本祐二。ハス研究に一途なまでの気概を持って、恩師大賀一郎氏の名誉を命をかけて守り通した人生でもありました。
 阪本は大正14年(1925)12月28日、日高郡藤田村吉田(現御坊市藤田町吉田)で、父義一と母徳枝の間に男2人、女4人兄弟の2男として生まれました。
 幼い頃の夏の夜、家の近くにある道成寺で開かれる十七夜。参詣者でにぎわう境内で、本堂の前のハス池に、灯影に映えて林立する大きくふくらんだ蕾が、幼心に印象的だったというのが阪本とハスの最初の出会いです。
 藤田村尋常小学校から和歌山県立日高中学校を卒業後、昭和18年4月に御坊小学校助教員となりますが、翌年に入隊。終戦を迎えて焼野原の東京に復員して、東京農林専門学校(現東京農工大学)に学び、大賀一郎博士に師事しハスについて教わったのが、阪本とハスの関わりを一生のものにした、ハスとの2度目の出会いでした。大賀博士とは、同氏が亡くなる昭和40年まで、阪本の結婚、息子たちの命名など公私にわたって深い親交が続きます。大賀博士にとって阪本は愛弟子であると同時に、誠実で思慮深く、研究熱心な阪本の人柄に惚れ込んで、自分の人生最大の研究を託すにふさわしい男と見込んでいたようでした。 
東京での学業を終えて昭和23年4月、阪本は故郷に戻り印南中学校の教壇に立つことになります。翌24年には御坊中学校、26年には日高高等学校へ生物科教諭として赴任。学生たちと熱く語り合い、人生哲学を話してくれる阪本の授業は、絶大な人気と信頼を集めました。
 「人生の岐路に立った時、阪本先生の言葉を思い起こして勇気づけられ、決断できた。」
と語る人もいます。
 そうして教師として勤める一方、阪本は恩師から託されたハスの研究に没頭していきます。阪本が帰郷した頃、大賀博士は千葉県滑川(なめがわ)から出土した須恵器(すえき)の中に入っていた、推定1200年前のハスの種子一粒を発芽させることに成功していました。このことは大賀博士の持論、「ハスの種子は条件さえ整えば、1000年~2000年の保存は可能である」をまさに証明するものでしたが、このハスは栽培管理の失敗により枯れてしまいました。博士は悲嘆にくれたものの、古蓮実発芽の夢が捨てきれず、多くの協力者を得て千葉市検見川で発掘を試みることになりました。苦心惨憺の末、三粒の種子を発見し、翌昭和二十七年にその中の一つを発芽開花させることに成功しました。発掘された種子は、当時の最先端技術であった放射性同位元素や、地層学的な研究から三千年前のものであると推定されました。
 大賀ハスと命名された古代ハスですが、高齢の大賀博士にとって、その品種保存と以後の研究は愛弟子の阪本に託すことになります。
昭和36年、阪本は大賀ハスを分根されることになり、翌年、美浜町三尾と自宅前に造られたハス池に植え込まれます。世界的な注目を集める大賀ハスが、和歌山県の小さな市の1軒の庭先で大切に育てられることになったのです。
 ハスは条件によって育てにくい植物で、自然環境や水温、肥料の量などにより成育が左右されます。また、他種と混ざって純粋種を保存し続ける苦労も大きいのです。阪本は日々の生活の中で片時も、ハスから心を離すことができなくなりました。そして、大賀ハスの品種保存を続けながら、大阪で開かれた万国博覧会や和歌山城内、国内の各地に広める一方で、平和の象徴ハスを通して中国、韓国、インド、アメリカなどとの国際交流にも多大な役割を果たしました。
 さらに、大賀ハスを他種と交配させて新しい品種を作り出す研究も重ね、中でも天皇が皇太子時代にアメリカから持ち帰った黄花ハスと掛け合わせた「舞妃蓮(まいひれん)」は、東宮御所に献上され「皇太子と皇太子妃両殿下ゆかりの花。日米友好の花」と、全国の新聞紙上を沸かせるニュースになりました。
 ところがこの頃、学会の一部から大賀ハスを真っ向から否定する論文が出されました。大賀博士は、大賀ハスについての学術論文を書いていませんでした。それで学会の一部にはそれに対する疑問がくすぶっていて、大賀博士が亡くなったのをさかいに、一気に燃え上がったのです。そのため、阪本は大賀ハスを擁護すべく、最前線に立って戦いました。論争の場は、学会誌や植物雑誌、新聞紙上と移り変わりましたが、決め手に欠けるため、なかなか決着がつきませんでした。しかし阪本はこつこつと研究を重ね、ついに花粉四分子の比率にその証拠を発見し、長い論争に幕を下ろしたのでした。
 その証拠をまとめたレポートを花粉学会で発表し、恩師から託された大賀ハスの名誉を守るという大役を果たしたその1ヵ月後、阪本は急性心不全で帰らぬ人となりました。享年54歳。昭和54年12月29日、奇しくも誕生日の翌朝でした。
 阪本の功績には、勲五等瑞宝章、和歌山県文化功労賞をはじめ、各国からも多くの感謝状が贈られています。

 

最後までご覧いただきありがとうございます。

 


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