カメラを片手に

平城京跡のサクラは

晴天の今朝は3.8℃迄冷え込んだ奈良、暖房器具にさっと手が伸びました。
朝のルーチンワークを済ませれば、洗濯日和ですのでベッド周りもほり込み
一回目、二回目は連れ合いがオシャレ着洗いをするので、我の冬着も。
なお最高気温は20℃と予報されている。
      10時半、13.0℃、44%

さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はバラ科の「ヤマザクラ・山桜
      

日本固有種、自生する10種or11種あるサクラ属の基本野生種の一つ、品種は
「オオシマザクラ大島桜」「オオヤマザクラ大山桜」「カスミザクラ霞桜」等、

サクラの語源としては不詳とされているが、多数ある説の内の一つとして
古来からアニミズム・植物礼拝の一種、「穀霊(こくれい)」の宿る花から
・さ(穀霊)+くら(磐座)の意=さくら(”稲・農耕”の神様が宿る木)

関連するものとして
・古事記に記載の「木花咲耶姫・このはなさくやこのひめ」=桜の霊で、富士山
 から 最初の桜の種を蒔かれたとされ、木花咲耶姫と桜を見て
 「この花(桜)のように美しい姫」の名前の一部「さくや」が転訛したとも 
 
花言葉は、山の中でひっそり咲く姿を見て「あなたにほほえむ
      2023.4.6円成寺

遠く霞む、東の春日奥山にもサクラ色が増えている。

奈良時代、若草山は芝が出ておらず、木々に覆われていたのでは?
このようになったのは山焼きが始まった江戸時代のようです。
342mの頂上三重目に鶯塚古墳(前方後円墳)があり、このお墓から幽霊が出
て人々を恐がらせるけれど山を焼くと幽霊が出なくなり、翌年1月頃までに山
を焼かなければ、望ましくないことが起こるらしい、などの迷信が長く続き、
この山を通る人が勝手に火をつけるようになったといわれていた。
そして東大寺境内に火が迫る事件が再三起こり、1738年12月に奈良奉行所は
若草山に放火禁止の立て札を立てた。
だがその後も誰ともわからないまま放火は続いたため、江戸時代末期頃に
若草山に隣接する東大寺・興福寺と奈良奉行所が立ち会って山を焼くように
なり、霊魂を鎮めるための祭礼が現在の1月第三日曜日に実施されている
「若草山焼き」になり、芝が広がっているのです。

平城京跡の満開のサクラ、ソメイヨシノはなく、花といえば奈良時代は「梅」
今の春日奥山のように山桜がみられたのでしょう。

花曇りの4月6日、佐保川堤の桜を堪能した後、平城京跡の桜も・・・
東院庭園から西、建部門越しに朱雀門も、そして遠くに生駒山が望まれる。
第二次大極殿院跡、元回廊跡の周囲にサクラが植えられている。






2010年に再建された第一次大極殿と再建中の大極殿院・東楼建屋です。
      



第一次大極殿は、740年に恭仁宮へと移設され、その後山城国分寺・金堂に
なったが、平安時代初めには焼失したと・・・

745年の都が恭仁京から平城京へと戻ったおりの大極殿跡です。
それを今は第二次大極殿跡と呼び、基壇のみ再建されている。

宮内省跡を背景に

遠くに若草山の麓に、東大寺大仏殿と二月堂が・・・



古の人たちも、山桜のこんな景色を眺めていたのでしょうか?
平城京跡は今は閑に、四季それぞれの景色を見せてくれる。

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