多摩爺の「時のつれづれ(如月の31)」
迷惑動画が後を絶たない。
大手の回転鮨チェーン店で、迷惑(犯罪)動画の投稿が後を絶たない。
その大半は、いわゆる愉快犯が起こした、未熟者の悪ふざけだが、
悪ふざけでは済まないような、除菌スプレーを商品(食品)に噴射するといった、
お客様の健康に支障を来す可能性がある・・・ とても看過できない犯罪があったようである。
百歩譲って(譲りたくはないが)、湯飲みや割り箸を舐めるだけなら、店舗に迷惑をかけるだけで、
刑事事件として訴えられても、おそらく民事訴訟での決着が、落としどころになると思われるが、
食べ物に除菌スプレーをかけたら・・・ それはもう化学兵器の使用と同等であって、
例え当事者が未成年であろうとも、今後の人生を左右するぐらいの、厳しい罰があるかもしれない。
こういった迷惑(犯罪)動画が後を絶たないのは・・・ なぜだろうか?
いったいどうしたら、悪ふざけがなくなるのだろうか?
つらつら考えてみると・・・ ある仮説に至った。
あくまでも個人的な主観なので、爺さんの戯言として読んでいただければありがたいのだが、
情報過多に陥った社会において・・・ 本来、利用するサイドが持っているはずの、
情報を取捨選択する基準や、規範とすべき知的レベルと精神レベルが、成長し成熟するよりも前に、
技術の革新と、アプリの開発が・・・ 先攻していたのではなかろうか。
もう少しひらたく言えば、社会生活の中で広く一般化されていたはずの、
倫理とか道徳とかといった言葉で代弁される行動規範が、
法律とは違った意味での・・・ 善悪や正邪といった常識として身についておらず、
思考がないまま、指先の反応に日常を任せている世代を中心に、いま一つ理解されてないんだと思う。
もはや、スマートフォンを使って、SNSを操るのは・・・ 生活の一部であって、
そこに、善悪だとか、正邪だとかといった思考は、まず持って見当たらない。
人がやっていたことだから、自分も・・・ といった思考で、悪気がないまま羽目を外すと、
そこには、とんでもない落とし穴が待ち受けていたんだと思う。
時代が求めた、技術とコミュニケーションの進化に、
思考が追いつていてない者が・・・ 若干数いるということなんだと思うが、
だからといって、迷惑(犯罪)動画を投稿した者の肩を持って、庇うつもりはないし、
悪さをしてしまった者に、免罪符を与えたいとも思っていない。
技術の進化や、興味を引くアプリに責任があるわけじゃなく、
あるのは・・・ ことの善悪が分らなかった、己の未熟さだけであって、
その責任は途轍もなく大きくて、堪えがたいものになるだろう。
ついでに言えば・・・ こういった迷惑動画の投稿だけに止まらず、
どこの誰か、顔が見えないことを利用して・・・ SNSでの論争に参戦して煽るもんだから、
どうでも良かったはずの小火で、燻っていた火に勢いがつき、
無用の大火にしてしまうこともあり・・・ 事態はけっこう深刻かもしれない。
知ったげに能書きを垂れてしまったが、
あくまでも個人的な思いであり、偉そうなことをいうつもりはないものの、
なんとなく・・・ そんな気がしないでもない。
そして、その一端を担ったのが、インターネットと、スマートフォンの普及に加えて、
SNSといった・・・ 新たなコミュニケーションツールが生まれたことだろう。
24~5年前のiモードから始まり、
14~5年前のiphonが牽引したことを踏まえれば、
すでに20年の歳月がながれており、おそらくいまが・・・ 過渡期なんだと思う。
話しが横道に逸れるかもしれないが・・・ 戦後、この国が新たな価値観に触れ、
それが当たり前になるまでに、20年程度の歳月を要した前例もあり、
あと数年も経てば、Z世代の知的レベルと精神的レベルが、成長期から成熟期に至ることから
社会との調和に努めた、新たなルールを作り出してくれるのではなかろうか?
若者の双肩に、大きな期待を寄せ過ぎるのも、いささか可哀想だと思いもするが、
新陳代謝というか、世代交代は・・・ 避けては通れぬ世の常だから、
楽観的かもしれないが・・・ あみん(私、待つわ。)の歌にあるように、
いましばらく、もうしばらく、静観するしかないだろう。
閑話休題
なに気に振り返ってみれば、
私が社会人(サラリーマン)になったころ、社会は人・物・金を中心に回っていたが、
昭和60年代に入ったころから・・・ 当時はまだ、ピンと来てなかったが、
人・物・金に、情報が加えられるようになってきたと記憶している。
全くもって自然の流れだと思うが・・・ 想定外だったのは、
人・物・金は、いまも昔もビジネスの社会で特有の、必須ファクターだが、
情報に関して、その取得に至るツールは、老若男女を問わずシームレスになっていることに気づく。
おそらく、さまざまな分野で、新たなビジネスが出てくるときは、
「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ・・・」の勢いで臨むはずだから、
いまさら20年前に戻って、やり直しというわけにはいかないものの、
ここで立ち止まって、システムの盲点を問うには、良いタイミングだったのかもしれない。
公衆電話に並んだり、ポケベルを持たされいた時代が逆に良かったのかもしれませんね。個人情報って何?って言う時代でしたから。
仰る通りかもしれませんね。
でも時代は進化し続けて、便利を求めていますので、ついていくのは大変ですが、流れには逆らえないようです。
また、マイナカードで個人情報を気にされる方も多いようですが、
私的にはあるコミュニケーションツールの、友達追加の方を心配しています。
心配にしなきゃならないところは、心配にならないところにあると思っています。
もちろんです。
分別がつかない幼児か、認知症の老人でない限り、
やったことに対して、責任がついてくるのは法治国家としては当然だと思います。