つらつら日暮らし

蓮如上人『盂蘭盆御文』参究

蓮如上人の『帖外御文』になるのだろうか?『盂蘭盆御文』と呼ばれる一節を今日は学んでおきたい。

 文明十〈戊戌〉年七月盂蘭盆会の消息に云く、〈中略〉柴の庵に昨日今日と打すき行ほどにはや盂蘭盆になりにけり。之によりて無常を観ずるに誠に以て夢幻の如し。然して今日までもいかなる病苦にもとりあはず。されども又いかなる死の縁にあひなんすらん。今日無為なればとて、あすもしらざる人間なれば、ただ水上の泡、風の前の灯ににたり。この故に仁倫の身としては急ても急てもねがふべき者は後生善処の一大事に過たるはなし。
 たとひこの世は栄華にふけり財宝は身にあまるとも无常のあらき風吹き来らば、身命財の三ともに一も我身にそふことあるべからず。この道理を能々分別して後生を深くねがふべし。然るに諸教の修行はもとより殊勝にしてめでたけれども、末代の根機にはかなひかたければ、こゝで幸ひに未来悪世のために起し玉へる弥陀如来の他力本願を一向にたのみ奉りて、信心決定して長時不退に仏恩報恩のために行住坐臥をゑらばず称名念仏申べきものなり、穴賢々々。
    佐々木慧璋編『蓮如上人縁起慧の燈』興教書院・明治26年、107~108頁、見易く改める


さて、この内容からすると、まずは気付いてみたらこの年も盂蘭盆会が来てしまったことを感じつつ、まさに「無常を観じ」て、我が身我が命が夢幻のようなものであるという。更に、これまでは病苦を持つことの無かったこの身であるが、今後どのような「死の縁」が来るかも分からない。今日は無為であるからとしても、明日どうなるかも分からず、その様子は水上の泡、風前の灯火である。

そこで、無常を際立たせて理解させた蓮如上人は、このような身であるからこそ、急いで願うべきことは、後生善処の一大事であるという。これは、今後生まれ変わる場所が良いところであることを願うことを指す。ただし、「後生善処」という言い方は、少し珍しい気がしている。蓮如上人の『御文』を見ると、「後生の一大事」とは良くいわれる気がするのだが、「善処」はどうだろうか?

それから、後半部分は、この世界でどれほどの栄華を誇ったとしても、それは死後まで持って行くことは出来ないのである。そして、様々な教えで説く修行は本来善いものではあるが、末法の世の者には行うことが出来ないので、ただひたすらに阿弥陀如来の他力本願を一筋に頼み、信心を決定して、仏恩報恩のために、称名念仏を行うべきだとするのである。

これを見てみると、盂蘭盆会について直接言及した内容ではなく、毎年来る盂蘭盆会の様子から無常を観じ、急いで阿弥陀仏を頼むべき、という話になるのであった。盂蘭盆会の行事とは、余り関係が無いな・・・

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