つらつら日暮らし

『真宗百通切紙』に於ける盂蘭盆式について

今月は、「盆月」という別称もあるようなので、ここ2年ほど力を入れて書いている戒律関係の記事以外にも、盂蘭盆会関係の記事も書いておきたい。今日は、先日【そもそも「戒名」という用語はいつから使われたのか?(10)】でも紹介した、『真宗百通切紙』から、盂蘭盆式の話を紹介したい。なお、この文献の書誌学的情報は、リンク先の記事をご参照願いたい。

  九十六盂蘭盆式之事〈并灯籠〉
 問ふ、和国の盂蘭盆の法会を始ること何の時より始る耶。
 答ふ、年代中に云、聖武天皇の御宇、天平五年に始る也。
 問ふ、盂蘭盆の法会を何と心得るべき耶。
 答ふ、一夏九旬の廻向満散日也。故に功徳を修するなり。
 問ふ、当流の盂蘭盆式如何。
 答ふ、仏前の荘厳・盛物・灯籠等也。九十ヶ条に云く、七月十四日対夜なり。十五日には日中あり、朝精進なり、これも世間儀なり。よくゝゝ得心あるべきものなり已上。 私云、世間儀とは諸宗通用の儀式と云こゝろ也。所に随て両日共の精進有るべき也。
 問ふ、余宗には生霊棚を致し餅飯茶湯水向等あり。当流に是等なきこゝろ如何。
 答ふ、先づ余宗のこゝろを云べし。七世の父母等来る故に其を供養すと云へり。
 問ふ、七世の父母等来る証拠有りや。
 答ふ、智識、法力を以て三界万霊を勧請せば来る也。目連の母来る、是れ証拠なり。
 問ふ、供養する餅飯等を受用するや。
 答ふ、智識有りて法味法水と廻せば受用するなり。一休の歌に云、山城の瓜と茄子を其の侭に手向となすぞ鴨河の水矣。さて当流になきこゝろは第十一願により弥陀同体のさとりを開く。人何の不足ありて娑婆に来て餅飯を受用せんや。盂蘭盆経を見るに百味五菓等、以て十方自恣の僧供養せば、七世の父母獄苦を免るやときて、七世の父母来るとは説かず。爾ば七世の父母の為に自恣の僧を百味五菓を以て供養する日なり。世の凡愚を見るに生霊を供養するとばかりこゝろえて僧を供養することを知らず。大なる謬なり。
 問ふ、当流の行人も盂蘭盆経を説に相応するや。
 答ふ、経に十方自恣の僧を供養せよと云へり。爾るに十方僧を供養することならされば、我が有縁の頼む寺へ功徳を抛ば、自恣の僧供養に当るなり。尤も盂蘭盆経に相叶へり。
 問ふ、弥陀同体の証を開く人は来るべからず、其の外堕獄の罪人、三界万霊を何ぞ供養を為さざる耶。
 答ふ、南無阿弥陀仏に増を為して手向もなし。〈以下略〉
    『真宗百通切紙』第3冊・12丁表~13丁表、カナをかなにするなど見易く改める


一見して分かるように、内容は日本に於ける盂蘭盆会の歴史的な問題と、真宗に於ける盂蘭盆式の扱いなどである。なお、本書はあくまでも江戸時代初期の浄土真宗本願寺派系統の文献であり、現在の真宗各派でも同様であるかどうかは分からない。拙僧自身、歴史的な一場面を探るつもりでこの記事を書いている。

さて、まず当時の真宗に於ける「盂蘭盆式」であるが、仏前を荘厳し、盛物や灯籠を供えることをいう。また、7月14日・15日にかけて、ちょっとした行事があるようで、「私云」の部分を見ると、この辺は「諸宗通用」であるというから、宗派としての特徴が無いことを意味していよう。

問題はその後である。真宗以外の宗派(余宗)では、生霊棚(精霊棚に同じ)を設け、餅や飯、茶湯や水向(霊前に供えられる水)などを供えるが、真宗ではそれが無いという。その理由について、余宗では盂蘭盆会に因んで「七世の父母」が帰ってくると考えるが、真宗ではそうは考えないという。その根拠として、本書では阿弥陀仏の「第十一願」を挙げている。

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
    『仏説無量寿経』


定聚であるが、「正定聚」のことで、不退転の位になることをいう。つまり、この第十一願とは、浄土に生まれた者は、その国から不退転であり、しかも必ず滅度(さとり)に至るという。ここを、『真宗切紙』では「弥陀同体のさとり」と表現している。よって、浄土から不退転であり、しかも悟りを得ているのだから、七世の父母がこの世界に帰ってくることもないので、「生霊棚」が不要になることをいう。

また、その際に「弥陀同体のさとり」を得ていない人で、堕獄の罪人や三界万霊には何故供養しないのか?という見解に対しては、「南無阿弥陀仏」をただひたすらに唱えることを説き、阿弥陀仏にお任せするということになるのだろう。

なお、途中で『盂蘭盆経』に説く「十方自恣の僧の供養」について言及しているが、本書では、有縁の頼む寺に功徳を抛てば良いという立場だったようである。そもそも「自恣」とは『律』の実践があってこそ意味があるものだと思うのだが、日本では『律』の実践が極めて緩いので、余り意味が無いとし、いわゆる「随方毘尼」として、ただ功徳に関する話をしたというべきか。なお、同宗派に於ける「自恣」の位置付けなどは、また学んでみたい。

以上、簡単ではあるが、『真宗百通切紙』から盂蘭盆式について学んでみた。

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