つらつら日暮らし

三人寄れば●●の智慧?

浄土真宗本願寺中興の祖である蓮如上人がこんなことをいっていたらしい。

一 「愚者三人に智者一人」とて、なにごとも談合すれば面白きことあるぞと、前々住上人(蓮如)、前住上人(実如)へ御申し候ふ。これまた仏法がたにはいよいよ肝要の御金言なりと[云々]。
    『蓮如上人御一代記聞書』


蓮如上人は寄り合いを重視しているので、そういう経験の中から生み出された言葉なのだろう。要するに、愚かな者が三人も集まって話をすれば、智者一人分にはなるということである。俗諺としては、「三人寄れば文殊の知恵」があるけれども、それと同じ事を言っていることになる。

だけれども、浄土真宗の信仰に、文殊菩薩は入っていないはずなので、それで名前が出ていないのだろうか?そもそも、文殊の知恵というのが出来たのが、時代的にもうちょっと後なのだろうか?この記事を書く前にちゃんと調べれば良かった・・・『浄土真宗聖典』を読んでみても、文殊菩薩についての積極的な発言は見られず、それこそ、引用経典中の名前が幾つか見える程度である。

仏法は讃嘆・談合にきはまる。よくよく讃嘆すべきよし仰せられ候ふ。まことに夢想ともいふべきことなりと仰せられ候ひき。しかればその年、ことに讃嘆を肝要と仰せられ候ふ。それにつきて仰せられ候ふは、仏法は一人居て悦ぶ法なり。一人居てさへたふときに、まして二人寄合はばいかほどありがたかるべき。仏法をばただ寄合ひ寄合ひ談合申せのよし仰せられ候ふなり。
    同上


これも、蓮如上人の教えになるようだが、仏法とは、讃嘆と談合に極まるとしている。1人でいて、仏法を得られたことを喜ぶとしてもとんでもない喜びだけれども、複数人になれば尚更だというのである。よって、仏法とは寄り合い、談合して讃嘆を共有することが大事だということになろう。

この辺、布教・教化という観点からも注目される。今風にいえば、「体験談」「レビュー」みたいな感じである。お互いに、「オレはこうだった」「私はこうでした」などと語ることで、その喜びが共有され、そんなに良いんだったら、オレもちゃんとまっすぐに阿弥陀さんを信じてみよう、という想いになるのだと思う。

なんだか、仏教を布教する人って真面目な人が多いから、苦労や困難がなければならないとばかり思う人が多い。でも、拙僧はそういう態度に否定的である。笑顔や楽しさをもって、仏教として何が悪いのだろう?もし、抜苦与楽が仏教の本質であるとすれば、なるほど、世俗的な快楽では無いとはいえ、精神的な楽は当然得られて然るべきであるし、その結果は楽しいはずである。

笑いや楽しさを忘れないように仏教を学んでいきたい。

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