つらつら日暮らし

往生伝の作者の往生 慶滋保胤(私的往生極楽記27)

以前『法華験記』の作者である【鎮源法師】について採り上げたのと同じように、どこかで『日本往生極楽記』の編者である慶滋保胤(933?~1002)について採り上げたいと思っていました。そこで、今回は、以下のように往生を願っていた慶滋保胤の往生を見ていきたいと思います。

叙して曰く、予少き日より弥陀仏を念じ、行年四十より以降、その志いよいよ劇し。口に名号を唱へ、心に相好を観ぜり。行住坐臥暫くも忘れず、造次顛沛必ずこれにおいてせり。それ堂舎塔廟に、弥陀の像あり、浄土の図あるをば、敬礼せざることなし。〈中略〉今国史及び諸の人の別伝等を検するに、異相往生せる者あり。兼てまた故老に訪ひて都盧四十余人を得たり。予感歎伏膺して聊かに操行を記し、号づけて日本往生極楽記と曰ふ。後にこの記を見る者、疑惑を生ずることなかれ。願わくは、我一切衆生とともに、安楽国に往生せむ。
    『日本往生極楽記』、岩波日本思想大系『往生伝・法華験記』11頁、拙僧ヘタレ訳


途中に、それまで中国で作られた往生集が挙げられているのですが、それは削除しました。内容としては、慶滋保胤は子供の頃から阿弥陀仏を念じており、そして、様々な日本の伝記などを見ると、40人以上の往生者を見出すことが出来たということです。そして、その人達の伝記を残し、『日本往生極楽記』を書いたそうです。また、慶滋保胤は、一切衆生とともに、安楽国=西方極楽浄土に往生することを願っています。それでは、実際の往生の様子はどうだったのでしょうか。『日本往生極楽記』の後に、実質的な後編として編まれた『続本朝往生伝』(大江匡房編、康和3年頃[1101]成立か)があります。そこに、「慶保胤」として、挙がっていますので、それを見ていきます。

 慶保胤は、賀茂忠行の次男である。代々陰陽師(いわゆる、呪術師という要素もあり、この関係からは安部清明なども出るがるが、実際には天文・暦の専門家)の家の出身ではあったが、1人、学者として世に出ようと図っていた。才能があり、文章も巧みで、その当時の同僚よりも勝れていた。菅原文時を師として学び、門弟の中では既に、一頭地を抜いていた。
 天暦年間(947~957年、或いは天徳年間[957~961年]の誤りともされる)の終わりに、内の御書所に任ぜられた。「秋風桂の枝に生ず」という題材の詩の試験があって、1人その回答が及第を得た。
 書籍管理の労によって、京の役人に任じられるところだったが、さらに上級の国家試験を受けたいと思って、申し出て近江国の官吏になった。そして、終に、方略の試という最高の試験を通ったのである。
 まだ低い官位の者が着る青い衣服の時に、早くも著作郎の役を拝し、赤い衣服を着る時になっても、役職は変わらなかった。
 韻文や散文に見える勝れた句は、今も人の口に上る。
 少年の時から、心に極楽往生を願った(その心は、『日本往生伝(=日本往生極楽記のこと)』の序に見える。子息が成人になるに及んで、寛和2年(986)に、ついに仏道に入った(法名は寂心である)。
 諸国を経巡って、広く仏事をなした。もし仏像や経巻があれば、必ず威儀を調えて、その前を過ぎた。その礼節は王公に対するようなものであった。強い牛や肥えた馬に乗るといっても、(舎人の男が馬の尻などを叩くと[『今昔物語集』巻19に出る])涕泣して哀しむなど、その慈悲は動物にまで及んだ。
 長徳3年(997)に、東山の如意輪寺で亡くなった。或る人の夢でいうには「衆生を利益しようとして、浄土から還って、改めて娑婆世界にいる」ということである。ここに知るべきであるが、(保胤の)悟りの世界への証入は、相当に深いということを。
    岩波日本思想大系『往生伝・法華験記』246~247頁、拙僧ヘタレ訳


慶滋保胤については、文才などもあった非常に優れた官吏だったようですが、その立場に見切りを付けて、出家していくという様子が、当時の人々の心を捉えたのか?往生伝は当然として、『今昔物語集』や『発心集』などにも逸話が挙がっています。それくらい、有名な人だったといえましょう。そして、官吏としてだけではなくて、1人の念仏者としても有名だったようで、例えば若かりし頃から、【恵信僧都源信】とも行動を共にしていたようで、比叡山の僧と、在家の文人とが共に学ぶ「勧学会」を開催し、さらに保胤が出家してからは、それが二十五三昧会になって、念仏往生を願う組織になりました。

さて、この保胤の人生を見てみると、そもそも自分の家は陰陽師であり、或る意味で現世利益を追求するための、様々な技術を持っている家系だったわけですが、それを顧みることなく、まずは学問によって、政治の世界で身を立てようとしています。そして、内記の職にあって、様々な文書などを管理していたようです。

保胤が出家してからは、寂心と名乗って比叡山の横川などで修行していますが、訳文中にも挙げている通り、東山の如意輪寺という場所を、住職地とします。そして、大江定基が出家すると、保胤の弟子になっています。保胤の故事としてよく知られているのは、動物にまで慈悲を垂れたというところです。『今昔物語集』などにも詳細な描写がされていますが、動物に乗りながら、動物が食事をしたいとすれば、無理をせずに食事させるなど、好き勝手にさせており、それを何とかしようとする者がいれば、泣いて哀しんだといいます。

まだ、保胤の時代は、善行をせずとも念仏さえすれば良いという専修念仏が世に流行する前の時代であり、いわゆる天台宗で行われていた念仏が主でした。様々な仏事をなしたこと、慈悲を垂れたこと、それらはまさに善行であります。しかし、仏像や経巻に対しても、丁寧に礼をしたというのは、具体的な「三宝への帰依」を行ったことに他なりません。そして、これらの行いがあったので、保胤は往生し、しかも現実に還ってきています。まさに往還二相を共に実現しているわけですけれども、これは、菩薩として生きようとした保胤に相応しい生き方のように思います。

なお、この念仏法の軌範について、保胤は984年に編まれた源信の『往生要集』などもよく見ていたことでしょう。その源信は『往生要集』を、自身の往生を含めて、一切衆生の往生を願って作ったようでしたが、保胤も『日本往生極楽記』を作り、そして自身の往生を実現させたというのは、まさに大願成就といったところですね。

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