つらつら日暮らし

約300字で仏教(55)

『大乗起信論』を読んでいたら、おもしろい一節に出会った。

無明の熏習によりて起こさるる識は凡夫の能く知るものに非ず、また二乗の智慧に覚せられるものにも非ず、いわく菩薩に依るも、初めの正信より発心して観察し、もし法身を証せば、少分に知ることを得るのみ、乃至、菩薩の究竟地にも知り尽くすこと能わざれば、ただ仏のみ窮了するものなり。
    岩波文庫本『大乗起信論』42頁、訓読表現一部変更


迷いの影響によって、起こる様々な認識について、凡夫はそれを知ることはないという。なぜなら、それこそが迷いだからだ。本当に迷える者は、自分が迷える者だという自覚すらできない。よって、その迷いを払う修行が必要になってくる。その段階で、声聞・縁覚という二乗、あるいは菩薩があるが、それらでもまだ、すべてを明らかにすることはない。すべてを明らかにするのは、仏だけ。『法華経』の言葉を借りれば、唯仏与仏・乃能究尽というわけだ。

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> an-an-an さん

> 大乗についてはよく、利他行とか菩薩行とかいうことが言われます。菩薩行にて救う側も救われる側もいずれも大乗です。

そうですね。その意味で、大乗仏教の寺院では、僧侶のせいだけにして、檀家が責任逃れをすることが出来ないのです。

> 救われる側の私にとって切実なのは、凡夫の自覚という部分です。

この辺、やっぱり他力門的な発想の方だと理解できますね。我々はどこまでも仏性を坐禅を信じていますからね。
an-an-an
大乗と私
大乗についてはよく、利他行とか菩薩行とかいうことが言われます。菩薩行にて救う側も救われる側もいずれも大乗です。救われる側の私にとって切実なのは、凡夫の自覚という部分です。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> an-an-an さん

ご参考までにお聞きしたいのですが、大乗仏教の根本って、どういう事態だと思っておられますか?
an-an-an
歎異抄後序より
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。

この部分はよく、聖徳太子の「世間
虚仮、唯仏是真」の流れとしてよく語られますが、むしろ、大乗仏教の根本に根ざしていると考えるべきなんでしょうね。
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