つらつら日暮らし

宝慶元年五月一日 道元禅師が天童如浄禅師から面授

まずは、以下の一節を見ておきたい。

 大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、
 仏仏祖祖面授の法門、現成せり。これすなはち霊山の拈華なり、嵩山の得髄なり、黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裏のみあり、余人は夢也未見聞在なり。
    『正法眼蔵』「面授」巻


この一節を拝して、拙僧自身が思うことは、素直に、初相見されたのであろう、ということである。実際、道元禅師が中国に渡られて、最初に入られたのが天童山だったことは間違いない(その前に、別の律院に行ったりはしているが、安居ではない)が、その時の住持は臨済宗大慧派の無際了派禅師であり、無際禅師とは相見し、礼拝したことが知られている(『正法眼蔵』「嗣書」巻)が、その後、現在の浙江省内にある諸寺院を巡られ、再度天童山に入られたわけである。そのタイミングはおそらく、宝慶元年(1225)の夏安居前というべきであろう。

そして、4月15日から安居が始まり、もちろん、その時に夏安居を始めるための上堂や人事(挨拶)、煎点などがあるから、道元禅師は如浄禅師を見ていたであろうし、如浄禅師の視界に道元禅師も入っていたかもしれないが、この時に相見したのである。それで、如浄禅師は道元禅師に対して発せられた言葉が、「仏仏祖祖面授の法門、現成せり」だったわけだが、上記の一節について、どこまでを如浄禅師の言葉として拝するべきか、迷ったことがある。

つまり、「これすなはち霊山の拈華なり」以下について、如浄禅師の言葉に対する、道元禅師の解釈である可能性もあると思っていたわけである。ただし、この一節について、道元禅師の直弟子達は、以下のようにも示している。

是は天童、開山に指授面授せらるる御詞也。釈尊と迦葉との拈華、初祖二祖の得髄、五祖六祖の伝衣、洞山の面授等、是等をあげて、仏祖の眼蔵面授也と被示なり。吾屋裏のみあり、余人は夢也未見聞在也とあり。此詞をなど余方にもなからむと覚たれども、定天童の指授子細あるらむ、ゆるされざる祖師等是多し。是等いと面授の分なしと、ゆるされざる心地歟。
    経豪禅師『正法眼蔵抄』「面授」篇、『曹全』「注解二」巻・205頁下段~206頁上段、読み易く改めた


この経豪禅師による註釈を見ると、まずもちろん、本文の通りであるから天童(如浄禅師)が、開山(道元禅師)に対して指授面授された言葉であるのだが、その係る部分が、釈尊と迦葉、初祖(達磨)と二祖(慧可)、五祖(弘忍)と六祖(慧能)、洞山(良价)といった祖師方の勝躅を示しつつ、正法眼蔵の面授だったとされているのである。しかも、それは、吾屋裏(ウチの室内)にのみあって、室内に入らなかった他の者は夢にも見聞したことが無いとし、また、室内で面授されたる正法眼蔵を見聞したことが無いとも指摘されたのである。

また、このことから、先に挙げた一節に於いて、「仏仏祖祖面授の法門~夢也未見聞在なり」までを如浄禅師の教えだとしていることも、拝察されるべきだといえよう。

ところで、「吾屋裏のみあり」という指摘について、拙僧なりに関わると思われる一節が、以下の指摘である。

先師古仏、たやすく僧家の討掛搭をゆるさず。よのつねにいはく、無道心慣頭、我箇裏不可也、すなはちおいいだす。出了いはく、不一本分人、要作甚麼。かくのごときの狗子は騒人なり、掛搭不得といふ。まさしくこれをみ、まのあたりこれをきく。ひそかにおもふらくは、かれらいかなる罪根ありてか、このくにの人なりといへども、共住をゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。
    『正法眼蔵』「梅華」巻


道元禅師は、先師古仏(如浄禅師)は、容易には掛搭(僧堂に入ること)を許されなかったとし、その理由を、道心が無い者が入ることを認めなかったためだといい、その言葉を道元禅師は目の当たりに聞かれたという。この辺からも、道元禅師が普段から、如浄禅師の側におられたことが理解出来よう。そして、ご自身は日本という、中国からは遠方の外国の出身であり、しかも愚暗と謙遜されつつも、如浄禅師の室内に入ることが許されたことを、「結良縁」としている。

このように、道元禅師が外国の出身であったことを謙遜される様子というのは、この一節のみならず、他の箇所にも見られた教えであった。

 示に云く、はづべくんば明眼の人をはづべし。
 予、在宋の時、天童浄和尚、侍者に請ずるに云く、「外国人たりといへども元子器量人なり」と云てこれを請ず。
 予、堅く是を辞す。
 其故は、「和国にきこえんためも、学道の稽古のためも大切なれども、衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと、国に人なきがごとしと難ずる事あらん、尤もはづべし」といひて、書状をもて此旨を伸べしかば、浄和尚、国を重くし、人をはづることを許して、更に請ぜざりしなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1


以上の通りである。これは、天童山にいた時に、如浄禅師が道元禅師を侍者として請したときのこと、道元禅師は、日本に於いての名誉ともなるし、仏道の学びのためにも大切だと理解されつつも、大衆の中に仏道の眼を具えた人が、外国の人が大叢林の侍者になるとなると、中国に人がいないようだと批判する可能性があり、それを考慮して辞退すると申し上げたようである。そのため、如浄禅師は国を重んじ、人の批判を考慮することを認めて、それ以上、侍者として招くことはなかった、としている。

ただし、これを思うと、国と仏道を天秤に掛けているように邪推する人がいるかもしれない。しかし、そもそも国のこと、侍者のことは、仏道を得るという一点に対して、全く関係が無い。関係が無いというのは、国を思っても思わなくても、侍者になってもならなくても、どちらでも一緒ということだ。国を思うのは、仏道ではないというのは、仏道を勘違いしている。道元禅師が、自ら開いた深草興聖寺に対して、「観音導利興聖護国寺」(『重雲堂式』)と名付けた意図をしっかりと拝察せねばなるまい。

話は逸れてしまったが、宝慶元年5月1日に、道元禅師が如浄禅師から面授された様子を元に、その教えを学んでみた。

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