極楽のぶ

~全盲に甘んじ安寧を生きる

ゲルニカに月は出ているか(66) シベリア鉄道の敷設着工と、日清・日露戦争の関係 歴史の謎に挑戦

2024年02月05日 | 歴史
 前回書き終えて、何かおかしいという違和感があった。英国の「三国干渉不参加について」である。ロシアの干渉が、初めから「遼東半島割譲」のただ一項目だけだったのか? 誰が見ても、日本が要求した「通商権益の拡充」は、ひとり英国だけを利するものだ。なぜロシアはそれを手つかずで残したのか?
 英国が、この旨味を知り、あえて干渉に加わらなかったのはよくわかる。が、ロシアが、対英戦略的にそちらの条項も一喝してNOを突き付ける可能性は十分あった筈だ。
 英国がこれに手を打たなかった筈がない。それでは、どんな手を打てただろう?
 そこで思い当たるのはヴィクトリア女王の孫がドイツ皇帝ウィルヘルムⅡ世だったことだ。すると、病床の陸奥が激怒したという「ドイツの豹変(掌返し)」の理由も見えてくるではないか。何度も繰り返し書いているが、ドイツは1895年4月5日、日本の日清条約提案を了解すると表明した。が、舌の根も乾かぬうちに、ロシア・フランスと共に、下関条約への干渉に加わった。わずか3日の変節だった。しかも、ロシアのニコライⅡ世に「黄禍論」を吹き込んで、強硬姿勢に発破を掛けたのはウィルヘルムⅡ世だった。
 そもそも、当初ドイツは英国とタッグを組んで、露仏とは別動隊の形で日清条約に干渉しようとした、が、英国に断られ、それで露仏干渉に参加したことに、一応はなっている。しかし、清国の戦時賠償金の借款では、露仏銀行と英独銀行とに二手に分担しているのである。怪しくはないか?
 以下は、極楽の浅慮に過ぎないが、英国が黙って、ロシアにフリーハンドを与えた筈が無いと考えれば、ドイツの共同干渉を断ったのではなく、孫のドイツ皇帝(36歳)にヴィクトリア女王(76歳)が、そっと囁いたとしてもおかしくなかろう。すなわち、英の代わりに独が三国に加わり、ロシアの要求を「遼東半島返還の一項に収め、その他条項に関わらぬよう計る」というミッションだ。下手な小説もどきだが、簡単ではなかった筈だ。
 なぜなら、ロシアを率いていたのは、前回紹介したセルゲイ・ウィッテ(45歳)である。切れ味では、ドイツの往年のビスマルクに匹敵した。そのウィッテと、ヴィクトリア女王の義孫ニコライ(27歳)は不仲であった。才能への嫉妬だ。そこに付け込む隙が有った。ウィルヘルムとビスマルクの関係と相似だったのだ。ニコライが義兄の激励に勢いづいたのは想像できる。
 ニコライⅡ世が父の死去で皇帝に就いたのは1894年、戴冠式は1896年だ。父、アレクサンドルⅢ世は、死の床で、ニコライに「ウィッテの助言を聴け」と遺言したが、守られなかった。
 結局、ドイツへの陸奥の激怒は杞憂に終わり、ロシアの干渉が最少限に収まる結果となった。さすがに英国の策謀までは、陸奥も読み切れなかったのだろう。
 ところで、兵士の犠牲の元に獲得した遼東半島である。「返還」など、断じて納得できないのが日本陸軍であった。これが、後の日本史に暗い影を落とし続けることになる。一方、海軍の方は、まだ占領すらしていない「台湾割譲」の条項をまんまとモノにした。現実の占領までには、激戦と多数の戦死・病死の犠牲を払うことになるのだが、ストーリーが散乱するので割愛させてもらう。

 時代は19世紀から20世紀へ、劇的な断層を迎えていた。欧州帝国主義は終焉を迎え、ヴィクトリア女王やビスマルクが舞台から去り、東洋でも西太后が死没、パワーバランスが軋み出した。
 この大変転期にシンボリックに登場するのが、シベリア鉄道だ。ニコライⅡ世の父親、アレクサンドルⅢ世がシベリア鉄道の構想を宣言したのは1882年。ちょうど、露土(ロシア・トルコ)戦争に勝ったものの、トルコ領ギリシアを占領して地中海に出る作は、ビスマルクの政治力に遮られた。文豪ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で、トルコ兵の残忍さを描写しているそうだが、まるで、「旅順大虐殺事件」の発端となった清国兵による日本兵惨殺の手口と酷似である。「戦争」は「人類史」そのものだ。そのドストエフスキーもトルストイも、19世紀の幕切れで去った。
 シベリア鉄道に戻ろう。地中海進出を阻止されたアレクサンドルは、東洋に不凍港を求め、遠大なる鉄道計画を宣言した。が、そのリアリティを具現化できる者が9年間、現れることはなかった。
 セルゲイ・ウィッテは、露土戦争以前にクリミアのオデッサ大学をトップで卒業し、数学者の夢を捨て、鉄道会社に就職していた。運賃や時刻表や貨物運輸の緻密な計画を立案し、頭角を現していたが、たまたま起きた鉄道事故の引責で有罪となり、投獄されてしまっていた。しかし、露土戦争における武器輸送の鉄道計画を牢で書かされ、これがアレクサンドルⅢ世皇帝の目に留まり、牢から運輸省に出勤する日々が続いたというから笑える。
 アレクサンドルは、ついに1891年、「余人を以て替え難し」と、シベリア鉄道敷設のため、運輸大臣、大蔵大臣の地位をウィッテに与え、鉄道敷設の全権を任せた。牢から宰相への昇進だった。シベリア鉄道は、全工程2万Kmの計画で、ウィッテが就任すると、年3000Kmの急ピッチで建設は進んだ。9年間ゼロメートルだったのが嘘のようだった。日本列島が全長約2000Kmだから、すさまじいスピードだったとわかる。
 ウィッテは、農作物でフランスと交易し、フランスの借款も受け、その金でドイツから鉄道敷設に必要な機械・鉄鋼を購入した。大農業国だったロシアは、一転重工業国となり、鉱山開発、鉄鋼、石炭(ドンバス地方)、石油(バクー油田)の大輸出国に変身を遂げた。これは前回も書いた。こうして、シベリア鉄道は名実ともに、新生ロシアを支える大動脈となったのである。
 1891年、終着駅予定のウラジオストックで行われた「起工式」に全責任者として皇太子ニコライが立席している。出席のため、インド洋航路で訪れた彼が、最後に表敬訪問した日本で遭難した悪夢が「大津事件」だったのは記述した。ニコライの記憶としては、鬼の形相でサーベルを手に追ってきた津田巡査よりも、沿道を埋め尽くした「歓迎の民衆」が、誰ひとりとして巡査と逃げるニコライの間に割って入いらなかったことや、皇太子を匿うでもなく、ただ呆然と見守るだけだったことに終生恨みを持った。無表情に傍観する大衆は、遥か後年ハンナ・アーレントが描くアイヒマンの罪「凡庸の悪」と通底しそうだ。
 ただ、思い当たることはある。シベリア鉄道着工が迫る1890年に首相に就任した山県有朋は、ロシアの鉄道東方遠征を「ロシア脅威論」に仕立て、「彼らはシベリア鉄道のターミナルを不凍港の豊富な朝鮮に求め、半島に進出して来るだろう」と論じた。すなわち「ロシアの脅威を封じるには、朝鮮半島を渡さないことであり、先に朝鮮を日本の支配下に置くことだ」と説いた。一方、民間でも、徳富蘇峰などが、盛んに「ロシア脅威論」を記事に書き、ロシアが仮想敵国であることが国民にも浸透していた。これらが、大津事件での沿道の大衆の「傍観者的行動」の原因であったならば、恐ろしいことだ。まさに、アイヒマンはどこにでもいるのである。

 ここで、不思議なことに気づく。日露戦争の火種は、日清戦争以前から、シベリア鉄道建設に関連して発芽していたのであり、対露戦略の防御線(主権戦から利益戦へ)として、朝鮮を確保するため日清戦争が必要だったことになる。なるほど、これを指して、司馬さんが朝鮮問題を、単に「地政学的に気の毒であった」とした理由なのであろう。
 山県の言う通り、ウラジオは、冬季凍結する港である。日清戦の只中、ウラジオを訪れ、独系の商社が紹介したデンマーク人の通訳と共にウラジオからウスリー川までの鉄道(アメリカ製)の旅をしている中年女性が、またもやイザベラ・バードであった話は、このシリーズの54話と、イザベラの本シリーズでも書いた。この時期のイザベラは、54話で書いたように、朝鮮半島東海岸の良港「元山(ウォンサン)」にも険路をボートと脚を駆使して視察している。とうてい観光地ではない。その謎は54話で詳述したのでここでは割愛する。イザベラには驚くばかりである。007とは言わないが、出発前ヴィクトリア女王に呼ばれて謁見している。彼女の紀行記は、帰国後まとめられたものではなく、滞在先毎に「妹」なる人物宛の手紙(船便)として書き送られている。つまり電信が仕えない彼女にとっての最速の現地情報であった。英国が元山(ウォンサン)をどう見ていたかが想像される。
 しかし、ロシアは、日本のお陰で「旅順」という最高条件の不凍港を手に入れた。繰り返しになるが、1896年、李鴻章との露清密約により、対日戦時賠償金肩代わりに、シベリア鉄道を満州国境の南側(清国領内)の通過を認めさせ、ウラジオへの敷設工程を短縮させた(1904年完成)。これを東清鉄道と言ったが、同時に、満州領を南下し、遼東半島の先端、旅順港、大連に繋がる「南満鉄道」の敷設も了解させた。鉄道は軍事施設である。よって、鉄道の警護軍隊も同時に駐屯する条約を飲ませたのである。
 やがて、1900年、清国で義和団の乱(北清事変)が起こり、各国列強が軍を進めると、ロシアは、満州を占領し、事変が終結しても兵を引かなかった。満州はロシアのものになったのである。

つ・づ・く
参考 
イザベラ・バード著「朝鮮紀行」
NHK「映像の世紀」バタフライエフェクト 「シベリア鉄道」の回

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