武弘・Takehiroの部屋

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北朝鮮訪問記(前編)

2024年05月20日 15時27分02秒 | 外国の話

<復刻> 以下の記事は、2011年6月に北朝鮮を訪問した時のもので、日時や年齢などは全てその当時のものです。

☆ 6月4日から7日(注・2011年)までの短い期間だったが、北朝鮮(以下、朝鮮と記す)を観光旅行してきた。もちろん初めての朝鮮訪問だが、今年最大の行動目標だっただけに今はホッとした気分である。以下、ざっくばらんに印象を書いていきたいと思う。
日本を立ったのは3日朝で、羽田空港から中国の北京へと飛んだ。日本と朝鮮は国交がないので、中国などを経由して行くしかない。余談だが、28年ぶりの北京はまったく様変わりしていて、完全に近代都市に変貌した感がある。3年前にオリンピックを開催しただけあって、高速道路は車の波、波・・・隔世の感があった。オリンピックに備えてオープンした北京第3空港は途方もない広さで、躍進する中国を象徴するかのようであった。
中国の話はまた機会があればするとして、話を先に進めよう。3日に北京で一泊したあと、4日、高麗航空機に乗って朝鮮の首都・ピョンヤン(平壌)に到着した。
私を出迎えたのは、「朝鮮国際旅行社」の男女2名のガイドである。実名は伏せるが、M氏は41歳の男性、Fさんは27歳の女性だ。2人とも日本語がペラペラで、朝鮮語が出来ない私はまったく不自由しなかった。
どうしてそんなに日本語が上手なのかと聞いたら、2人ともピョンヤンで日本語を学んだという。もちろん、国交がない日本には一度も来たことはない。
ワゴン車の中でFさんが率直に語ったのは、今の朝鮮は「食糧不足」「電力不足」の2つが最大の問題だというのだ。その辺は正直に言っているなと思った。

私の宿泊先は「高麗ホテル」という所だが、市内では最もハイレベルのホテルだ。「タバコが吸える部屋にしてくれ」と、私ははっきりと申し込んだ。案内された部屋は広々としたツインルームで、実に快適である。
ホテルで一休みしたあと、私ら3人と運転手のP氏は市内のレストランへ夕食をとりに行った。ところが、食事中に再三“停電”になり、灯りが消えたりする。なるほど、朝鮮は電力不足なんだな~と思った。日本では大震災の影響で一時“計画停電”があったが、あれどころではない。主要な施設を除いて、しょっちゅう停電になっているのではないか。
ビールを飲んで気分が良くなった私は、朝鮮の核問題や拉致事件などについていろいろ言ってやった。M氏やFさんは、福島原発事故などについて聞いてくる。原発にはかなり関心があるようだ。M氏は「アメリカが(朝鮮の)軽水炉計画をきちんと実行しない」と文句を言っていた。
「日本はこれから脱原発で、自然エネルギーへ転換していくと思うよ。その方が良いのではないか。だって、あんなに大きな事故を起こしたんだから。放射能汚染はとても危険だ」と、私は日本のエネルギー政策転換の可能性について述べておいた。
2人は原発事故や東日本大震災について、熱心に聞き入っていた。私は、国交がない朝鮮が赤十字社を通じて800万円の義援金を送ってくれたことに謝意を表しておいた。(続く。2011年6月8日)

         大同江を中心としたピョンヤン風景

 

ピョンヤンに到着した時に分かったが、朝鮮への観光客は中国人やヨーロッパ人が圧倒的に多い。ホテルでの両替も、中国の「人民元」とヨーロッパの「ユーロ」が二本柱だ。
日本円は1000円札を沢山持っていると便利だと言われたが、ショップでビールや飲料水などを買うと、お釣りは人民元かユーロで返ってくる。日本円のお釣りはほとんどない。朝鮮が中国はもとより、ヨーロッパのほとんどの国と正常な関係にあるからだろう。M氏の話では、世界180カ国以上と国交を結んでいるという。日本やアメリカのように、朝鮮と国交がない国は極めて少ないということだ。
ついでに言うと、「朝鮮国際旅行社」には220人ほどのスタッフがおり、そのうち120人ぐらいがガイドである。むろん、中国語やヨーロッパ各国語のガイドが大多数だが、日本語のガイドも12~3人いるという。しかし、最近は日本人の観光客が極めて少ないので、手持ち無沙汰ではないのか。そこへ、私のような“物好き”が独りで訪れたから、客1人にガイド2人という異常な現象が起きたようだ(笑)。
さて、先ほどのレストランでの会話だが、核や原発など堅い話ばかりしているのは嫌なので、家族のことを話題にした。そうしたら3人の顔付も和らいできた。
私が4人の孫や家族構成の話をすると笑みを浮かべていたが、M氏には7歳の娘さんがおり、また運転手のP氏にも同じ年ぐらいの娘さんがいるとのことだ。家族の話になると会話も和らぐ。
一方、Fさんは27歳の独身女性だ。「そろそろ結婚したらどうなの?」と聞いたら、どうも独身の方が“気楽”で良いという返事だった。何だ~、まるで日本の女性と変わりないではないか。 「ご両親は早く結婚してはと言うんでしょ?」と聞いたら、「ええ」と言って苦笑いを浮かべていた。Fさんのように可愛くて知的な顔立ちをしていれば、相手の男性はいくらでもいると思うのに・・・
ついでに言うと、朝鮮には“美人”が多いと思う。きりっとした顔立ちの女性が目立つ。お国柄で薄化粧だが、美形が多いようだ。スタイルも良い。以前、スポーツの国際大会の時に“美女軍団”が現われて話題になったが、あのくらいの美女はどこにでもいる感じだった。
日本の「東(あずま)男に京女」ではないが、朝鮮半島では「南男(なんなん)北女(ほくじょ)」と言って、北へ行くほど美人が多いという。(続く。2011年6月8日)

 

 

ガイドのMさん(右)とFさん(左)  

 

    朝鮮美人のガイドさんと(後ろは凱旋門)

 

朝鮮半島の“美人論”の話から、情報操作の問題に移りたい。
朝鮮は全体主義国家だから、情報や報道の規制・統制は相当に厳しいようだ。ホテルのテレビ(何と、日本のシャープ製だった)を見たら、NHKの英語のワールドニュースも放送していたが、中身は料理やら美顔術などどうでもいいものが多かった。ニュースもやっていたが、差し障りのあるものはカットされているのではないか。
例えば過日、日中韓3国の首脳会談が日本で開かれ、中国の温家宝首相と韓国の李明博大統領が原発事故被災地の福島県を訪れた話をすると、ガイドのM氏はびっくり仰天していた。「本当ですか?」と言って、信じられないという表情に変わった。
それは分かる気もする。朝鮮にとって中国は最も親しい“同盟国”だが、その首脳が敵対する韓国の大統領と連れ立って菅首相と会談し、一緒に福島県を訪れたというのは容易に理解できなかったのではないか。中国に裏切られたように思ったのかもしれない。
NHKを始め日本のマスコミは当然このニュースを伝えたが、朝鮮ではまったく報じられなかったのだ。つまり、自国に都合の悪いニュースは当局が排除したとしか思えない。

もう一つ・・・金正日総書記の元専属料理人と自称する藤本健二氏が、日本のテレビ局に再三登場して話をしたが、M氏らはそんなことをまったく知らなかった。 「えっ! 日本人が金総書記の料理人だったんですか?」と驚きの表情を浮かべていた。こういう話は朝鮮ではまったく報じられていないのだ。
日中韓首脳会談も日本人の料理人の話も、仮に伝えられたとしても単なる“デマ”として片づけられたに違いない。
事の信憑性はともかく、2カ月ほど前、朝鮮から20人ほどの担当者が「資本主義」と市場経済を学ぶために秘かに訪米したという記事がインターネット上に出た。その話をすると、Fさんは即座に「それはデマに決まってます」と断定した。もちろん真偽は定かでないが、自国に都合の悪い話は確かめようともせず、すぐに否定するのだ。
クリントンやカーターらアメリカの要人の訪朝は“公式発表”だから認めるが、それ以外は徹頭徹尾「反米」の姿勢を貫いている。アメリカ憎しの気持は、依然として根強いものがあると思わざるを得なかった。(続く。2011年6月9日)  

        

ピョンヤンの中心地で筆者

 

 ピョンヤン(平壌)は人口が200万人ほどの大都市だが、いたって静かな“たたずまい”である。路面電車やトロリーバスが行き交っているが、車はそれほど多くない。また自転車も少ない。たまにタクシーが走っている。人々は電車やバス、地下鉄などを利用して通っている。
メイン道路は比較的広く、信号が付いている。しかし、電力不足からだろうか、点灯している信号は少ないようだ。ガイドさんの説明では、去年から本格的に信号が作動しているとのこと。それまでは、お巡りさん(婦警が多い)が交通整理に当たっていた。今でも交差点の隅に婦警がよく立っている。
「朝鮮では、女性は自転車に乗れないそうだが・・・」とガイドに聞いたら、「そんなことはありません。地方では女性も乗っています」と答えた。どうやら、ピョンヤンでは自転車に乗った女性の交通事故が多発したので、今は規制されているようだ。交通整理がなかなか上手くいっていないのだろう。

ほとんどの人が「金日成バッジ」を胸に付けている。金日成(キム・イルソン)は言うまでもなく“朝鮮建国の父”である。色々なバッジがあるようだ。
私はこれまで、階級や地位によってバッジの種類が異なると思っていた。日本のマスコミがそう伝えていたように記憶する。だから「そういうことでしょう?」と聞くと、ガイドのFさんは「違います。自分の好みで選べるのです」と答えた。どうやら、年ごとに新しいバッジが出てくるらしい。男性は国旗がなびいているような長方形、女性は可愛い丸い形のものを好むようだ。
それはともかく、金日成バッジは朝鮮国民の誇りである。これを付けていない人はまずいない。私も「チュチェ思想塔」へ行った時に、みやげ物店で訪朝の記念に12種類のバッジ一式を買った。そこには金日成バッジはない。
そこで「買いたい」と言ったら、日本語ができるガイドが「売り物ではありません!」とはね付けるように答えた。金日成バッジは朝鮮国民にとっては特別のものなのだ。(続く)

 

         

         チュチェ思想塔の屋上でガイドさんらと

 

                 

  「少年団」の入団式 (チュチェ思想塔の前で)

 

前にも述べたが、ガイドのM氏(男性・41歳)とFさん(女性・27歳)は日本語が実に上手である。だから、突っ込んだ意見交換ができた。その点はとても充実していたと思う。
ただし、日本人拉致問題については、私がいくらしつこく聞いても“寡黙”に終始していた。この問題については触れられたくなかったのだろう。ある晩、私が拉致の話をすると、M氏は我慢できなかったのか、戦前の日本による「朝鮮植民地支配」の話を持ち出して逆襲してきた。朝鮮人民の苦痛と被害は、拉致問題どころではなかったと言うのだ。戦前の話を持ち出されると、こちらは何とも返す言葉がない。議論は全く平行線をたどるので止めてしまった。
朝鮮の長い歴史において、彼らの「国家」が消滅したのは戦前の35年だけである。これは朝鮮人民にとって、永久に忘れられない“屈辱”だろう。朝鮮半島には『恨(ハン)』という感情が伝統的にあるそうだが、これは怨恨のことである。彼らにとって最大の『恨(ハン)』があるとすれば、それは国を亡くした日本の植民地支配であることは間違いない。
過去の歴史を振り返れば、日本国民である私には返す言葉がない。したがって、9年前(2002年)に当時の小泉首相が訪朝して、金正日国防委員長との間で調印した「日朝平壌(ピョンヤン)宣言」を持ち出し、日朝両国は国交正常化に全力を挙げるべきだと強調した。これには、M氏もFさんもまったく異存はなかった。 

私が「自分が生きている間に、国交正常化が出来るだろうか・・・」と呟くと、2人は笑いながら「出来ますよ、きっと」と答えた。でも、もうすぐ70歳になる自分は、生きている間に日朝国交正常化を見ることができるだろうか。余談だが、9年前の小泉・金正日両首脳が握手した写真は、今でも朝鮮で記念切手として出ている。
国交正常化の話に移って、3人の会話は和やかな雰囲気に包まれた。私はビールで良い(酔い)気分になってしまったのか、21年前に自民党の実力者・金丸信氏が社会党の田辺誠氏らと一緒に訪朝した話を切り出した。
M氏もFさんも金丸・田辺両氏のことを知っていた。私は思想や信条を越えて、人間的に金丸さんが大好きだったと述べた(昔、金丸番の記者をした経験から)。
金丸さんは誕生日が私と同じ9月17日だったので、余計に親近感を持っていたのだ。(なお、小泉・金正日両氏の日朝ピョンヤン宣言の調印日も9月17日である。)
しかし、日朝国交正常化に努力した金丸氏はその後、東京佐川急便からのヤミ献金事件に連座して失脚、政界を引退する。最後は哀れだった。そんな話をしているうちに、3人の会話は時間切れとなった。(続く)

          

              大同江に面したアパート群

                

         

              チュチェ思想塔と大同江を背景に

 

朝鮮が慢性的な「食糧不足」で困っていることは知っている。それはガイドさんからも聞いた。ピョンヤンから韓国との境界線にある板門店(はんもんてん)へ向かったのは、先週の5日・日曜日だったが、田んぼで老若男女を問わず多くの人が働いていた。
「今年は天候が不順で、今ごろ田植えをしてるんですよ」とMさんが言う。例年より寒さが長引いたらしい。「いろんな人が田植えをしてるんだな~」と言うと、Fさんが「コメを食べる人は、みんな動員されるんですよ」と答えた。
「えっ? それじゃ、あなた方も田植えをするのかしら」と聞くと、Fさんは「ついこの前、農村へ行って10日ぐらい働きました」と答える。これには驚いた。
いくら食糧事情が悪いとはいえ、日本語専門の観光ガイドさんが田んぼへ行って働いていたのだ! どんな農作業をしたのか詳しく聞かなかったが、都会のうら若い女性が農民と一緒に働く。日本では考えられないことだ。

私はふと、中国の文化大革命の頃を思い出した。下放(かほう)と言って、都会の青少年を地方の農村に送り、そこで田畑の仕事に従事させていたのだ。それとほとんど変わりがないではないか。40年以上も前に中国がやっていたことを、今の朝鮮は行なっている。いくら食糧不足とはいえ、社会主義国とはそういうものなのか。
都会のお嬢さんが農村へ行っても、大した仕事はできないだろう。そんなに「生産性」が上がるとは思えない。それよりも、コメの生産に全国民が一体となって取り組む所に、社会主義的な“連帯感”が生まれるのだろうか。それとも“人海戦術”か。
「コメを食べる人は、みんな動員される」・・・徴用だか勤労奉仕だか知らないが、日本では想像もできないことだ。試しに日本でもそうしたらどうか・・・と思った。そんなことをしたら、日本では袋叩きに遭うだろうか(笑)。 いや、他の多くの仕事に影響が出てくるだろう。
田んぼのあぜ道や農道で、小学生たちが一生懸命に雑草などをむしり取っている。今日は日曜日だから、小学生も動員されているんだなと私は思った。(続く)

 

大同江(テドンガン)は朝鮮の5大河川の一つで、ピョンヤンの中心部を流れている。戦前の一時期、私の両親、兄姉たちがこの河の付近に住んでいたことがあるので、特別の思いで眺めた。
今回の訪朝では、亡き父母の写真を持参していったので、河を渡る時、その写真を高く掲げて今の大同江を見せてやった。ガイドのM氏もFさんも興味を示したので、両親の写真を見てもらった。母が生前、大同江の思い出話をよくしていたので、私としては親孝行ができたと思っている。
ピョンヤンは東京よりも暑く、毎日28度ぐらいに気温が上がっていた。厚めの服装をしていったので少し汗をかいたぐらいである。そう言えば、母は冬になると大同江が凍った話をしていたが、今はどうなのかとM氏に聞いた。
「以前と違って去年と今年は寒かったので、河が凍りました。マイナス23度までいきましたよ。凍った河を人が渡っていました」とM氏は答える。朝鮮は温暖化ではなく寒冷化しているのか。それはともかく、ゆったりと流れる大同江を私は好きになった。父母の思い出とともに・・・

ワゴン車の中でガイドさんと雑談をする。2人の女性のことを聞きたくなった。1人は1996年のアトランタ五輪の柔道で、当時の田村亮子選手(ヤワラちゃん)を破って金メダルを取ったケー・スンヒさんのことである。
「彼女は大したものだったね。ヤワラちゃんを破ったんだから」と言うと、「そうですよ。あの頃、彼女はまだ16歳でしたからね。ケー・スンヒは結婚して今は一児の母親です。国会議員もやってますよ」とM氏が答えた。オリンピックで金メダルを取れば、朝鮮では“英雄”視される。
「ヤワラちゃんも結婚して、今は谷亮子と言うんだ。子供もいるよ。彼女も国会議員になったが・・・なんだ~、ケー・スンヒさんと全く同じだね」。私はおかしくなって笑った。2人のアスリートが結婚し母親となり、同じように国会議員になっている。まあ、結構な話ではないか。
「ところで、キム・へギョンさんは今どうしているの?」と聞いてみた。彼女は拉致被害者・横田めぐみさんの娘で、今23歳のはずである(キム・ウンギョンとも言う)。
とたんに、2人のガイドさんは黙ってしまった。余計なことを聞くな、という感じである。一切何も言わない。こんな質問をする日本人“観光客”はいないだろう。何も答えないから、私はそれ以上聞くことができなかった。(続く)

 

ピョンヤンを流れる大同江(テドンガン)

 

 少し理屈っぽい話になるが、国名の呼び方について触れたい。
南北朝鮮のことを、日本では普通「韓国」「北朝鮮」と呼んでいる。韓国は大韓民国であり、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国のことである。
戦後間もなく、日本では「南鮮」とか「北鮮」と言ったことがある。どちらとも国交が無かったからだ。しかし、1965年(昭和40年)に“南”と国交が成立すると、完全に大韓民国、つまり「韓国」という表現が定着した。そして、今日に至っている。
一方、“北”とは国交が正常化しないまま来たため、日本では「北朝鮮」という呼び方が定着してしまった。
この「北朝鮮」という呼び方に“朝鮮”の人たちは反発する。つまり、自分らが全朝鮮を代表するのに、なぜ「北朝鮮」なのかという反発なのだ。彼らは普通、自国のことを「朝鮮」ないしは「共和国」と言う。 大韓民国を「韓国」と呼ぶなら、朝鮮民主主義人民共和国を「朝鮮」と呼んで何ら不思議ではない。しかし、“北”とは国交が無いから、やや差別的な意味合いで「北朝鮮」という呼び方が定着したのだろう。

私は今回の訪朝で、出来るだけ「朝鮮」とか「共和国」と言った。国名の呼び方で相手をいたずらに刺激したくなかったからだ。もし、日朝関係が正常化したら、日本のマスコミもおそらく「朝鮮」と表現するだろう。
ところで、ある晩、ガイドのMさんと話しているうちに、彼が「韓国」のことを「南朝鮮」と言った。朝鮮国民である彼の立場は分かるが、私はあえて「韓国」と呼ぶべきだと述べた。Mさんは特に反論しなかったが、朝鮮の人々は韓国を「南朝鮮」と言いたがる。それなら、逆に「北朝鮮」と呼ばれても仕方がないではないか。
どうも七面倒臭い話になったが、私は南北を「韓国」と「朝鮮」と呼ぶのが適切だと思う。 国名は大切である。いつになったら、「北朝鮮」を「朝鮮」と呼ぶようになるのだろうか。おそらく、国交が成立しないかぎり無理だろう。本日は理屈っぽい話になってしまった。(続く)

 

                     

           ピョンヤンの中心地にて筆者

 

ピョンヤンの地下鉄は東西・南北の2路線しかない。しかし、大抵の観光客はここを訪れる。というのは、電車が地下100メートルぐらいの所を走っており、戦時には“防空壕”にもなると言われているからだろう。
また、主な駅にはシャンデリアが吊るされたり、故金日成主席の巨大な壁画などが施され、極めて豪華な印象を与えている。いわば、朝鮮が誇る一つのモニュメントだろうか。
長~いエスカレーターに乗り「復興駅」の構内に降りたら、けっこう多くの乗客がいた。ふと見ると、30人ぐらいの“高校生”たちが記念撮影をしている。ガイドさんに聞いたら、あれは在日朝鮮人学校の生徒たちだというのだ。

とたんに、私は嬉しくなった。というのも、朝鮮語が全く分からず人とも会話ができなかった自分が、日本語をしゃべれるということだ。私は生徒たちに近づき、「僕は日本人だ。どこから来たの?」と聞いた。1人の女子生徒が「福岡からです」と答えた。 在日の若い人と日本語がしゃべれる! だいぶ迷惑だったろうが、喜んだ“ジジイ”は電車に乗ってからも彼らに声をかけ続けた。
生徒たちは朝鮮人学校の高校3年で、修学旅行でピョンヤンに来ていたのだ。北京経由で9泊10日の旅だという。聞いてみたら、朝鮮は3回目という生徒もいた。
1人の男子生徒が「どうして朝鮮に来たのですか?」と尋ねるから、「まだ来ていないから来たのだ」と答えておいた。今は修学旅行のシーズンで、在日の高校生たちが日本各地から来ているという。
生徒たちとは次の「栄光駅」で別れたが、無愛想な私も彼らには大いに愛嬌を振りまいておいた。以下は「復興駅」の模様、在日の生徒たちの写真である。(続く)

 

「復興駅」での筆者。構内はけっこう暗い

 

在日朝鮮人学校の生徒たち

 

地下鉄車内にて。左側は在日の生徒


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