武弘・Takehiroの部屋

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57年前・沖縄の旅

2024年05月20日 03時36分45秒 | 旅行

<以前 書いた記事を一部修正して復刻します。>

沖縄の象徴・首里城(那覇市)

 
57年前(1967年)の真夏のある日、私は友人のW君と一緒に、東京・晴海埠頭から船に乗り沖縄へ向かった。当時の沖縄はアメリカ軍の管理下に置かれていたため、旅行をするにはパスポートや検疫証明書などを用意しなければならず、また通貨も全てドル建てだったので、事前にずいぶん手間がかかった。晴海埠頭を出発してから丸二日(二昼夜)の船旅だったが、沖縄にだいぶ近づいた頃、船が一晩じゅう荒波に揺れたので酔う人が相当に出た。
たしか46時間以上の船旅だったが、朝、那覇港に着いた時は私も含めてほとんどの人が疲れていたと思う。それでも、私とW君は若かったこともあり、すぐに摩文仁(まぶに)の丘やひめゆりの塔、健児の塔などの南部戦跡巡りに出かけた。バスから景色を眺めていると、まず印象に残るのは延々と続く“さとうきび畑”だった。
寺島尚彦さんの歌『さとうきび畑』にもあるように、それは灼熱の太陽のもとで「ざわわ ざわわ」と揺れていた。その単調な乾いた音色は、沖縄戦で犠牲になった方々の霊を慰めているのだろうか。そんな思いに浸りながら、私たち二人は戦跡を巡ったように記憶している。
 
南部戦跡を訪れた後、われわれは「何でも見てやろう」の思いで沖縄本島のあちこちに足を伸ばした。その頃は、沖縄の海はもっと美しかっただろうか。 今でもむろん美しいに違いないが、初めて見る南の海の“輝き”が目に焼きついた。こんな海でかつて、日米両軍が死闘を繰り広げたとは、とても考えられないほどの美しい景色である。
私たちは名護市を経て本部半島を見て回ったが、そこで私はW君と別行動をとり、どうしても行きたかった伊江島に渡った。ここももちろん風光明媚な島だが、旧日本軍の大きな飛行場があったため、沖縄戦の時は日米両軍が激突し多数の死者を出した所である。 伊江島から本島に戻ってまたW君と合流し、今度はコザ市(現在の沖縄市)に向かった。
 
ここは米軍の駐留によってできた市だけあって、街を歩けばアメリカ兵としょっちゅう出会う。そこを拠点として、沖縄に来る前にアポイントメントを取っていた「米空軍嘉手納基地」を訪問した(これはフジテレビの先輩を通じ、共同通信の方のご尽力で実現したものである)。 今はよく覚えていないが、案内してくれた米軍の将校は、いたって丁寧で親切に我々に接してくれたと思う。
それよりも私が印象に残っているのは、その晩だったか、独りでコザ市内のスナックバーに立ち寄った時のことだ。席に座ると、すぐ隣りで黒人米兵がビールを飲んでいた。当時はベトナム戦争の真っ最中だったので、嘉手納基地に近いコザ市にも待機中のアメリカ兵が沢山いたと思う。私もビールを飲みながら、拙い英語で黒人米兵に話しかけてみた。すると彼は「もうすぐ、ベトナムに行くよ」と語った。何を話したかよく覚えていないが、そのうちに彼は店の人にある曲をリクエストした。それはサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』だった。 黒人米兵と私は静かにこの曲に聴き入ったのである。哀調を帯びた“ジプシー”のメロデイーが店内に流れる。『ツィゴイネルワイゼン』が終わると、私は彼と別れ店を出た。
 
1週間ほどの沖縄旅行だったが、帰りに私は初めて「飛行機」に乗った。来る時は二昼夜の船旅だったので、帰りはいたって快速・快適だった。JALのスチュワーデスさんも「飛行機は初めてですか?」などと優しく微笑んでくれる。ただし、強行日程だったのでW君も私もクタクタに疲れた。
その後 折にふれ、私はあの黒人米兵のことを思い出した。彼はベトナムへ行ってどうなったのだろうか。あの『ツィゴイネルワイゼン』が蘇ってくる。しかし、そんなことを考えても詮方ないが・・・
その後、私は仕事などの関係で何度も沖縄に行った。何度行ったか覚えていないが、本土復帰前に行った初の沖縄旅行を決して忘れることができない。


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