ここでもう一度、田中正明の著書の中にある人口問題についてふれている個所を見てみる。
「この国際委員会は、日本軍が入城した十二月十三日から翌年の二月九日までのあいだに、日本大使館および米・英・独大使館あてに、六十一通の文書を手交または発送している。主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。まぎれもなくこの六十一通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この六十一通の文書は徐淑希博士の『南京安全区トウ(管理人注-木偏に當)案』とマンチェスターガーディアンの特派員ティンパーリーの『戦争とはなにか』の中に全文おさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
この文書の中に、三回にわたって、安全区内の難民の総人口は二〇万人であると記述されている。米副領事エスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、南京の人口は、二〇万人と記録されている。」(注1)
「日本軍の虐殺によって、南京市民の人口が減少したというならわかる。ところが実際は減少したのではなく、逆に急速に増加しているのである。
次の表をごらん願いたい。これは前にも述べた第一級の同時資料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使等にあてた六十一通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。国際委員会としては、難民に食料供与をするため、人口の掌握が必要である。
次の表をごらん願いたい。これは前にも述べた第一級の同時資料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使等にあてた六十一通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。国際委員会としては、難民に食料供与をするため、人口の掌握が必要である。
十二月十七日、二十一日、二十七日にはそれぞれ二〇万と記載していたのが、一月十四日になると五万人増加して二五万となっている。以後二月末まで二五万である。これはいったい何を意味するか。それは、南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。
民衆は不思議なカンを持っており、独自の情報網があるから市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が、誘い合せて続々と帰りはじめたのである。南京占領後、虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は六週間にわたって続いた(東京裁判)、などということは真赤なウソであることが、これをもっても証明されよう。だいたい治安の悪い、大虐殺の地獄のような街に、どうして民衆が続々帰還して来るであろうか。」(注2)
前者には、「この文書の中に、三回にわたって、安全区内の難民の総人口は二〇万人であると記述されている。米副領事エスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、南京の人口は、二〇万人と記録されている。」とあり、後者では、「国際委員会としては、難民に食料供与をするため、人口の掌握が必要である。」、「十二月十七日、二十一日、二十七日にはそれぞれ二〇万と記載していたのが、一月十四日になると五万人増加して二五万となっている。以後二月末まで二五万である。」とあり、田中自身も安全区の人口が20万人であることを実は述べているのである。
つまり、20万人から25万人に増えた人口は安全区のものであり、南京全体の人口ではないのである。田中は、「この文書の中に、三回にわたって、安全区内の難民の総人口は二〇万人であると記述されている。米副領事エスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、南京の人口は、二〇万人と記録されている。」として、「安全区の人口=南京全体の人口」としているのである。もし、田中のように「安全区の人口=南京全体の人口」としてしまえば、南京では安全区以外は無人であったということになるのである。しかし実際にはそのようなことはなく、安全区に逃げ遅れた一般市民や自分の家・土地に愛着を持ち逃げなかった人びとが日本軍によって殺害されている。これらについては、南京戦に参加した部隊の陣中日誌や将兵の日記などにも書かれている。
それに加えて、もし、南京の人口が元々20万人であったのなら、後で増えた5万人は何処にいたのか、どこから安全区に入ってきたのか、という疑問が出る。南京内で安全区以外に難民がいたからこそ、後で5万人の難民が安全区に入ってきたのである。前回のラーベの日記にも、「難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。」とある。ここから考えても「安全区の人口=南京全体の人口」とする田中の考えは明らかに間違っていると思われる。
結局田中が行ったのは、「安全区の人口=南京全体の人口」とすることによって、南京は人口が5万人増えたので、日本軍による虐殺はなかった、日本軍による治安は良かったとして、南京事件を否定することであった。
(注1)田中正明『南京事件の総括-虐殺否定十五の論拠』(謙光社 1987年3月7日)160-161頁
(注2)田中正明前掲 163頁