南京事件に関する「ニューヨークタイムズの報道-その2
1937年12月17日
日本軍、三路に分かれ中国軍前線に進撃中
一九三七年十二月十七日
◇長江北岸から杭州に伸びる 半円形の新防衛線 ◇山東の軍隊投降 ◇本日南京に正式入城 旧首都は惨状を呈す ハレット・アベンド
《ニューヨークータイムズ》特電
十二月十七日、金曜日、上海発。
本日の南京正式入城の式典も待たずに、日本軍は、三路に分かれて追撃戦を開始した。中国軍は全三〇個師団、すなわち兵力三〇万と推定され、全長約二二〇マイルに達する長大な半円形の新前線を構えている。
中国軍の新前線は、江陰要塞の対岸、長江北岸の揚州付近から南京の西北、津浦鉄道上の徐州を通り、次いで無為近くを南に下り、銅陵付近で長江を渡る。それから前線は浙江省のもっと前から構築されてきた中国軍前線に合流する(杭州湾まで伸びる)。
日本側の主張では、日本軍はすでに浦口の北、鉄道沿線の浦鎮と鳥衣を占領し、さらに南京の東四〇マイルの鎮江付近で長江を渡河した一軍はすでに泰興を占領し、和県付近で渡河した一軍は安徽省内の中国軍前線を脅かしている、という。
「不幸な事件」を悔やむ
南京への勝利の入城の数時間前に、日本の松井石根大将は用意された声明を発し、勝利の栄光は米英艦船に対する「きわめて不幸な事件」によって損なわれた事実を言い、そしてこう言った。
「私は心の底からこれを悔やむものである。」
松井大将は、日本軍は南京入城に示された陸・海・空戦力の成功ではまだ満足するものではない、と宣言した。彼は、「東亜の永続的な平和確立のための現下の討伐戦」を断固としてやりぬくという目的を、繰り返し言明した。
南京陥落はすでに厭戦気分の華北戦線の中国軍の士気に甚大な影響を与えている。山東省西部では八〇〇〇人の一軍が降伏し、このほか山東省および河南省南部の諸軍合計九〇〇〇人が銃を捨てた。
昨日、南京の日本軍司令部は、南京城内で一万五〇〇〇人以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士二万五〇〇〇人がいると信じられている。
昨日、日本の陸海軍報道官はいずれも、近く広東省その他華南で展開と伝えられる日本軍の作戦についてなにも知らない、と否定した。広州地区における日本の飛行機の活動は、パナイ号爆撃事件が珠江の米砲艦に対して再現されるのではないかという危惧の念を生んでいるが、と指摘されると、日本の一報遺官は、長江のみならず全中国においてパナイ号事件再発予防の措置がとられている、と熱を込めて語った。
(今朝、ニューヨーク・タイムズは以下の電報を受け取った。香港で伝えられるところによれば、広州の中国当局は、日本軍部隊を乗せた輸送船八隻が広東南沖に来たり、海南島・マカオ間で認められるという船上生活者(蛋民)の報告に狼狽している。だが、この報告は割り引いて受け取る必要があろう、と。)
新「北京」政権は、すでに天津、秦皇島、塘沽、山海関の各海関行政を障害なく接収した。北平の行政委員会主席王克敏は、各海関監督と職員は静かにこの変化を受け入れたと発表した。
関税率大幅引下げ
関税収入担保の全借款は「当然、公正に処理されるだろう」と言明された。関税は下方修正の見込みで、日貨排斥を意図して設定されたとされる税率は大幅に引き下げられるが、一方、門戸開放、機会均等、諸列強権益の尊重を誓う旨も、繰り返し述べられた。この誓約は満州国成立初期を思い起こさせる。
上海では、当地海関の地位確定が遅れているのは計画的なもので、新北平政権が山東、江蘇北部を通って南に力を伸ばし、長江デルタ地帯にも統治権を主張するときに備えているのだろうと考えられている。
察哈爾、綏遠の新蒙古政権は、昨日、北平政権の「自発的樹立」を祝賀した。
南京に入城
十二月十七日、金曜日、上海発(AP)。日本の陸海軍両司令官は、本日、中国の陥落した首都南京に勝利の入城を行う予定である。
日本の中支那方面軍司令官松井石根大将と支那方面艦隊司令長官長谷川清中将は、今日午後、南京入城を行う。陸軍指揮官のほうは東の有名な中山門から入城し、海軍指揮官のほうは北の江岸下関門(ユイ(管理人注-手偏に「邑」江門)-中国軍の最後の抵抗地から入城する。
南京付近から日本軍の三軍が、以前は戦禍を免れてきた地方へ歩行北上中である。一軍は歴史的な大運河沿いに進撃中、多くの富裕で大きな町を脅かしており、その多くにはアメリカ人宣教師が残留している。日本の航空戦力は遥か内陸にまで破壊攻撃をかけた。
上海付近で日本の輸送船に乗った軍隊は華南に送られるか、南京脱出後の中国政府所在地の一つ漢□へ向けて長江を遡江していく、と見られている。日本軍は広東省海岸から華南作戦を行い、英領香港から中国内地に至る鉄道、公路を切断する計画である、と繰り返し報じられた。日本側は、このルートで中国は武器を受け取っていると主張している。
日本軍は、上海戦末期に中立国民の安全区であった上海南島の中国人地区を接収した。彼らは、日本軍歩哨の手首を撃った中国軍狙撃兵を捜し出そうと戸別捜索を行った。
屍体の散乱する南京
十二月十六日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP)。かつてその繁華を謳われた中国の古都は、いまや町が被った砲爆撃と激戦により殺された防衛軍兵士および一般人の屍体が散乱するありさまだ。
町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が脱ぎ捨てて平服に着替え、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。
日本軍の猛攻に中国軍の防衛が崩壊し、南京から退却する間、少数の中国兵による散発的略奪があったが、彼らが去った後は少数の日本兵による略奪が行われた。
日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないよう努めてきた。一〇万以上の中国人が地区内に避難した。
中国軍の安全区退去が遅々としていたにもかかわらず、日本軍は地区内を攻撃しなかった。迷い弾が少々落下し、数名が死んだだけであった。
中国警察の多くは制服を脱ぎ捨て、下着のまま古い平服を捜し回っていた。
アメリカ大使館の見張りが武器携帯のゆえに処刑されないように、AP記者のC・Y・マクダニエルは拳銃を取り上げ、彼を館内に入れた。恐らくこれが見張りの命を救ったのであろう。(南京事件調査研究会『南京事件資料集 ① アメリカ関係資料編』(1992年10月15日))414-417頁