20253月11日の天声人語に、小生の知っている新聞記者が紹介されている。小生がその記者とお会いしたのは、6年くらい前だろうか。はっきりとは覚えてはいない。大槌町で一人で新聞を発行している人の調査を小生が行ったときに、その発行者の女性が紹介してくれた。小生が連載の「てんでんこ」を読んでいると切り出したのが、きっかけで「すぐ近くにいるから」と電話で呼んでくれた。ばりっとしたスーツに身を包み、なにか近寄りがたい感じの人かと思わないものの、なにか大記者というイメージから近寄りがたい雰囲気を持っている人かと思えば、まったくその逆だった。きれいとは言えない薄汚れた帽子をかぶり、よれよれの服に身をまとっていた。天声人語と同じ印象だった。被災者と同じ目線で、同じ感覚でいまでも被災地に寄り添っている感じというよりも、うまく説明ができないが、「寄り添っています」オーラさえ感じる人だった。記者とはそういう人というこというのだと、外観からあらためて教えてくれた人だった。
きょうは18度まで気温が上がったようである。外に出てみると、肩の力が抜けた。暖かいと本当に楽だ。このまま春が来るとは思えないが、もうすぐそこまでせのびできる春がきていることだけは、まちがいない。
昨日(3月8日)この東北大学にて、社会情報学会東北支部学会が開かれました。支部長としてなんとかみなさんの力添えをいただきながら、無事終えることができました。ありがとうございました。学会の第一部では、ロンドンから来ていただいた研究者による多文化共生のリスクコミュニケーションについて議論しました。言語の問題、文化の問題なとざざまな知見を披露していただいました。ありがとうございました。また第二部では若手研究者によるメディアなどに関する研究発表がありました。どの研究発表も刺激的なものでした。ミニシンポジウムに登壇いただいた方々、そして研究発表していただいた方々、ありがとうございました。感謝申し上げます。
東日本大震災からまもなく、14年を迎える。毎年、この時期小生は被災地を訪れている。被災地は年々風景が変わる。しかし、最近はその風景もあまり変わらなくなってきた。というのも、復興もひと段落したからだろう。今年もきのうから気仙沼市に滞在している。そこで気仙沼市に来たとき、必ず食べに行くホルモン屋さんがある。以前定宿にしていたホテルの近くにあり、おせいじにもきれいとはいいがたいが、なによりも80歳に届こうとするおばちゃんの人柄に足が向くのである。以前3泊したときは、3日間通ったこともあった。ビールにホルモン、「今夜はちがうところにするか」と思いつつもおばちゃんの笑顔を思い出し、つられてつい暖簾をくぐる日が続いた。常連の中には、当時私のような県外客も珍しくなく、沖縄、九州、関西、関東など全国から復旧・復興工事などのために、気仙沼を来た人たちがおばちゃんのホルモンに舌鼓を打った。
3年位前から定宿を変えた。お風呂が大きくとよかったのであるが、ベットが固くて寝苦しくなったから変えたのだ。それでもタクシーで2000円かけておばちゃんのホルモンを食べに通った。きのうもそうしたのであるが、私は知らなかったが近くにあったホテルが去年の12月に閉館したという。おばちゃん曰く「プレハブで作ったホテルで、全国各地の必要な場所があれば時限的にホテルを作って、不必要になれば閉館してほかの場所にいくのよ」とのこと。恒久のホテルではないのだ。なるほど。そういえば、骨組みが見えるようないかにも簡易な組み立ての建物、鉄板に上に敷き詰めただけのカーペットだった。
問題はホテルが閉館した周辺地区の影響だ。ホテル客をあてにしていた飲食は何軒かあった。おばちゃんのホルモン屋さんもそのひとつだ。すっかり客が来なくなったという。きのうも私が入ったときに一人いたが、その後はずっとひとりだった。
復興が進み、それに伴って工事業者も来なくなり、宿泊施設も必要なくなる。不必要となれば、客を求めて、また別の場所にホテルを作る。
非日常から日常に戻るプロセスかもしれないが、毎年通っている小生からするとなにか、さみしい感じは否めない。
東日本大震災は、自分にとっても人生の変わり目となった震災であった。毎年思うが、この震災がなければ自分の人生はどうなっていたのか。そう考えると本当に人生なんてわからないものだ。2011年8月31日で28年間勤めていたテレビ局を退職し、翌年新潟大学大学院に入り、5年後に博士の学位を取った。その学位を取得したテーマは、東日本大震災による臨時災害放送局の実証研究である。今考えるとよく頑張って書き上げたと思う。新潟からひたすら被災地に向けて車で走り、臨時災害放送局の実態を調べ、関係者に話を聞き、自分なりにまとめたのだ。研究者というよりも記者活動の延長のような活動だったような気がする。でもなぜそんなエネルギーが出たのか。それは阪神淡路大震災以降感じていたテレビ局の災害報道というものが、私の中でどうしても租借できずにいたテレビ局報道に対する考え方の反発心であった。反発心が大きな論文を書くエネルギーになったのである。小生はもっと被災者に寄り添う報道をすべきであるとの考えていたが、実際のテレビ局の報道現場は被災状況を伝えることに力点を置き、まるで被災地を見世物にするようなニュース作りだった。そうした報道体制をどうしても理解できず、ずっとうっぷんが鬱積して東日本大震災で爆発して退職に至った。爆発したエネルギーは、研究に向かい論文の執筆に向かった。自分の中に鬱積したエネルギーが被災地へと向かわせた。退職した自分の考えを証明したくて、必死になって博士論文を書いた。この間、たった5年間のことである。東日本大震災がなければ、どうしていたのだろう。小生にとって、3・11とは自分の人生を大きく転換した日の節目の日である。