http://web.archive.org/web/20170502033805/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/704.html
「トーマス・マンと辻邦生」
http://wohl.exblog.jp/3810115/
表題はトーマス・マンと三島由紀夫、北杜夫、辻邦生ら,とした方がいいかもしれません。誰でも最初は文体の模倣から始まるのです......
世界の終わりと始まりの狭間
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1617
永遠がやってくると、
世界はすべて点の中に入る。
なぜなら、永遠の中ではすべての長さは限りなくゼロに近くなるからだ。
創造はこの限りなくゼロに近い無限小の場所から始まる。
この大宇宙を点の中に畳み込むこと。
137億光年をプランク半径と同一視すること。
――点が円環を内包したとき、聖母マリアはイエスを懐胎する
まるにちょんが入るのだ。
そして、君は聞く。
永遠ってどこにあるの?
僕は言う。
目の前さ。
目の前?
そう、見ること自体が光であるということに気づいたとき。
見ること自体が光?
そう。僕らは光でモノを見ているんじゃなくて、光自体が見ることだということさ。
ということは、見ることって光速度の中にいるってこと?
そうだよ。
じゃあ、遠くの星は今の光なんだ。
もちろんさ。
よかった。僕の好きなカシオペア座も今あそこにあるんだね。
はは、当たり前さ。いつでも「今」なんだから。
じゃあ、「今」から何をすればいいの?
たくさんの「今」を集めることだよ。
そっか、みんなを「今」にしちゃえばいいんだ。
うん、そうしたら、本当の未来がやってくる。
以上は......
http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=2375から
関連記事:トーマスマンと辻邦生
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/678.html
トーマスマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3
トーマス・マン について (辻邦生著・岩波書店)
こうした一人称複数で示される語り手、こそは、つねにこのパノラマ的な魔の山の物語空間をはいかいする真の霊であって、物語的興味が緊迫し、高まっているときは、絶対に姿をあらわさず、いわば、情景をスクリーンに描くごとく直接に提示しながら、しかし一度そうした高揚感がクライマックスを経て鎮静に向かうと、そのエネルギーの低下を支え、高揚感を別の形で引き伸ばそうとするかのように、私たちは、という一人称で物語の中に介入してくるのだ。
しかしこうした語り手の、存在は、本来なら、対象の向こう側の、見えない部分として放置しておいても、、小説的世界の造形には、様式的にはほとんどかかわってこない部分まで、物語のロマネスクな対象として、引き出したばかりでなく、そうした生についての微細で透徹した認識こそが、この作品の本質部分を形成するものとなったのであった。
まさにこの微細で透徹した認識を向けられた生こそが、前述のドイツ市民性ーーー教養と所有、という二大支柱に支えられた安定したドイツ市民性なのであった。
これはすでに「トニオ・クレーゲル」以来、トーマス・マンがそこに文学創造の基盤を置き、それと精神の対立をつねに小説の主題にしてきたもっとも包括的な、多様な問題を含んだ、複合概念であり、映像の塊であった。それは「ブッデンブローク家の人々」では芸術家気質を呼び出す基盤として、その解体の過程が示されたものであり、その後、さらに精神的な孤立を克服する生産的な媒体として意識されたものであった。その生が精神のほうに近づいていくとは、生が死や病気や芸術や、時には科学的認識の中に入ることーーーーつまり、生が直接態の生活様式を抜け出して、自らを反省し、ほかを一段と高い場所から眺める間接態、高次的位置へ、身をおくようになることである。
それがごく自然な形で行われるとき、人々は教養と所有に支えられながらも、なお生そのものの意味を疑うことなく、存在はしかるべき存在とみなされ、価値体系は不変の安定したものとして、生を律しているのである。
しかし、やがてこうした直接態として、生は自己の中に安住し、ぴったり適合している状態に、疑問を感じるようになる。ハンスカストルプが眺める死や病気、非日常的生活環境とかは、トーマス・マンが「トニオクレーゲル」の段階では、健全な人々ーーー凡庸だが、幸福に満たされた人々ーーーーーとみなすことのできたドイツ市民社会の中間階級を、単純にそうした外見から、一面的にシンボライズすることを、許されなくなり、複合した市民の内実を、徹底的に分析していくという態度へと、マンを駆り立てることになった。
ーーー中略ーーーー
このように所有と教養に支えられたドイツ的市民性は、根底にデモーニッシュな混沌をたたえた非政治的な、個人的な概念の中で把握されたものであり、トーマス・マン は、こうした思考の道筋をたどって、その市民性を支えている根源の生、の考察に入っていく。
トーマス・マン にとっては、このデモーニッシュなもの、は生を駆動する力、として把握されている。それは、マンが、「小男フリーデマン氏」という作品以来、繰り返し書いたように生そのものを簡単に破滅させてしまうものでもある。が、しかし同時に、生の根底にあり、生を果てしなく動かし、活気付け、生に内包された可能性の実現へと駆り立ててゆく存在でもある。
マンはドイツ的な市民的形態の中にこうしたデモーニッシュなもの、非合理なものを深く認識するゆえに、それを鎮静するものとして、理性を考え、日常への慰撫的適応として、教養・文化をとらえているのである。
いかなる進歩のユートピアでも、理性による地球の神聖化でも、あらゆる社会的幸福の夢を成就してみせるがよい、平和なエスペラント世界を実現してみるがよい。白い服を身にまとい、理性を信仰し、国家がなくなってひとつの世界に棲み、同じ言語をはなし、技術の最高の発展段階に到達し、電気仕掛けではるか遠くの出来事を眺めている人類、。その頭上を空中バスが轟音をたてて飛び交う世界。そういう世界を実現してみるがよい。
たとえそうなっても芸術はいき続けるであろう、芸術はその世界の一角に不安定な要素として残り続け、古きものを志向し、逆戻りの可能性を保持しつづけるであろう。芸術は、情熱と非理性的事柄について語り、情熱と非理性的な事柄を表現し、培養し、礼賛し、根源的思考や、根源的衝動に、たとえば戦争の思想と戦争への衝動に敬意を表し、それを目覚めさせておくか,強い力で再び、目覚めさせるかするだろう。・・・芸術を禁止することは誰にもできないだろう。なぜならそんなことをすれば、自由に反することになるからだ。それとも、人類は、絶対主義のもとで、理性と美徳と幸福との専制支配のもとで生きることになるだろうか?要するに、芸術が存在する限り、戦争や反動的性質を帯びた英雄的精神や、非理性のあらゆる非道は、依然として、人々の頭にありつづけるのであって、それゆえ可能であり続けるであろう。そして、人類が行き続ける限り、芸術もいき続けるのであって、芸術の生命の終わりは、すなわち、人類の終わりなのである。
「非政治的人間の考察」
マンのこの膨大な論及の書は、西欧的な文明的尺度による評価に対する徹底的な抗議であり、否認であった。その論拠には、ハイデッガーと同じく「評価は主観化」であり、真の人間存在の無数の可能性と自由のなかから、ただ理性=進歩=美徳の価値を選んだに過ぎず、こうした、価値も、それ自体が絶対化され、自らを価値の根拠とすれば、それがよって来たった根源の真理への通路がふさがれることになり、人間は、その浅薄で主観かされた基準によって、裁断され支配されることになる。こうしたうっ血状態もしくは、貧血状態を突破して、つねに人間をその本来の生命のなかにおき、たえず、「存在の真理の明るみを思考のまえにもたらす」ためにはこのデモーニッシュな」、非理性的なものを含む人間の全体がつねに呼び出されていなければならない。
表題はトーマス・マンと三島由紀夫、北杜夫、辻邦生ら,とした方がいいかもしれません。誰でも最初は文体の模倣から始まるのです......
世界の終わりと始まりの狭間
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1617
永遠がやってくると、
世界はすべて点の中に入る。
なぜなら、永遠の中ではすべての長さは限りなくゼロに近くなるからだ。
創造はこの限りなくゼロに近い無限小の場所から始まる。
この大宇宙を点の中に畳み込むこと。
137億光年をプランク半径と同一視すること。
――点が円環を内包したとき、聖母マリアはイエスを懐胎する
まるにちょんが入るのだ。
そして、君は聞く。
永遠ってどこにあるの?
僕は言う。
目の前さ。
目の前?
そう、見ること自体が光であるということに気づいたとき。
見ること自体が光?
そう。僕らは光でモノを見ているんじゃなくて、光自体が見ることだということさ。
ということは、見ることって光速度の中にいるってこと?
そうだよ。
じゃあ、遠くの星は今の光なんだ。
もちろんさ。
よかった。僕の好きなカシオペア座も今あそこにあるんだね。
はは、当たり前さ。いつでも「今」なんだから。
じゃあ、「今」から何をすればいいの?
たくさんの「今」を集めることだよ。
そっか、みんなを「今」にしちゃえばいいんだ。
うん、そうしたら、本当の未来がやってくる。
以上は......
http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=2375から
関連記事:トーマスマンと辻邦生
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/678.html
トーマスマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3
トーマス・マン について (辻邦生著・岩波書店)
こうした一人称複数で示される語り手、こそは、つねにこのパノラマ的な魔の山の物語空間をはいかいする真の霊であって、物語的興味が緊迫し、高まっているときは、絶対に姿をあらわさず、いわば、情景をスクリーンに描くごとく直接に提示しながら、しかし一度そうした高揚感がクライマックスを経て鎮静に向かうと、そのエネルギーの低下を支え、高揚感を別の形で引き伸ばそうとするかのように、私たちは、という一人称で物語の中に介入してくるのだ。
しかしこうした語り手の、存在は、本来なら、対象の向こう側の、見えない部分として放置しておいても、、小説的世界の造形には、様式的にはほとんどかかわってこない部分まで、物語のロマネスクな対象として、引き出したばかりでなく、そうした生についての微細で透徹した認識こそが、この作品の本質部分を形成するものとなったのであった。
まさにこの微細で透徹した認識を向けられた生こそが、前述のドイツ市民性ーーー教養と所有、という二大支柱に支えられた安定したドイツ市民性なのであった。
これはすでに「トニオ・クレーゲル」以来、トーマス・マンがそこに文学創造の基盤を置き、それと精神の対立をつねに小説の主題にしてきたもっとも包括的な、多様な問題を含んだ、複合概念であり、映像の塊であった。それは「ブッデンブローク家の人々」では芸術家気質を呼び出す基盤として、その解体の過程が示されたものであり、その後、さらに精神的な孤立を克服する生産的な媒体として意識されたものであった。その生が精神のほうに近づいていくとは、生が死や病気や芸術や、時には科学的認識の中に入ることーーーーつまり、生が直接態の生活様式を抜け出して、自らを反省し、ほかを一段と高い場所から眺める間接態、高次的位置へ、身をおくようになることである。
それがごく自然な形で行われるとき、人々は教養と所有に支えられながらも、なお生そのものの意味を疑うことなく、存在はしかるべき存在とみなされ、価値体系は不変の安定したものとして、生を律しているのである。
しかし、やがてこうした直接態として、生は自己の中に安住し、ぴったり適合している状態に、疑問を感じるようになる。ハンスカストルプが眺める死や病気、非日常的生活環境とかは、トーマス・マンが「トニオクレーゲル」の段階では、健全な人々ーーー凡庸だが、幸福に満たされた人々ーーーーーとみなすことのできたドイツ市民社会の中間階級を、単純にそうした外見から、一面的にシンボライズすることを、許されなくなり、複合した市民の内実を、徹底的に分析していくという態度へと、マンを駆り立てることになった。
ーーー中略ーーーー
このように所有と教養に支えられたドイツ的市民性は、根底にデモーニッシュな混沌をたたえた非政治的な、個人的な概念の中で把握されたものであり、トーマス・マン は、こうした思考の道筋をたどって、その市民性を支えている根源の生、の考察に入っていく。
トーマス・マン にとっては、このデモーニッシュなもの、は生を駆動する力、として把握されている。それは、マンが、「小男フリーデマン氏」という作品以来、繰り返し書いたように生そのものを簡単に破滅させてしまうものでもある。が、しかし同時に、生の根底にあり、生を果てしなく動かし、活気付け、生に内包された可能性の実現へと駆り立ててゆく存在でもある。
マンはドイツ的な市民的形態の中にこうしたデモーニッシュなもの、非合理なものを深く認識するゆえに、それを鎮静するものとして、理性を考え、日常への慰撫的適応として、教養・文化をとらえているのである。
いかなる進歩のユートピアでも、理性による地球の神聖化でも、あらゆる社会的幸福の夢を成就してみせるがよい、平和なエスペラント世界を実現してみるがよい。白い服を身にまとい、理性を信仰し、国家がなくなってひとつの世界に棲み、同じ言語をはなし、技術の最高の発展段階に到達し、電気仕掛けではるか遠くの出来事を眺めている人類、。その頭上を空中バスが轟音をたてて飛び交う世界。そういう世界を実現してみるがよい。
たとえそうなっても芸術はいき続けるであろう、芸術はその世界の一角に不安定な要素として残り続け、古きものを志向し、逆戻りの可能性を保持しつづけるであろう。芸術は、情熱と非理性的事柄について語り、情熱と非理性的な事柄を表現し、培養し、礼賛し、根源的思考や、根源的衝動に、たとえば戦争の思想と戦争への衝動に敬意を表し、それを目覚めさせておくか,強い力で再び、目覚めさせるかするだろう。・・・芸術を禁止することは誰にもできないだろう。なぜならそんなことをすれば、自由に反することになるからだ。それとも、人類は、絶対主義のもとで、理性と美徳と幸福との専制支配のもとで生きることになるだろうか?要するに、芸術が存在する限り、戦争や反動的性質を帯びた英雄的精神や、非理性のあらゆる非道は、依然として、人々の頭にありつづけるのであって、それゆえ可能であり続けるであろう。そして、人類が行き続ける限り、芸術もいき続けるのであって、芸術の生命の終わりは、すなわち、人類の終わりなのである。
「非政治的人間の考察」
マンのこの膨大な論及の書は、西欧的な文明的尺度による評価に対する徹底的な抗議であり、否認であった。その論拠には、ハイデッガーと同じく「評価は主観化」であり、真の人間存在の無数の可能性と自由のなかから、ただ理性=進歩=美徳の価値を選んだに過ぎず、こうした、価値も、それ自体が絶対化され、自らを価値の根拠とすれば、それがよって来たった根源の真理への通路がふさがれることになり、人間は、その浅薄で主観かされた基準によって、裁断され支配されることになる。こうしたうっ血状態もしくは、貧血状態を突破して、つねに人間をその本来の生命のなかにおき、たえず、「存在の真理の明るみを思考のまえにもたらす」ためにはこのデモーニッシュな」、非理性的なものを含む人間の全体がつねに呼び出されていなければならない。